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湖の南
富岡多惠子(著)
【新潮社】
定価1680円(税込)
2007年3月
ISBN-9784103150053
>> Amazon.co.jp
>> 本やタウン
小松 むつみ
評価:★★★
ノンフィクションの体裁ながら、ノンフィクションを書く作家の姿を描いた私小説的側面もある。その作家が追うのは、大津事件。若きロシア皇太子を切りつけた津田順三の生涯に迫る。明治維新、廃藩置県という世の中が大きく様変わる時代、その時代のうねりに取り残され、もがき苦しむ不器用で小心な一人の男の悲劇がそこにある。一方、現代に生き、旅先でめぐり合った展覧会のポスターから、ロシア人作家の日本を舞台とした物語や、学生時代に学んだ人麻呂の歌などを引き合いにしながら、歴史的事件の裏側を詳らかにしていく作家の姿がある。現代と、過去の二つの時間を行きつ戻りつしながらも、ともにその道を辿るがごとく引き込まれていく。さすが冨岡氏、相当の手練である。
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川畑 詩子
評価:★★★★
明治三十九年、大津を回っていた当時のロシア皇太子ニコライを巡査の津田三蔵が襲撃した大津事件。犯人の姿が手紙を通してなぞられていく。
なぜ彼がロシア皇太子に斬りつけたのか、はっきりした理由は結局分からないままだ。手紙には帰省できないもどかしさや時流から取り残されそうな焦燥がつづられていて、きまじめで心配事が絶えなくて、一日一日を必死で送っている男の姿が伝わってくるだけだ。
病弱な母をきづかい、困った兄に頭を痛める三蔵。唯一の後継者である息子の持病を心配するニコライ。事件の歴史的社会的背景は個人と切り離せない。いやでも影響は受ける。しかし日々の生活やプライベートの関心事と、いわゆる歴史とはなんとスケールが違うことかと呆然とする。
また幾度か、現代と大津事件とがオーバーラップする時がある。町角で、花火大会で。土地に降り積もる記憶を感じ取る作家の敏感さにも感服した。
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神田 宏
評価:★★★★
「二年前に移ってきた集合住宅の一隅たる寓居」からは「湖水」が見える。それは世に言う「大津事件」のおこった琵琶湖畔である。著者は一介の巡査がロシア皇帝ニコライに斬りつけた事件に惹き付けられ、事件の史実を丹念に辿りだす。「「犯人」以前の津田三蔵もその「動機」も良くわからない。(中略)はじめはたんに「逆上の故」だったものが、次第に、「愛国の情から」となって、いわば「動機」が尋問によって再構築されてゆく。」と事件の背景に鋭い批判の目を向けるが、性急な「真実」への言及はなく、著者の日常が挿話されていたりする。何気ないその日常でかつて、近所にあった電気屋の息子からの不思議な手紙。著者が「タビト」と呼ぶ謎の人物からの手紙には「自分は死ぬ覚悟でやりますが、(中略)気後れさえしなければできると思います。」といったまるで自爆テロの犯人の声明のようなことが書かれていたりする。むろん、著者は真剣に向き合う事なく悪ふざけだろうぐらいに思うのだが。歴史に封印されたテロルは、かつてサルトルが戯曲『汚れた手』(ニコライの祖父への爆弾テロが題材)でふれたように大仰な「正義」にかられたものではなかったが、それだけに「タビト」の個人的な悪ふざけと対比すると、笑えないものがある。著者の性急に真実を求めないその、日常の眼差しは、それが淡々としてる分、逆に現在のテロリズムを見据えているようで不気味だ。「三蔵」の私憤の義憤への読み替え、「タビト」の私憤を義憤へ駆り立てる妄想。2つの差異は僅かだ。
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福井 雅子
評価:★★
明治24年に来日中のロシアの皇太子ニコライに斬りかかった巡査・津田三蔵の人生をたどり、彼のとまどいや苦悩ややり場の無い怒りを丁寧に浮かび上がらせることで、なぜ凶行に及んだのかという事件の最大の謎に迫る長編小説。
