年別
月別
勝手に目利き
単行本班
文庫本班
松井 ゆかり

松井 ゆかりの<<書評>>



ワイルド・ソウル

ワイルド・ソウル(上下)
【幻冬舎文庫】
垣根涼介 (著)
定価720円(税込)
ISBN-4344407660
ISBN-4344407679

評価:★

 エンターテインメントならエンターテインメント、シリアスならシリアス、とはっきりしている読み物の方が本来は好きなのだが、この小説はすごいと思った。
 ケイ、松尾、山本の3人が仕掛けた政府への復讐の裏には、胸が塞がれるような戦後の愚政である棄民政策が存在した。この本を読むまでこのような事実があったことさえ知らなかったが、読了後しばらくして見たニュースで“この時代の移民に対する補償は遅々として進んでいない”と報じられていた。まだ過去のことではないのだ。
 3人にとっても、自分や親たちが受けた傷は生々しく忘却の彼方に押しやれるものではなかった。計画の手口は鮮やかで爽快感さえ伴うが、彼らの心中を思うと痛みは残る。ラスト、彼らの辿る運命はなるべくしてなった結末という感じで、苦いながらもハッピーエンドと言えるのかもしれない。

魔岩伝説

魔岩伝説
【祥伝社文庫】 
荒山徹 (著)
定価780円(税込)
ISBN-4396332858

評価:★★★★

 先月の課題図書「ジャンヌ・ダルクまたはロメ」について、“佐藤賢一という作家は、多くの歴史小説家がやっているであろう史実に虚構を少々織り交ぜて書くという方法を一歩進めて、いくつかの史実から導き出された推論によって物語を構築するという自由かつ大胆な方法をとる書き手である。このような作家は他にもいるのだろうか?”と書いたのだが、いましたね、ここに。自らの不明を恥じるばかりである。
 しかしながらおふたりの作風はかなり違ってもいる。佐藤さんの作品は「文学」の香りがするのに対して、荒山さんのは間違いなく「エンタメ」寄りという感じ(別に「文学」の方が「エンタメ」より偉いと言っているわけではありませんが)。柳生一族が出てくるってだけでもう、娯楽大作というイメージだし。
 とにもかくにも、これだけ濃い内容をきちんと収拾されるお手際、見事でした。

権現の踊り子

権現の踊り子
【講談社文庫】
町田康 (著)
定価580円(税込)
ISBN-4062753510

評価:★★★

 ミュージシャン出身。イカしたルックス。あふれる才能。昔は町田町蔵という名前だった。ま、最後に挙げたのはあんまり関係ないが、この男ををかっこいいと言わずして誰をかっこいいというのかとでもいうべき作家町田康はしかし、私にとっては長いこと鬼門であった。なんというか文章のリズムに乗れないのだ。小説じゃない方が入りやすいのかもと読んでみたエッセイも、ほんとのことなんだか妄想なんだかわからない文章の連なりで煙に巻かれた。
 さて、この「権現の踊り子」は短編集ということで、いきなり長編を読破しようと鼻息を荒くするよりは町田康入門編によろしいかもしれない。が、やっぱり不条理さは変わらないのであった。うーん、なんかこんな世の中になったら嫌だな。まして、ラジオから「コックピットのふのり」(収録作品「ふくみ笑い」より)などという曲が流れてくる世界なんて。

ダーク(上下)

ダーク(上下)
【講談社文庫】 
桐野夏生 (著)
定価580円(上)/600円(下)
ISBN-4062753855
ISBN-4062753863

評価:★★★★

 桐野夏生は少女マンガだ、と言ったら熱心なファンの方々はお怒りになるだろうか。確かに桐野作品には、ヤクザだのクスリだの殺人だの、正統派少女マンガにはふさわしくないアイテムがてんこ盛りである。しかし、主人公(あるいは準主役とか重要な脇役とか)はいつでも運命の相手と愛し愛されることを願っているではないか。
 この小説の主人公村野ミロもそうだ。出所を待ち続けていた男が獄中自殺していたことを知って激情に駆られ、その事実を隠していた義父を見殺しにした。愛人契約を結んだ男と真実の恋に落ちた。そして、ミロをかばって撃たれたその男の心には、下半身の自由を失ったことによってより深くミロを愛し守らねばという思いが生まれたのだ…。
 どこまで堕ちても、永遠に変わらぬ愛を求めてしまう。絶望の底に沈みながらも希望を見出そうとするミロたちの姿に、(決して全面的に共感するものではないが)幸あれと願わずにいられなかった。

白菊

白菊
【創元推理文庫】 
藤岡真 (著)
定価700円(税込)
ISBN-4488436021

評価:★★★★

 藤岡真という作家は大小さまざまな風呂敷を広げ、「まさか畳めるわけが…」と気をもむ読者を尻目にそれらを目にも留まらぬ早さで畳み、次の瞬間には万国旗のようにはためかせてみせると言った感じのイリュージョニストっぽいイメージがある。きっと人を驚かせるのが好きなのだろう(謙虚なようでいて、その実自信満々のあとがきも微笑ましい)。
 さて今回も、「心あてにをらばやをらむはつしもの置きまどわせる白菊のはな」の百人一首の句や大黒屋光太夫まで引っぱりだしてきちゃいましたよ!しかも主人公は画商でもあり超能力者(偽)でもある相良蒼司。役者は揃った。あとは目くらましされないように、注意深く読み進んでいきましょう。それでも作者の陥穽にまんまとはまってしまうなら、それもよし。

