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悪人
吉田修一(著)
【朝日新聞社】
定価1890円(税込)
2007年4月
ISBN-9784022502728
>> Amazon.co.jp
>> 本やタウン
小松 むつみ
評価:★★★
ある保険外交員殺人事件をめぐり、そこにかかわる人々の視点をさまよいながら、彼ら一人ひとりの心をえぐるように浮かび上がらせる。
取り立てて際立つことのない、市井の片隅で細々と生きる人々。どこにもありそうな人生にも心にも、彼ら彼女らなりの、寂しさもあり、苦悩もあり、さらには夢もあり、欲望もある。人の感情や思いというのは、実にすっきりと一方向に整理された単純なものではない。そういった人の心の複雑さ多様さが丹念に描かれる。
『悪人』とは、何なのか。誰なのか。いまひとつすっきりとしない、どこか居心地の悪い読後感。
結末では、多少救いもあるが、概して登場人物たちへのまなざしの冷徹さを感じたのは私だけであろうか。
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川畑 詩子
評価:★★★
福岡と佐賀の県境の峠で起きた殺人事件をめぐるこのストーリーは、裏「田舎に泊まろう」・「家族に乾杯」だ……。過疎化で高齢者の多い地域の不便さとか、国道沿いに全国チェーンの量販店が点在する光景のわびしさとか、活気に乏しい淀んだような日常が描かれる。でもそれは地方に限ったことでなく、もしこの舞台が都心であっても、きっと寒々しく描かれるのだろう。そして、帯の浅田彰の言葉にもあるように、市井の人びとを温かく見守るなんて上から目線は無し。冷やかにじっと観察している。読者にもその視線は向けられている。
交友のあった人たちの語りから被害者の行動が明らかになるにつれて、同情は薄れ非難もしたくなるその頃に、実家に届く嫌がらせの手紙やファックスに出くわす。それが人に言うべき言葉でないことは分かる。唾棄すべき行為だとも分かっている。しかし自分の頭の中に浮かべた思いと、どこが違う? 自分の持つ悪意をいきなり鏡に映されたようだった。
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神田 宏
評価:★★★
福岡市内に住む、保険外交員の女性が絞殺された。冒頭から犯人として、長崎市内の土木作業員「祐一」が逮捕された事が告げられる。そこから、犯行に至る経過が「祐一」と被害者の「佳乃」との心理、行動を軸に展開される。読後、立松和平の雷シリーズを思い出した。高度成長で崩壊してゆく地方共同体と家族。そこから疎外された主人公のやり場のない怒りが殺害へと繋がってゆく。しかし吉田修一の描く世界は閉塞しているとはいえ、最早、崩壊する対象さえも欠いた、気怠い消費社会であるべきだった。「出会い系サイト」で提供される、刹那の欲望の快楽。消費する事でしか満足を得られない自我の孤独。そこでは、「悪人」さえも薄っぺらな虚像でしかないはずだ。虚像をあるかのごとく描くとき、そこには、都市と地方、持てる物と持たざるもの、肉と聖の既に既視感にまみれた新たな虚像を捏造するしか方法はなかったのだろうか?懐かしさに溢れた時代は過ぎ去ったというのに。現在の物語として読むには困難さを抱えている。語り手の俯瞰的視座がそれをよりいっそう印象づけていた。
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福井 雅子
評価:★★★
若い女性が殺害された。被害者と加害者、それぞれの家族、それぞれとかかわりのあった人々といろいろな人間の視点で、それぞれの事情や思いが淡々と積み重ねるように描かれ、誰もが悪人で誰もが善人である現実が浮かび上がってくる。
殺された女性の父親が、殺害のきっかけとなる事件を起こした男の足にしがみついて「娘に謝れ」と迫るシーンで、近くで見ていた男の友人が「生まれて初めて人の匂いがした……(中略)人の気持ちに匂いがしたのは、あの時が初めてでした」と言う。匂いを感じ取るほどに人の気持ちを実感を持って感じること──これがこの作品の鍵であるように思う。視点を転々と移していろいろな人間の気持ちを匂い立たせていることで、読者は作中の人々の思いを実感を持って感じ取り、誰もが悪人であり善人である現実に気づかされる。自身の視点を持たずに、作中人物の視点を転々と移りながら淡々と描写してゆく語り口は、抑制が効いていて好感が持てる。
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小室 まどか
評価:★★★★★
保険外交員の石橋綾乃は、福岡と佐賀の県境にある三瀬峠で殺害された。彼女はなぜ、誰とそんな寂しい峠道に出かけていったのか、そして、誰が、なぜ彼女を殺してしまったのか、犯人はなぜ、誰のために逃げ続けたのか――。
家族の、そして友人の目に映る彼らの姿と、彼ら自身の荒涼とした心象風景とが、短いスパンで切り替わり、舞台も福岡―佐賀―長崎と移り変わる構成は、新聞連載という特性を最大限に生かしきっている。薄い皮を一枚一枚剥ぐように徐々に真相に迫っていく展開には、時にひりひりとした痛みを感じながらも、確実に惹き込まれてしまう。
人間って、こんなにさびしい生き物だったのか――ということに、あらためて気づかされた。「大切な人」がいないということが、いかに人間としての欠落と虚しさをもたらすことか。心のどこかで「大切な人」を希求するがゆえに苛立ち、すれ違い、他者を傷つけてしまう哀しさ、お互いを見つけたしあわせや希望が、ひしひしと伝わってくる力作。
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磯部 智子
評価:★★★★★
細切れで小説を読むことが出来ないので、新聞連載時は毎日気になりながらも「束芋」のそれは不気味な挿絵だけをながめていた。残念ながら単行本にはその絵はないが、最初から色濃く漂う不穏な空気の中、ゾクゾクしながら夢中で読み続けた。長崎の若い土木作業員が、福岡の保険外交員の女を殺害し逮捕された。遠い九州での、ありふれた三面記事の中の活字に過ぎなかった「悪人」祐一と被害者・佳乃が、生身の人間となって動き出す。閉塞感のある地方に住む二人を結びつけたのは出会い系サイト。彼らを取り巻く複数の人間にも、それぞれの生活と思惑があり、その当たり前すぎる日常描写が心に突き刺さり、一層現実味を帯びる。そしていつのまにか隣接していた日常と事件は、一気に人々を絡めとり巻きこんでいく。この小説は怖い。易々とフィクションの壁を乗り越えて、同じ地平にたっている気分になってくる。爆発しそうな思いを抱えながら、ギリギリの日常を生き、誰が背中を押すのか、押されるのか、「悪人」は隣にいるのか、それとも自分なのかと考えてしまう。
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林 あゆ美
評価:★★★★
ひとつの事件に様々な視点から光をあてていく。その光のあたった場所を読み解いていくと、なるほど事件はかくも複雑なものであったかと、ついつい単純な動機を求めてしまう気持ちを諫められた。
日々、新聞紙上で、ネットニュースで、事件の発生を知り、短い文章から犯人の動機やらを推測し、納得できるこたえを探してしまう。だからこそ、高校生が自らの母親を殺し、首や腕を切断するという猟奇的に聞こえる事件も、この小説のようにそれぞれの立場、それぞれの視点で立体的にしていってこそしか見えないものがあるのだと気づかされる。ほんとうの悪人はどこにいるのか。そもそも“ほんとうの”とつける形容詞自体が空々しく思えてしまうのが、この小説の力。“お前に見えているものは、ほんのちょっぴりなんだよ、ほんとうのことを知る人など実際誰もいないのかもしれない”という声が本から聞こえてくるようだった。
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