作家の読書道 第170回:木内昇さん

移ろいゆく時代のなかで生きる個々人の姿をと細やかに描きだし、深い余韻を与える作品を発表している木内昇さん。2011年には『漂砂のうたう』で直木賞、2014年には『櫛挽道守』で中央公論文芸賞、柴田錬三郎賞、親鸞賞を受賞。誰もが認める実力の持ち主は、少女時代はスポーツ三昧、編集者時代もまったく作家を志望していなかったのだとか。では、どんな本に導かれ、どのような経緯でこの道に進むことになったのでしょう?

その1「将来の夢は野球選手」 (1/8)

  • ぼくは王さま (新・名作の愛蔵版)
  • 『ぼくは王さま (新・名作の愛蔵版)』
    寺村 輝夫
    理論社
    1,296円(税込)
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  • コロボックル物語(1) だれも知らない小さな国 (児童文学創作シリーズ)
  • 『コロボックル物語(1) だれも知らない小さな国 (児童文学創作シリーズ)』
    佐藤 さとる
    講談社
    1,620円(税込)
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  • 点子ちゃんとアントン (岩波少年文庫)
  • 『点子ちゃんとアントン (岩波少年文庫)』
    エーリヒ ケストナー
    岩波書店
    691円(税込)
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――いちばん古い読書の思い出を教えてください。

木内:最初はたぶん耳から入ったんです。幼い頃、家に「不思議の国のアリス」のレコードがあって、その朗読が独特で不思議な声だったんです。間とか呼吸というものを、耳ではじめて感じたという印象があります。それから、祖母がTVで見ていた落語もよく聴いていました。その頃は夕方の時間帯に落語の番組があって、私はアニメを見たいのにチャンネル権は祖母にあったので、当時は落語があまり好きではなかった(笑)。ただ落語家独特の間とか呼吸を、自然に耳で覚えた気がします。
うちは本が全然ない家だったんです。両親がそんなに本を読まなかったので、家にある本や絵本を読むということはなかったですね。本を読みはじめたのは図書館で借りるようになってから。小学校低学年で寺村輝夫の『ぼくは王さま』という卵焼きが好きな王様のシリーズや、佐藤さとるの『だれも知らない小さな国』のコロボックルシリーズを愛読していました。ただその頃から、子供向けの本よりも、一般書に興味を持っていったように思います。

――そんなことを思うとは、早熟だったんでしょうか。

木内:普通の公立の小学校に通っていたんですが、学年のはじめに先生がセレクトした本をのせた課題図書のプリントが配られて、年間そこから40冊読んで感想文も書かなきゃいけなかったんです。先生が選ぶ本だから「子供はこうあれかし」みたいな雰囲気のものも含まれていたと思うんですよね。なにか強制されて読まされている気がして少し抵抗があったんです。だから自分で読むものは、そのプリントには絶対載らないような本を選ぼう、と。変な反骨精神です。例えば井上靖『天平の甍』や山本有三『路傍の石』など、どちらかというと渋い、子供向けではないものを選んでいました。どこまで分かって読んでいたのだか、不明ですが。

――そのプリントに載っていた本がよっぽど教条的だったんでしょうか。

木内:そうでもなかったかもしれません。『点子ちゃんとアントン』とかもあったし、結構バランスよく選ばれていたと思うんですけれど、ただ人に押し付けられるのが嫌だったんですよね。人が「いいですよ」というものを素直に信じてそのまま受け入れるのはつまらなかった。やっぱり本って、選ぶ段階から楽しいものですし。

――独立心が強いお子さんだったのでしょうね。

木内:んー、そうみたいですね。親に言われるのが、とにかく一人でいるのが好きで、雷が鳴ると弟は「怖い」と言って父や母の布団にもぐりこむような子でしたが、私は全然平気だったようです。一緒に買い物に行って親が手を繋ごうとすると自分から外そうとしていたって(笑)。子供のくせに可愛げがなかったらしいですね。

――まわりと比べてとりわけ読書家な子供でしたか。

木内:それはないですね。その頃は読書ってそんなに特別なものじゃなくて、みんな比較的たくさん読んでいましたし、本好きな子も多かったですから。そんなにテレビを自由に見られるわけじゃなかったし、ネットもなかったから、本を読むことが大きな娯楽だったんでしょうね。でも私の場合は、圧倒的に外で遊んでいる時間が多かった。本当に命懸けで外で遊んで(笑)、野球もよくやっていましたし。

――野球ですか。

木内:小学生の頃は野球選手になりたいと思っていたので、どうしたらなれるのかを日々真剣に考えていました。近くの少年野球チームに「入れてください」って何度も頼みに行ったんですけれど、女子は駄目だって言われて。...という時期だったので、とにかく放課後はキャッチボールをしたり、外で遊びまくっていました。小学校の頃の友達とはいまだに仲がいいんですけれど、「ボール遊びをしていたイメージしかない」と言われます。

――さきほど幼い頃よく落語を聞いていたとのことでしたが、文章のリズム感などの影響はあると思いますか。

木内:それはすごく思いますね。幼児教育を学んでいる友人が、子供の国語教育は最初は目より耳から入るのがいいと言っていたのを聞いて、自分は落語がインプットされちゃったのかなと思いました。それが小説にどう影響しているかは分かりませんが、リズムとか間みたいなものは自分の中に刻まれている気がしますね。

――木内さんの文章の心地よさは、そういうところの影響もあるのかなと思いました。

木内:そういえば中学校の頃は、向田邦子のドラマもよく見ていたので、その影響もあるかもしれません。「あ・うん」をはじめ、行間に多くのものが詰まっている脚本でしたし、深町幸男の演出がなにしろ素晴らしかった。でも、大人の機微みたいなものは当時は分かりませんでした。なんでここで切なくなるのかとか、なんでここで泣くのかとか、分からないなりに見ていて、ただそのシーンを結構憶えていて、後になって「あ、こういうことだったのか」と回想して追体験する、ということもありました。それほど印象に残るドラマが多かったんです。

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プロフィール

一九六七年東京生まれ。出版社勤務を経て、二〇〇四年に『新選組 幕末の青嵐』で小説家デビュー。一一年に『漂砂のうたう』で直木賞を、一四年に『櫛挽道守』で中央公論文芸賞、回柴田錬三郎賞、親鸞賞を受賞する。他の著書に『茗荷谷の猫』『浮世女房洒落日記』『笑い三年、泣き三月。』『ある男』など。