第170回:木内昇さん

作家の読書道 第170回:木内昇さん

移ろいゆく時代のなかで生きる個々人の姿をと細やかに描きだし、深い余韻を与える作品を発表している木内昇さん。2011年には『漂砂のうたう』で直木賞、2014年には『櫛挽道守』で中央公論文芸賞、柴田錬三郎賞、親鸞賞を受賞。誰もが認める実力の持ち主は、少女時代はスポーツ三昧、編集者時代もまったく作家を志望していなかったのだとか。では、どんな本に導かれ、どのような経緯でこの道に進むことになったのでしょう?

その5「編集者になり、個人で雑誌をつくる」 (5/8)

――そして卒業後は出版社に就職されて。

木内:はじめは『sassy』というアメリカのティーン誌の日本版を作っていました。その頃はマガジンハウスの一階にワールドマガジンギャラリーという海外の雑誌が揃っているスペースがあって、そこに行って『ピープル』などの雑誌からゴシップネタを拾ってきて記事を書いたりもしましたね。編集部で私が一番高校生の年齢に近かったので、彼らの声を聞くような役目は私にまわってきたんですが、それもすごく面白かったです。最初の上司が「とにかく自分の目と足で確かめて企画を出しなさい」という人だったので、見聞も広がりました。厳しい上司でしたが、本当に勉強させていただきました。今も編集部時代の先輩たちと話すと、新人の頃の私の失敗話がよく出ます。
その編集部には3年ほどいました。その後情報誌に移って、そこはルーティンの情報をずっと紹介し続けるだけだったので、30歳を前にして「このままでいいのかな」と考えてしまって。それが1997年で、ちょうど力のあるミュージシャンがワーッと出てきた時だったんです。日本でも中村一義くんとか、くるりやスーパーカーなど、今までにない音楽を作る人たちが登場した。こんなすごい人たちがいるのであれば、自分でインタビューしたい。でも会社の雑誌では難しそうだから、自分で雑誌を作ってみようかと思い、立ち上げたのが『Spotting』という雑誌です。1号限定のつもりで、佐内正史さんに写真を撮ってもらって中村くん特集をやったんです。自分の肩書も出版社名も言わずに「こういうのを出したいんです」と、まったく個人でインタビューをお願いしに行ったら、はじめてお会いしたディレクターの方が「いいですよ」と仰ってくださって、実現しました。本格的なインタビューはそれがはじめてだったので難しさや課題に直面しましたが、1000部限定のその雑誌がすぐに売り切れたんです。じゃあ次も出そうとなった、といういきさつです。

――編集作業もライター作業も、デザインなども全部ご自分でやっていたんですか。

木内:デザインは知り合いの、「この人がいいな」という人にお願いしました。自分は編集周りのこと以外に、広告取りや本が出た時の営業などもやりました。そうやって全部の工程に関わってみると、流通が分かるんですよね。「本ってこういうふうに流れているんだ」と細かいところまで分かってくるので、やってよかったと思っています。

――1000部というと、書店と直取引ですか。

木内:そうだったんですけれど、次の号から部数を増やしちゃったんですよ。個人だと取次コードが取れないので、小さな出版社に委託販売をしました。委託料はとられてしまうけれど、自分で回収するのはほぼ不可能なので、お願いしました。

――なるほど。その後、会社を辞められるわけですよね。

木内:『Spotting』では、いろんなミュージシャンの方を取材することが多かったんです。そうすると、タワーレコードが新譜が出た時に作る小冊子に載せるインタビューを書いてくれなどと、アーティスト側から頼まれるようになって。ミュージシャンが出す書籍をまとめてくれとか、スカパーなど音楽系のチャンネルでインタビューをしてくれとか、仕事の依頼が来るようになりました。『Spotting』は休日に、ほとんど趣味でやっていたし、制作費も持ち出しだったので問題なかったのですが、ほかに副業ができると会社に申し訳ないな、と。副業を断る選択もあったのですが、その時は「ちょっと外に出てみるか」という感じで、会社を辞めたんです。それが31歳くらい。

――よっぽどミュージシャンの方々からの信頼が厚かったということですよね。

木内:いやいや、たぶん暇そうだ、ということで頼まれていたんだと思います。音楽って言葉で説明しづらいですよね。その分、音楽を言葉に置き換える作業が面白くて、「どういうふうにこの音楽を説明すればいいのかな」とか「専門用語はいろいろあるけれど、それだけでは伝わらない何かをどう説明すればいいんだろう」などと、レビューを書く時にあれこれ考えました。それは今、結構役に立っているなと思います。

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