第206回:江國香織さん

作家の読書道 第206回:江國香織さん

読書家としても知られる江國香織さん。小さい頃から石井桃子さん訳の絵本に親しみ、妹さんと「お話つなぎ」という遊びをしていたけれど、その頃は小説家になることは考えていなかったとか。さらにはミステリ好きだったりと、意外な一面も。その膨大な読書量のなかから、お気に入りの本の一部と、読書生活の遍歴についておうかがいしました。

その4「旅するために書く」 (4/7)

――童話屋さんでアルバイトをしていた頃って、もうご自身でも小説を書き始めていたのでは。

江國:そうですね、「お話つなぎ」とか、自分で遊びで書いているものの延長だったんですけれど。アルバイト先の本屋さんに「飛ぶ教室」という雑誌があって、短い童話の作品募集をしていて入選すると載せてくれて、10万円もらえるっていうのを知って。その頃の自分にとって10万円というのは大きかったんです。私はその頃、すごく旅行に行きたい時期だったんですね。お金を貯めたら旅行に出ようと思っていて、それでアルバイト感覚で応募していました。
 もしもアルバイト先が三省堂書店だったら、「すばる」や「群像」の新人賞の募集を見ていたかもしれないんですけれど、児童書の書店だったので、「飛ぶ教室」か「びわの実学校」といった雑誌があったんですよね。童話の募集の情報しかなくて、だいたいそれは10枚とか20枚とか短いもので、で、これは大きな間違いなんですけれども、「短いんだったら書けるかもしれない」と思ったんです。まあ、わりと作文の賞には入選する確率は高かったので、書くことはちょっと得意だと思っていたかもしれない。

――それで何度も入選して作品が掲載されて、賞金を旅行の資金に......。でも江國さんのお父さんの江國滋さんは、学校のスキー教室に参加するのもなかなか許してくれないくらい厳しかったそうじゃないですか。

江國:父には反対されましたね。20歳の頃に、すごく闘って闘って闘って、半ば無理やりのように出かけました。「行先も決めず、ホテルも決めない旅をしたい」と言ったら「もし旅先で何かあっても遺体の確認には行かないからな」と言われて「それでもいい」って言って。それって「客死」ってことになるからちょっと格好いい、と思ったりして(笑)。
あの頃、最長の旅行で2か月だったかな。それは童話屋をいったん辞めていきました。アルバイトはフルタイムでやっていたし実家暮らしのすねかじりだったので、100万円くらい貯まったんですよね。それで、貧乏旅行で2か月くらい行きました。行くまで父は「駄目だ」と言っていたんですけれど、大きい駅にある電話センターみたいなところから家にコレクトコールしたり、葉書もじゃんじゃかじゃんじゃか出したりして、それで2か月して帰ってきて、すごく興奮して「こうだったんだよ」「ああだったんだよ」と喋ったら、父は感動しちゃって。「すごいな、すごいな。パパはそんなところに行ったことがない」とか「お前にそんなことができるとは」って言って、「これからはどんどん行け」って言うんです。だけれど、次に新たなことを思いついて伝えると「それは駄目だ」って言う。「この間は友達と一緒だったからよかったけれど、一人では駄目だ」って。「でも行く」と言って旅に出て、帰ってきて「こういうふうだった」と話すと「それはすごいじゃないか。良かった」って(笑)。

――江國さんの新作『彼女たちの場合は』も少女2人が親の許しを得ずに家を出てアメリカを旅する話ですけれど、その体験に通じていますね。父親の潤(うるう)は最後まで反対し、母親の理生那は最初は心配するものの、途中から応援をこめて見守る姿勢になりますよね。

江國:父は理生那タイプだったんですね。ふふふ。

――どのあたりを旅したのですか。

江國:2か月間の旅の時は、ヨーロッパに行きました。チュニジアにも、アルジェリアにも行きました。その時の一番の目的はアフリカ大陸の月の砂漠に行くことだったんですけれど、ヨーロッパにも行きたかったので。あの頃は1年オープンの飛行機チケットがあったんですよね。できるだけ遠回りして、できるだけいろんな国を見ながら行きたいと思っていて。

――その後、実際に留学されましたよね。その間も書いていたのですか。

江國:そうですね、留学しました。「飛ぶ教室」の素晴らしいところは、いったん入選すると依頼してくださるんですね。私にとって唯一依頼がある媒体で。季刊誌なので「毎号書いていいですよ」と言われても1年に4回ですが、留学先からも送って何回か載せてもらいました。『デューク』なんかは留学先から送って載せてもらったものですね。それを見てくれたんでしょうね、日本に帰った時に当時あかね書房にいた人と、新潮社にいた人から依頼をいただきました。

――小説家になるという意思よりも先に、小説家になっていた、という感じですね。

江國:そんなに格好よくないです。私は「毎日お勤めするなんて嫌だな」とか思ったり、英語を使ったお仕事をしたいと思って英会話学校の先生のアルバイトをしても、結局辞めてしまって。小学生のクラスを受け持っていたんですが、そうするとお父さんお母さんともやり取りをしなくちゃいけなかったりとか。その学校の決まりで、みんな日本人なのに英語名をつけるんです。「私はサラにする」とか「私はアリス」にするとか。私は「ジュリーのファンだからジュリーにする」って言っていたんですけれど、学校外でも英語を話さなくちゃいけなかったので、外を歩いていると生徒に「ジュリー!」って呼ばれるんです。それがもう恥ずかしくて(笑)。もう、いろいろあって、無理だなと思って、辞めました。何かやってみても、人に迷惑ばかりかけたり、できなかったりして、「書く」ってことだけが長続きしたことだっただけかもしれない。
 それに、「どうしてもこれになりたい」って思いつめたことがなかったんです。でもそれは、怖かったからかもしれない。「作家になりたい」って思ってなれなかった時にショックだろうと思って、決めるのが怖かったんだろうと思う。小さい時は多少、「デザイナーになりたい」「検事になりたい」と思ったことがありますが。

――え、検事ですか。

江國:うん、検事になって裁きたいと思った(笑)。法律というものが好きで、「法律にのっとって裁きたい」と思っていたことがあるんです。でも法学部を受験して落ちた時点ですぐ諦めましたから、「本気でなりたい」と思いつめたわけではなかったですね。あと、アメリカに留学する前は映画の字幕をつける人になりたかった。でも実際にはそれに向けての勉強を何もしていませんでした。
それでも長続きしたのが「書く」ことでした。最初に連載の話をいただいたのが「るるぶ」という雑誌。そこで『きらきらひかる』を連載しました。連載として毎月書くっていうのは私としてはすごく働いている感があったんですね。でも、フェミナ賞をいただいた時、選考委員の瀬戸内寂聴さんからは、それまで私がふらふらしていたのを父から聞いていたのか、「小説を書くって、片手間にできるようなことじゃないのよ」「昔はね、行李いっぱい書き溜めてからスタートしたものなのよ。書くんだったら本気で書きなさい」って言われて、これ以上アルバイト感覚でやっていたら怒られると思いました。もう、覚悟するしかないって思ったように思います。

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