第183回:芦沢央さん

作家の読書道 第183回:芦沢央さん

2012年に『罪の余白』で野性時代フロンティア文学賞を受賞してデビュー、以来巧妙な仕掛けで読者を魅了している芦沢央さん。短篇集『許されようとは思いません』が各ミステリーランキングにランクイン、吉川英治文学新人賞の候補になり、新作『貘の耳たぶ』では新境地を拓くなど、ますます期待の高まる若手はどんな本を読んでその素地を培ってきたのか? 読書愛あふれるその遍歴を語ってくださいました。

その5「デビュー後の読書&著作について」 (5/5)

――『罪の余白』は映画化もされて話題になりましたよね。さて、プロになってから読書生活には変化がありましたか。

芦沢:ああ、変わりました。文体にすごく力のある人の小説はちょっと読みづらくなった部分はあるかもしれません。文体には影響を受けやすいので。それでもどうしても読みたいから読んでしまうんですけど、その直後には書かないようにして、何冊か別の作家の本を読んでから執筆に戻るようにしていたりします。
文体に影響されるというのは昔からだったので、敢えて文体模写をすることもありました。たとえば、「白雪姫」を吉本ばななさんと山田詠美さんと星新一さんの文体で書くというのをやったことがあります。はじめの「鏡よ鏡」のところを「なんなのビッチ」みたいな山田さん風にして、白雪姫と小人が遊んでいるところを吉本さん風で書いて、最後は白い円盤に乗ってきた白い男性が何かする、みたいなオチで星さん風にして、ちょっとどんでん返しをつける。それは遊びというよりむしろ文体を突き放すためで、意識的にいろんな人の文体模写をやって、自分をニュートラルな状態に戻すんです。
あとは、やはり読書量自体が減ってしまいました。少しでも時間があれば書く方に使ってしまいがちなので。
でも、編集者から勧められた本とか、作家仲間から勧められた本など、今まで自分が手に取らなかった本を読むことも増えて、それがすごく贅沢だなと。やっぱりこの業界は読書家が多いので、いろいろ教えてもらえます。
最近だと沢木耕太郎さんの『キャパの十字架』がものすごく面白かったです。ロバート・キャパが撮った写真に、やらせなんじゃないかという疑惑があるんですけれど、沢木さんは徹底的に撮影現場に何度も訪れて、この角度でこうやったらこう撮れるんじゃないかとか、いろんなことを検証して謎を突き詰めていく。もう、ものすごくよくできたミステリーでもあるんですよ。だけど、フィクションではなくノンフィクションだから、少しの不確定要素や推測も許されない、としてものすごく労力をかけて裏を取りに行く。これは米澤穂信さんに勧められて読んだんですけれど、「フィクションってなんだろう」と思いました。フィクションだったらそんなに大変なことをしなくても、面白かったらそう書けてしまうじゃないですか。「そういうことがあったという話です」と書いちゃえばいい。でもノンフィクションは「そうはできない」というところで踏ん張って取材している人たちがいる。フィクションだからできること、ノンフィクションだからできることというものに対して考えるきっかけになりました。
あと、これはプロになったことによる読書生活の変化ではないのですが、ちょうどプロになったのと同じタイミングで出産したことも、読書生活に変化を与えています。子どもに読み聞かせをするために、また絵本をたくさん読むようになってきたんです。これから子どもが大きくなっていくにつれ、もしかしたら自分が幼い頃に読まずにきてしまった児童書を読む機会も増えていくのかもしれないと思うと、それも楽しみです。

――それにしても、常に問題意識を持っていろんなテーマについて考えているし、トリックのアイデアも次々と思い浮かんでいるような印象があります。

芦沢:いやあ、そんなことないですよ。毎回その時その時でやっているものを全部出してしまうので、毎回これで終わりなんじゃないかと思っています。人間いつ死ぬかなんてわからないから出し惜しみしないで書こうと思って、書き始めると「これを書き終えて本を出すまで絶対に死ねない」と思って、出した頃には次の本を書き始めているのでまだ死ねないわけなんですけれど。
でも確かに、今は書きたいアイデアがいくつかありますね。取材を結構するようになって幅が広がったなとは思っています。これまでも資料はすごく読んでいるけれど、対人取材はその相手に気を使って書きづらくなるように思って、あまりしなかったんです。でも、今度の新作のために弁護士に話を聞いたんですね。

――新作の『貘の耳たぶ』ですね。母親二人の心理を克明に追っていく内容ですよね。新生児の取り違えの話ですが、それを実行したのは母親本人という。産院の顧問弁護士が登場しますね。

