第三回 Jijiya・Babaya

 2020年、デンマークのレストラン「noma」のワインリストに、余市の小さなワイナリー「ドメーヌ・タカヒコ」のワインが掲載された。日本初。日本唯一。誇らしいなぁ。

 そもそもの生産本数が少ないこともあって、ドメーヌ・タカヒコのワインに出逢えるチャンスは滅多にない。お膝元の余市に行っても、そう。なかなかお目にかかることができない。とは言え、可能性はゼロじゃない。いざ「Jijiya・Babaya」。この店のワインリストには必ずといっていいほど、ドメーヌ・タカヒコのワインが載っているからね。

 二度、訪れたけど、いずれのときも、あった。でもね、一滴も飲んでない。だって、最初は石窯で焼いたナポリピッツァで、その次は余市の食材をふんだんに使ったパスタが目当てだったから。目的は飲むではなく、食べる。だから車で向かった。

 でもね、食べてばかりじゃない。2回目の訪問は、店主の辻冷子さんに話を訊くことがメインディッシュ。ランチタイムまでの貴重な時間を辻さんの言葉に耳を傾ける。

「Jijiya・Babaya」(北海道余市町朝日町15-1) 写真・中島博美

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「なんだと思います?」

 この問いかけに、僕は臍を噬む。余市役場の目の前に佇む瀟洒な一軒家レストラン。窓際の席で対峙した店主の辻冷子さんに、訊いたんですね。店名の由来はどこからですか、と。刹那、辻さんから冒頭の質問が返ってきて、言葉に詰まります。

 店の名は「Jijiya・Babaya」。片仮名で表記すると「ジジヤババヤ」。個性的だなぁ。この一風変わった名前の理由を詳らかにすれば、余市に名高いイタリアンレストランの魅力や辻さんの人柄に迫れるかもしれない。そんなふうに考えてのQは、すんなりAにたどり着かず、しばしの沈黙。

 ふと、妙案が浮かびます。

「もしかして、イタリア語ですか?」

 ちょっとばかり得意げな僕に、辻さんはアハハハハと笑って「イタリア語だと思っている方、結構いるんですよ」(あぁ、そうでしたか、そうですよね)。

 頭の隅っこにジジ=爺、ババ=婆と変換する代替案もあるけれど、まさかね。でも、訊くだけ訊いてみようかな。逡巡していると、辻さんが先に口を開きます。

「お店の名前に特別な意味はないんです」(えぇ、なんと、まぁ)。

 意味深長な店名だとばかり思っていた僕は、ジジヤババヤの糸口を失うような辻さんの告白に、くらっときます。

「ある日、ジジヤババヤって言葉がぱっと浮かんで、語呂もいいし、響きもおもしろい。これがいいっ、これでいこうって、あっさり決まりました」

 だからね、と辻さんは続けます。「意味を訊かれたりすると困っちゃって。答えようがないでしょ。でも、みなさん期待するから、ごめんなさいねっていつも思うんですよ」と、申し訳なさそうな表情を浮かべながら、だからね、と話は続きます。「いまみたいに、逆にみなさんに質問をして素敵な理由を言ってもらえたら、それにしちゃってもいいかなと思ったりもして」と、今度はお茶目な表情で冗談めかしたことを言う辻さんである。

 しかし、なんでまた、ジジヤババヤなる突飛な言葉が浮かんだのだろう?

「それもわからないんですよ。なにかがあったんでしょうね。なんででしょうねぇ」と、名付け親は首を傾げるばかり。「ジジヤババヤという店名が閃いたとき、お店のイメージがぱーっと広がったんです。昼は定食屋のババヤ、夜はショットバーのジジヤにするのもいいな。1階をババヤにして、2階はジジヤで雰囲気を変えてみようかな、なんて。なんだか楽しそうでしょ」という言葉を受けて店内を見回せば、辻さんはあらやだって感じで「思っただけで、実際には無理でしたね。だから1階も2階も1日中ジジヤババヤですよ」。

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「余市を素通りされたくなかったんです」

 僕の質問に、さっきとは打って変わって、辻さんはきっぱり答えます。問いかけたのは、なぜ余市でイタリアンレストランを始めたんですか、ということ。

「私が子供の頃からずっと、余市の人はおいしいものが食べたいと思ったら、小樽に行ったり、札幌まで足を伸ばしたりすることが多かったんですよね」

 辻さんは余市で生まれ、余市で育った。実家は建設会社を経営していた。おいしいの想い出は、ハレの日の外食ではなく、家での食事会。

「父と母は料理上手で、しょっちゅういろんな人を招いて手料理を振る舞っていたんです。大きな鍋で三平汁をつくったり、冬に漬けたニシンを並べたりして、お客さまを迎える準備をしていたことをよく憶えています。食事をわいわいと楽しく食べるという生活が小さい頃から当たり前のようにあって、私もよく手伝っていました」