ミャンマーの柳生一族

ミャンマーの柳生一族
【集英社文庫】 
高野秀行 (著)
定価450円(税込)
ISBN-4087460231

評価:★★★★

 私自身はかなりの出不精で、連休にどこにも出かけなくてもまったく苦痛に思わないタイプなのだが、旅行記を読むのは大好きである。ましてミャンマーのような国は、もし海外旅行をしてみよう!という気になったとしても決して選ばない(というか政情が不安定で選べない)であろう行き先だ。おもしろくないわけがない。
 同行の船戸与一という作家も「向こう見ずで豪快そう」というイメージがあったがまさにその通りで、旅行記にはこれくらいエキセントリックな人がいないとと思わせる逸材である。「ミャンマーの柳生一族」という題名を見て、「“源義経がモンゴルヘ渡ってチンギス・ハーンになった”という奇想天外な仮説のように、柳生一族もミャンマーへ渡ったと言われているのだろうか??」と激しく興味をひかれたが、どういうことかは読んでみてのお楽しみ。

99999(ナインズ)

99999(ナインズ)
【新潮文庫】 
デイヴィッド・ベニオフ (著)
定価700円(税込)
ISBN-4102225226

評価:★★★

 主人公たちがみな自分勝手あるいは排他的で少々ブルーになるものの、彼らの幸せになりたいともがきながら生きる姿にいつしか寛大な気持ちにさせられる。
 翻訳者の田口俊樹氏は解説で表題作が出色だと書かれているが、私にとって印象的だったのは「幸せの裸足の少女」や「幸運の排泄物」である。いずれも胸の中に生き続けている過ぎ去った日々に心を通わせた相手への思いを描いた作品だ。大切な人にいつか思い出の中でしか会えなくなる日がやってくる。それでも人は生きていかなければならない。諦念と、しかしそこから生まれるかすかな希望をきめ細やかに描かれていて唸らされる。30代半ばにしてこんなに切ない想いを掬いとることのできる作者は、どんなにつらい別れを経験してきたのだろうか。

ティモレオン

ティモレオン
【中央公論新社文庫】 
ダン・ローズ (著)
定価760円(税込)
ISBN-4122046823

評価:★★★

 翻訳者の金原瑞人さんも解説を書かれた江國香織さんも絶賛されていたが、残念ながら私はだめだった。いったいこの物語のどこに救いがあるのか。ティモレオン・ヴィエッタ…この愛すべき雑種犬の飼い主であるコウクロフトが長い苦しみの後に光明を見出したから?あるいは生活のためにコウクロフトに依存する(そしてティモレオンをあっさりと遠く離れた街角に置き去りにする)自称ボスニア人が自分の進むべき道を見つけたから?冗談ではない。それではティモレオンはどうなるのだ?愚かな人間たちに翻弄され、それでもコウクロフトの元へ帰ろうと長い旅を続けたこの犬の立場は?
 人間がいかに唾棄すべきものかを描きたいがためにこの小説はあるのだろうか。もしそうだとしたら、確かにこの本に存在意義はあるのかもしれない。でもそんなことは改めて教えてもらわなくてもいい。本の中のこととはいえ、犬を辛い目に遭わせてまで知りたいような目新しい真実じゃないもの。

影と陰

影と陰
【ハヤカワ・ミステリ文庫】 
イアン・ランキン (著)
定価890円(税込)
ISBN-4151755020

評価:★★★

 ある青年の変死事件。死体の傍らには溶けかけたロウソク、部屋の壁には五芒星。ああ、ハードボイルド(もしかしたら作者の気持ちとしてはミステリー作品なのかもしれないが)にもこのようなオカルト風味が加わるようになったのか、と思う。
 それにしても、ハードボイルドとはこんなに無機的なものだっただろうか。10代後半に私が傾倒したレイモンド・チャンドラーや矢作俊彦、あるいは森雅裕の作品群は、この小説に比べたらはるかにウェットなものだった気がする。「影と陰」の小説世界を、クールでスタイリッシュだと思う向きがおられるのはわからなくはない。しかし、主人公ジョン・リーバスの苦悩や心の揺れはいまひとつ私の心に響いてはこないのだ。それがハードボイルドの変容のためか、私の加齢のせいかはわからないが。

博士と狂人

博士と狂人
【ハヤカワ文庫NF】
サイモン・ウィンチェスター(著)
定価777円(税込)
ISBN-4150503060

評価:★★★★★

 物事にはすべて始まりがある。しかし、私たちは普段そのようなことはほとんど意識しないで生きている。例えば、「電話ってなんて便利な発明なんでしょう、グラハム・ベル博士に感謝しなくては!」とか、「この携帯の着信ランプ、青くってきれい!きっと青色発光ダイオードのおかげね、中村教授ありがとう!」などということはいちいち考えない。
 辞書についてもそうだ。もちろん、言われてみれば最初から辞書が現在のままの形で存在したわけがないことは容易に想像がつく。しかし、これほどの苦労の末に生み出されたものだとは、この本を読まなければ一生考えも及ばないままだったろう。
 このノンフィクションによって、世界最大にして最高の辞書「オックスフォード英語大辞典」がどうやってできたかという知識以外にも、ミステリーを読むようなスリルや、伝記を読むような興奮をも味わうことができる。まさに辞書を読むように大いなる楽しみを得ることのできる一冊。