芦沢:第一稿を書いた時は、その産院の弁護士は産院の悪い評判が立たないように話を持っていく人として書いたんですけれど、その後で弁護士に取材をして「はたしてこの人だったらああいう仕事の仕方をするだろうか」と思って。具体的に弁護士の顔を見たことによって、私が考えていたのは、私が話を展開させやすい人に過ぎなかったと気づいて、ちゃんと生きた人間として書こうと、全部書き直しました。母親から視点を通しての話なので、どうしても産院側の弁護士をいい人物として見えるようには書きにくい。人としていい悪いではなくて、母親に辛いことを言わなければいけない人なんです。それでも、取材した弁護士の方に読まれても恥ずかしくない、人としてきっちりとした書き方をしよう、と思いました。そしてそういう思いで書けるんなら、取材するのも怖くないなと思ったんです。

――そもそも、取り違えをした側とされた側、二人の母親の心理を書こうと思ったのはどうしてですか。

芦沢: 私は1人目を産んだとき、自分が生まれたばかりの赤ちゃんの人生に一生責任を持つのだということに恐れのような感覚を抱いたんです。目の前の赤ちゃんはものすごくかわいくて、とても幸せなのに、だからこそ怖かった。けれど、産院が母親同士のコミュニケーションが盛んで、みんなで不安や疑問をワイワイ口にしあっているうちに肩の力を抜くことができました。でも2人目を産んだ産院が、他の人との交流がほとんどないところだったんですよ。これが1人目の出産だったら辛かっただろうなと感じました。ちょうどその時に、うちの子のネームタグが外れたんです。慌ててつけ直したら、何事もなかったように元に戻って。それまでもアイデア自体はあったのですが、「ああ、書けるかもしれない」と思いました。最初はどんでん返しで「実は母親がやっていました」という話にしようと思っていたんですが、そもそも犯人候補が看護師などの産院側の人間か母親くらいしかいないのでフーダニットだとまったく意外性がないわけです。ホワイダニットにするにしても、動機を伏せて最後まで書くとなると、真相が分かるまで読者はずっと腑に落ちないまま読むことになってしまう。そんなことを考えている頃に、私の父に「今度は母親が取り違えた話を書く」と話したら「母親が自らの子を取り換えるなんてあるはずがない」と言われたんです。確かにそう思うけれど、でも、いろんな歯車がちょっとずつ掛け違えればそういうことが有り得る、という話を細かくしているうちに、「これ、書かないと伝わらないな」と分かって。
産後ってホルモンバランスがものすごく変化するんですよね。生理の時の変化がビル20階分だとすると、産後の変化はエベレストくらいの高さになるらしいんです。だから当然、精神的にも不安定になる。心が弱いとかそういうことではなくて、身体としてものすごい変化が起こっているということ。父親にそういうことを話しているうちに、今度は産後すぐに取り換えたことよりも、取り違えが発覚するまでの数年間のほうが不思議だなと思うようになって。初めはバレたくない、ひどい母親だと思われたくない、といった気持ちで言えないのが、少しずつ言えない理由も変わっていくんだと思ったんですよね。段々この子がかわいくて、手放せなくなっていく。それが母になるってことじゃないかと思って。そういうふうに変わっていくものを表現していけたらと思いました。

――この事態をどうするのが最善なのかと思いながら読み進めました。これはどのように考えたのですか。

芦沢:私自身、なかなか答えが見えない問題でした。だから結末を決めず、登場人物の声に耳を澄ませて書き進めながら、いろんな人に質問を投げかけたりもしました。「子どもが4歳くらいの時に取り違えが分かったら、どうします?」って。お子さんがいる人にもいない人にも、女性にも男性にも。全部書き出したら、年齢によって結構言うことが違ったんです。それでフローチャートを作ったりブレインマッピングを書いたり、とにかく手を動かして複雑な感情を把握しようとしていました。

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――その結果、これまでの驚きの展開のあるミステリーとはまた違う、心理劇が出来上がりましたね。

芦沢:そうですね。今回のこの物語に関してはそこにこだわらない方がいいだろうなと思いました。自分が仕掛けを小説に入れるようになってから評価されるようになったので、仕掛けを入れないと駄目なんだという思い込みがあったんです。仕掛けやどんでん返しが私の持ち味で、そこで見せたほうがいいと。そうずっと思っていましたが、もう少し自由自在に、作品の要請に従ってやっていいんだな、というくらい肩の力が抜けてきたかなと感じます。でももちろん今後もどんでん返しのあるものも書きます。

――今後の刊行予定など教えてください。

芦沢:単行本の『貘の耳たぶ』のほかに、『今だけのあの子』が文庫化されました。それと、発売中の『小説幻冬』5月号で、初めての特集をしていただきました。短篇とロングインタビュー、はるな檸檬さんとの対談、作家さんたちからのメッセージ、一問一答、全作品の自作解説など。
今後は秋頃にKADOKAWAから単行本が出る予定です。他には、「小説新潮」で怪談ミステリ短篇を書き溜めていたり、いくつかのアンソロジーに参加予定だったりします。連載も始まる予定で、「別冊文藝春秋」で男性のバレエダンサーが出てくるミステリーを書く予定です。

(了)