 けどね、と辻さんは言います。食べることが大好きだった両親との外食は、やっぱり小樽や札幌だったんです、と。余市でご馳走を食べに行った記憶はあったかなぁと、遠くを見つめてひと言。「余市の人たちは地元においしいお店があるって思わなかったんじゃないかな」。曰く「余市の人って控えめなのかもしれないですね。隣の芝生がきれいに見えちゃうタイプなのかも。だから素通りなんじゃないかな」。

 余市の人である辻さんに、僕は訊ねます。辻さん自身はどうなんですか、と。

「どうなんでしょう。札幌には憧れがありましたけど、それ以上に、余市に愛情があったかな。余市にはもっとよくなってほしい。おいしいものを食べるときにわざわざ外に行かなくても大丈夫と思える町になってほしいと思ってましたね」

 だからジジヤババヤをつくったんですもんねと、答えがわかっている問いを僕は辻さんに投げかけます。

「そういうことなんですよね。余市にこんなイタリアンレストランがあったらいいな。そう自分が思える店をつくって、余市のみなさんが、おじいちゃんやおばあちゃんも含めて、地元でおいしいものを食べようと思ってもらえる場所をつくりたかったってことはあるでしょうね」

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「ヘラガニって、余市ではおやつだったんですよ」

 目の前には、ジジヤババヤで一番人気のヘラガニのトマトクリームパスタが鎮座している。皿の中には、まるまる一杯のヘラガニがどーん。豪快。パスタが覆い尽くされているよ。

 ヘラガニはいい出汁が出るという。美味なるはカニ味噌だと訊き、甲羅を外してかぶりつく。とろっとした食感に甘味と苦味が交錯する。聞きしに勝る美味だなぁ。汚れた指を気にする間もなく、パスタを口に運ぶ。コクのあるトマトクリームソースとカニの風味が相まって、箸(フォーク)が進む進む。

 余市ではヘラガニがよく獲れる。辻さんが子供の頃は、もっとよく獲れた。「浜で湯がいて食べたこともあるんですよ」と辻さんが言うように、身近で手軽な食材。なんだけれど、辻さん、ヘラガニを使うことにためらいがあったみたい。

「だって、ヘラガニで喜んでくれる人がいるとは思わなかったから」

 ヘラガニは全国的にメジャーなカニじゃない。実は道内でもほとんど流通していない。辻さんには当たり前だけれど、小樽より南の日本海側で揚がる地産地消のカニだ。ましてや余市でも、最近の子供たちはヘラガニをおやつに食べたりはしない。

「若いお客さんが知らないって言うんですよ。余市の人なのにですよ。私、驚いちゃって。ヘラガニが珍しいなんて思ってないから、こんなに人気が出るなんて想像もしませんでした」

 ジジヤババヤの開店前、辻さんが手にしたカニのトマトクリームパスタのレシピはワタリガニを使うものだった。確かにおいしい。けれどワタリガニは高い。余市の人が気軽に食べるには不向きな値段になってしまう。そこで辻さんは考えた。ヘラガニを使ってみようかなと。試したらうまくいった。でも迷った。味には遜色はないけれど「ヘラガニだもんなぁ」と。そして決めた。自分の店なんだから、いろいろやってみてもいいはずだと。結果「ヘラガニがいい」となった。いまやヘラガニのトマトクリームパスタはジジヤババヤを代表する一品となっている。

「子供の頃から慣れ親しんだ余市のカニを使ったパスタが名物になるなんて嬉しいですよね。昔って食べるものも質素だったとか言うけれど、浜でヘラガニを頬張っていたことを思うと、実は贅沢だったんだなって」

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「私ね、料理の勉強をしたことも、飲食店で働いたことも一度もないんです」

 またもや申し訳なさそうな表情で、辻さんは話し始めます。僕からの問いは、イタリア料理はどこで勉強したんですか、というもの。

 ジジヤババヤのオープンは2006年。開店から10年以上が経ったいまも、看板メニューのパスタやナポリピッツァを求めて、引っ切りなしに客が訪れる。この日も、ランチタイムが始まった瞬間に席がババババっと埋まった。月に1回開催しているワイン会には道外からも予約が入って、すぐにいっぱいとなる。ミシュランガイドにも掲載された。てっきり、名うての料理人の下で修練を積んだのかと思ったら、どうもそうじゃないみたい。

「お店をやってると、前はどこで働いていたんですかって、お客さまによく訊かれるんです。どこで修業したのかを、みなさん気にするみたいなんですね。お店の名前のときと一緒です。やっぱり困っちゃう。だって、経験がないんです、なんて言うと趣味で開いたお店みたいに思われるでしょ。でもね、私は真剣そのものなんですよ」

