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桑島 まさきの<<書評>>


博士の愛した数式
博士の愛した数式
【新潮社】
小川洋子
定価 1,575円(税込)
2003/8
ISBN-410401303X
評価:A
 記憶が80分しか持たない数学の天才。しかも記憶の蓄積は1975年で終わっている。75年以前のことは覚えているが、今日食べたモノや会った人のことは覚えられない。こんなお気の毒な事情を背負った阪神タイガース背番号「28」の江夏をこよなく愛する博士と家政婦の「私」とその息子・ルート。ここでは3人の数学を基軸とした生活が淡々と描かれる。学生時代、数学の得点は常に一桁だったという私にとって、文字の世界にバシバシ参入される数式に困惑したものの、純朴な3人の嫌味のないエピソードには感興が沸いた。
 人生は前にしか進まないのに、記憶の蓄積が不可能なため、瞬間、心を通い合わせることはできても、距離を縮められない3人。人と人との関わり方の模範のように思える彼等の慈しみ合う姿が、それだけに、切ない。胸をキューンとさせておいて、自分だけ別の世界へ旅立っていく……。それでも世界は続いていく。移ろいゆく時間の中で数字だけが変化なく形として残っていく。人間のように感情に左右されず、完全な真理や規則正しい秩序のもと、必らず答えに到達することのできる数学。その偉大さを実感した。

クライマーズ・ハイ
クライマーズ・ハイ
【文藝春秋】
横山秀夫
定価 1,650円(税込)
2003/8
ISBN-4163220909
評価:AAA
 阪神タイガースがリーグ優勝を飾った。前の優勝は1985年。この年も日本中が沸いた。優勝目指してひた走る連日のタイガース報道の陰で、同年夏、世界最大の航空機事故が日本国内で起きたことを忘れてはいないだろうか。地元で発生した“二度と起こらない事件”か、戦後40年の節目となる終戦記念日行事か、首相の靖国神社公式参拝か。何を優先すべきか。報道をめぐる地方新聞社のベテラン記者・悠木と組織との壮絶な闘いは、熱い!
 展開がスリリングで臨場感たっぷり。悠木が陥った“興奮状態が極限に達し恐怖感がマヒしてしまう”“クライマーズ・ハイ”状態に読者をも同行させる。筆力や骨太の構成力は文句ナシ。
 男たちの熱いドラマを題材にしながら、ジャーナリズムの使命や命の尊さという根源的なテーマに内省的に向き合っている。「下りるために登る」と言い残した山男・安西の言葉は我々に多くのことを突きつけるではないか。高揚したまま長い物語につき合わされたら、静かに「下り」てみるとよい。「マヒ」したままでは見えなかった真実が見えてくるはずだ。う〜ん、示唆に富んだ傑作だ。

まひるの月を追いかけて
まひるの月を追いかけて
【文藝春秋】
恩田陸
定価 1,680円(税込)
2003/9
ISBN-4163221700
評価:B
 超能力を持った人が登場する訳でもなければ、特別な世界の人の話でもない。フツーの人たちが真実を求めて旅する話。本作は、人間関係の機微に愚鈍だと自称する静という女性と、失踪した静の異母兄と二人の女をめぐる心理の謎を追う心理サスペンスだ。〈パズルのピースがピシリと嵌った三角関係〉だった仲良し3人組に何があったのか? 特別な事件や殺人は起こらないが難解なトリックを利用したサスペンスよりも読み応え充分。二転三転する感情の綾がスリリングでぐぐーっと読ませる。
 真昼でも月は確かに存在するのにくっきりと輪郭を捉えることができないように、確かにそこにあるモノなのに、捉え難い「真実」は存在する。なかんずく人間の複雑な感情は容易に見抜くことはできないものだ。案外、身近な存在の人のことは知っているようで知らないことが多い。ベールに覆われた「事実」が一枚一枚剥がれていくたびにゾクゾクさせられる。序盤からずっと何かが起こる「気配」を濃厚に漂わせて少しも淀むことなく続いていく。人生がミステリアスな分、心理サスペンスはやめられない。