前半は客観的な視点で資料を読み解き、津田三蔵に関する事実を並べてゆく。ところが後半になると話は一転して、著者宛に送られてくるストーカー男の手紙を中心にエッセイ風の内容になる。度重なる不運からくるあきらめと、世間からはぐれたような想いを抱えて生きるストーカー男のかなしさを、津田三蔵の想いと重ねるという試みが、とても面白い。二人の想いがうまく絡んでいかないようなぎこちなさが残ってしまったことがやや残念ではあるが、津田三蔵に対する愛情が感じられる丁寧な描き方で、ただの犯罪者や狂人ではない一人の迷える男としての津田三蔵像を読者に印象づける意欲作である。
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小室 まどか
評価:★★
果たして大津事件を起こした津田三蔵は本当に「狂人」だったのか――。琵琶湖の南に移り住んだ筆者は、津田の手紙と被害者であるロシア皇太子ニコライの日記、当時の調書等を読み進めていく。事件を題材にした物語との出会いに始まり、こうした調べ物と機を一にするように送られてくるようになった不可思議な手紙、湖をめぐる古今の人々の暮らしなどに想いを馳せ、とめまぐるしく切り替わっていく展開は、ひとりの作家の日常と思考過程を覗き見ているようだ。
侍の子に生まれながら、思春期・青春期を明治維新・西南戦争という激動の時代に翻弄され、「真面目」すぎるがゆえに引き起こした事件に至るまで、司法権の独立に左右されて大上段から刑を決定され、自身の始末をつけることもかなわぬ津田の哀しさは伝わる。が、生き生きとした人物像に共感できるほどには「歴史小説」ではなく、資料類を読み込むというほどには「評伝」にもなっていないのが、やや中途半端な印象を受けた。
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磯部 智子
評価:★★★★★
なぜ今、大津事件なのだ、と思いながら読み始めた。時代背景のためか、漢字とカタカナで書かれた部分も多く、決して読み易くは無いし、特に興味のある事件でもないのに、次第にその不思議な世界に引き込まれていった。歴史の中から一人の男がよみがえる。その人物自体は決して重要な人間ではないが、ロシア皇太子暗殺未遂事件を起こす。13歳で明治維新、16歳で廃藩置県、20代で西南戦争を体験した犯人、巡査・津田。その不運な男は、武士の自尊心をずたずたにされ、親族にも問題を抱えていたことなどが解り、「小胆」の為「狂人」のようになることはあったが、結局のところ決定的な動機は掴めず、ただ、時代に翻弄された生真面目な男が浮かび上がってくる。一方、現在大津に住む作家自身の話もあり、「タビト」という男性から度々手紙が送りつけられてくるのだが、それがなにやらストーカー的で、内容も薄気味悪い。通いの家政婦のやり方をみて、自分はもう「昔風」だと言う作家は、タビトが津田的人物なのかどうかの判断や、現在がどういう時代で、何が今生み出されつつあるのかという不安の中に、読み手だけを残し、目の前で幕をひいてみせた。いや、お見事、と言うべきか。
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林 あゆ美
評価:★★★★
明治24年、ロシア皇太子ニコライが来日した折、サーベルで斬りつけ怪我をさせたひとりの巡査がいた。巡査の名前は津田三蔵。大津事件と呼ばれるものである。長い間、津田巡査は狂人ゆえに事を起こしたといわれていたが、語り手は新しく発見された資料などを元に、津田三蔵はどんな人間で、どうしてニコライ皇太子を斬りつけたのかに近づいていく。次男として生まれたが、兄が奔放で家をかえりみないため、母の世話から弟の面倒もみなくてはいけなかった。嫁取りも遅く、仕事も長続きしない。人生に幸福という文字がなかなか見えてこないのだ。しかしながら、自暴自棄になることなく、生真面目に生活を送る三蔵の姿がみえてくると、先に読んだ『悪人』のように、なぜ事を起こしたか、誰が悪いのか、白黒はっきりつけられなくなってくる。
ところで、語り手にタビトという人から身辺雑話的な手紙が届きだし、三蔵の話とゆかりのない話が挿入される。不思議なことに、その話が挿入されることによって、より三蔵がみえてくる気がした。
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