 辻さんの前職は父親が経営する建設会社の経理。40代の半ばまでは飲食業界とは縁がなかったという。イタリア料理との接点を見出せずに言葉を探している僕に「人生って不思議だなぁって思いますもん」と、辻さんは笑う。

 そこで、辻さんの不思議な人生=ジジヤババヤへの道をまとめてみる。

 1 父親の建設会社の業績が思うようにいかなくなる。
 2 会社として次なるビジネスの種を見つけようと異業種交流会に参加する。
 3 異業種交流会でピザ窯をつくっている会社の専務と知り合う。
 4 ピザ窯の会社に興味をもって、東京まで会社見学に出かける。
 5 ピザ窯で出来ることはないかと考えるようになる。
 6 ピザ窯をつくれば、必然的にピザを焼くことになるだろうと、イタリア料理店を始めることを意識する。
 7 イタリア料理ならパスタもあった方がいいと考える。
 8 飲食業への進出を考えていたところに父親が亡くなり、建設会社を畳むことになる。
 9 仕事もなくなり、本気でイタリア料理店を開業しようと決心する。
 10 辻さんの夫の退職金を頼りにジジヤババヤを始める。

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「楽しい話じゃないでしょ」

 そう辻さんは言うけれど、いえいえ、ジジヤババヤの個性は、店名よりもここまでの来し方にあったことを知って、僕は嬉しくなる。

「ピザ窯の会社が本当によくしてくれたんですよね。実際に私がお店を始めたいって話をしたらイタリア料理のシェフを何人も紹介してくれて、みなさんとってもいい方でね。パスタソースのレシピを教えてもらったり、ピザの成型や焼き方はピザ窯の会社で習ったんですね」

 そうは言っても、辻さんと同じ道をたどっても、誰もが料理人になれるわけではないですよね?

「なれるとも言えるし、なれないとも言えますよね。パスタソースを教わったシェフたちって、みんな目分量なんですね。だいたいこれくらいって感じ。そこから先は自分次第。何度も何度もつくりながら、そのたびに材料を計量して、自分なりのレシピとして磨き上げていきました」

 辻さんは、もう本当にたいへんだったんですよと、深刻さを感じさせない風情で言う。

「私が飲食をやるにあたって強運だったなぁって思ったのは、父と母の料理を手伝っていたこと。見よう見まねでやってきたことがいまに生きている。誰かに料理をきちんと教わったことはないのに、身体に染み付いているっていうか、舌が憶えてるっていうのかな」

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 2020年、辻さんは63歳になった。40代の終わりにジジヤババヤを開いて、未知なる飲食の世界へと飛び込んで14年になる。がむしゃらだったと書いておいてくださいね、と笑う。

「お店を始めた頃は父の会社の財産で悠々自適にやってると思っていた方もいたみたいですけど、とてもとても。毎日がいっぱいいっぱいで、最初はおもしろいことなんかなかったなぁ」

 それでも辞めたいと思ったことは一度もなかったと、辻さんは言う。もう駄目だと思ったことは何度でもあったけれど。

「お店を始めて1年くらい経った頃かな、疲れちゃってね。私、なんで、イタリアンレストランやってるんだろうって思ったことがあったんですよね。今日も頑張れるかなって、弱気になっていたときに、私の母親くらいの年代のおばあちゃんがひとりでやって来たんです。ゆっくりとパスタを食べていた姿が印象的でね。そのおばあちゃんが帰り際、立ち止まって、おいしかったぁって。そう言われた瞬間、すーっと全身の疲れが抜けていったんです」

 そう言って、辻さんは厨房の方へと視線を移す。僕も同じ方向に目をやると、ピザ窯の中で火が揺らめいている。辻さんの話を訊いて、もうすぐ1時間半が経とうとしている。ランチタイムも始まって、いつまでも辻さんに時間を取らせるわけにもいかないよな。僕のそんな思いが通じたのか、それとも顔に出たのかわからないけれど「最後にいいですか」と言って、辻さんが話し始めた。

「私、ジジヤババヤをいつまで続けるかどうかは、わかりません。受け継ぐ人もいないしね。10年は続いたらいいなと思っていたけど、もう14年。それなのに、まだまだやりたいことが次々と出てくるから不思議なものです。これからはピクルスやドレッシングの販売に力を入れていきたいしね。ワインのことももっと知りたいし」

 ここで辻さんは腰を上げて、入って来た中年の男性に頭を下げた。どうやら常連客のようだ。

「最近は余市にも新しいお店が出来てきて、素通りされなくなってきましたよね。嬉しいです。刺激にもなっています。私も体がつづく限り、いけるところまでいきたいと思ってます」

 辻さんはそう言って、食事中の客たちに笑顔で声をかけながら、厨房へと消えていった。

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