日曜日たち
日曜日たち
【講談社】
吉田修一
定価 1,365円(税込)
2003/8
ISBN-4062120046
評価:C
 東京で一人暮らしを送る男女の5つの物語。無職の男、見ず知らずの若者2人に酒に誘われ金品を奪われた女、愛する女を失った父と息子、女に逃げられてばかりの男、男運の悪いDV被害者の女。自分の人生に降りかかった事情が「特別なこと」でも、読者にとってはよくある他人の事情。そのうち又新しい事件が発生すると忘れてしまいそうな。
 5つの物語の主人公たちの人生にちょっとだけ交差する幼い兄弟。主人公たちにとっては「行きずり」の存在だが、兄弟はたこ焼きや寿司をもらったこと、道を丁寧に教えてくれた大人の親切を忘れない。“人生の被害者たち”ばかりに思える主人公たちだが、九州から飲まず食わずで母を捜すために上京したものの拒否され、父親に虐待をうけているこの兄弟に比べると、深刻度は極めて軽い。
 主人公たちの人生がしんみりとしている分、終盤、兄弟の颯爽たる姿が浮かびあがってくる。直接人の人生に影響を与える訳ではないが、優しくしたりされたりして交錯する人々。物事がうまくいかなくても人を思いやる心を持っている人間の根源的な「善」をみた気がした。

青鳥
青鳥
【光文社】
ヒキタクニオ
定価 1,680円(税込)
2003/8
ISBN-4334923976
評価:C
 台湾人のシャオウェイと田主丸の一人称の語りが交互に描かれ、突如、人称が変わり、二人が同じ広告会社に勤務する仲間だと分る。ギョウカイの現場がリアルだ。外資系企業かと見紛うばかりに次々と登場するガイジンたちとの会話は興味深いものの、残念ながらその造型は浅く奥行きにかける。特別な事件が起こる訳ではなく、あるプロジェクトチームが一致団結して一つの仕事を仕上げていく過程が臨場感たっぷりに描かれる。「現代」を現す会話や無数の固有名詞の羅列には驚かされ、ギョウカイになれない人、興味のない人には頭が痛いだろうが、軽妙さで読ませる。
 ギョウカイで一際頼もしい存在に思えるのは、カツラをとっかえひっかえする、パワフルな“変な人”、藤原だ。一見、軽ソーに見える田主丸が実は常識的な家庭人だったり、何をしているかわからない藤原が実はここぞという時に会社人間だったりする箇所など、「軽い小説」=「喚起力のない小説」では割り切れない点を秘めている。「企業小説」として読めば価値ありか? ゴーで行こう!

光ってみえるもの、あれは
光ってみえるもの、あれは
【中央公論新社】
川上弘美
定価 1,575円(税込)
2003/9
ISBN-4120034429
評価:B
 “男は不要”の女系家族(?)の中で育った少年、江戸翠(名前からして男は不要!)の多感な日常を、どこか現実から浮遊した人物たちの織り成すエピソードを絡めながら、作家特有の軽妙で作為のない面白さで描く。語るのは「僕」=翠。「僕」の目から見た女たち(祖母/母/GFの水絵)は不思議で困惑してばかり。時々家にやってくる大鳥さんは翠の実父。だが一緒には暮さないし籍も入っていない。ただ、精子を提供してくれただけの存在だ。でも、家族のようなモノ。世にいう常識からズレた登場人物たちの造型の巧さが作家の持ち味でほんわかして笑える。
 バラバラで無関心、フツーからはみだしているように見える家族だが、実はお互いを思いやりしっかりと結ばれている。家族関係の記念日「江戸の日」なるものを忠実に守り持続させているのだから「家族力」は認めるべきだろう。その他の作品群にみられる寓話的素材は珍しく使用されておらず、初めての「家族小説」に挑んだ作家の意欲を認めたいが、私を泣かせた「センセイの鞄」のような「切ない」気配が希薄な分、ワンランク落すしかない。

安楽椅子探偵アーチー
安楽椅子探偵アーチー
【東京創元社】
松尾由美
定価 1,575円(税込)
2003/8
ISBN-4488012930
評価:C
 作者同様、私も子どもの頃、「名探偵」が出てくる話はよく読んだ。それが昂じてミステリーにハマっている。小説というフィクションの中で我々が遭遇する事件には、必ず〈加害者〉と〈被害者〉が存在する。だが〈加害者〉=〈悪〉、〈被害者〉=〈善〉という構図では必ずしもない。言うまでもなく、犯罪の背景には動機がある。我々が知りたいのは、事件の真相だけでなく罪を犯してしまった者の「領域」である。そこへ踏み込みことで事件は、一応の解決をみるのであり、単に犯人逮捕だけでは犯罪は間断なく起こりうるのだ。最近のミステリーは、罪を犯す者の側からも描いているものが多い。そして我々はその複雑な心理を知り、犯罪を生み出す社会の仕組みを知るのだ。
 本作の探偵は、小学五年生の男の子。少年の〈子どもの目線〉によって事件が報告され、安楽椅子アーチーの〈大人の言葉〉によって謎が推理し解決されていく。ミステリーファンにとって、両方の〈領域〉が見えないだけに物足りないといわざるを得ない。懐かしい「探偵物語」に出会ったと思える人にならいいのだが……。