第六回 よいち水産博物館

「よいち水産博物館」は山の上にある。

 水産を謳っているので、海を望む場所に建っているものだと勝手にイメージしていると、あれれれ、となる。カーナビの導くままにハンドルを切れば、幹線道路から逸れた細い坂道をぐるぐると登るもんだから、おおいに戸惑う。途中、舗装が途切れて砂利道になったところで、さすがに一抹の不安を覚える。左にカーブを曲がると青い海ではなくて白ちゃけた建物が見えてくる、と同時にカーナビから「目的地に到着しました」のアナウンス。前方に目指す建物の名前が刻まれた看板を見つけたところで、ほっと胸を撫で下ろす。

「よいち水産博物館」は木々に囲まれた自然の中にある。

 昭和44年開館。北海道百年記念地域事業の一環として建設された町の水産博物館で、館長の浅野敏昭さんが迎えてくれた。

「よいち水産博物館」(北海道余市郡余市町入舟町21) 写真・中島博美

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「大丈夫かなって思いませんでした?」

「よいち水産博物館」の中へと入ると、挨拶もそこそこに館長の浅野敏昭さんが訊いてくる。

「本当にこんなところに博物館があるのかなって思いませんでした?」

 僕が答えるより先に、立て続けに浅野さんが訊いてくる。

「『アダムス・ファミリー』みたいですよね」

 そう言って、浅野さんは笑った。

 その映画のことは知っている。観たことはないけれど、言いたいことはよーくわかる。大丈夫かな、本当にこんなところにあるのかなと確かに思ったし、僕は『アダムス・ファミリー』じゃなくて『注文の多い料理店』を思い浮かべていた。

 実を言うと、建物の中に足を踏み入れたいまも、現実感があまりない。目の前には巨大な北前船の模型が鎮座しているし、ぐるりと見渡せば古い看板やポスターが壁面を飾っている。ここまでの道程と相まって、時間軸がねじれた非日常的な空間に迷い込んだかのような気分、ということを浅野さんに正直に伝えてみる。

「おっ、それはちょっといい話ですね」

 浅野さんは何だか嬉しそうだ。

「ここに来たみなさんが、たとえばですね、時間的な何かを感じ取って、過去のことや現在のこと、未来のことを考えるきっかけになればいいなと思っているんです。余市を起点にして、小樽だったり仁木だったり古平だったり、隣接する土地のことにも思いを巡らせてほしいと願ってもいます。だからいま、いつもと違った感覚になったということであれば、それはもう、館長としては大満足です」

 そう聞くと、僕も何だか嬉しくなる。水産博物館が山の上にあるというのも、もしかしてそのための仕掛けなの?

「そんなわけないでしょ」と浅野さんは笑う。どちらかと言えば、博物館までのアクセスがわかりにくいことは懸念材料のひとつだという。

「案内板、わかりましたか?」

 最初の曲がり道のところに案内表示があったらしい。まったく気がつかなかったなぁ。

「それはショックだわ」

 浅野さんは仰け反って、顔をしかめた。

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 浅野さんとは、この日が初対面ではなかった。水産博物館の館長ですと、余市町役場の人に紹介してもらったことがあった。不思議だったのは、そのときに役場の人たちの誰もが浅野さんのことを「浅野かちょう」と呼んでいたこと。なぜか「ん」が抜け落ちていたんですよね。気になりながらも余市独特の言い回しなんだと思うことにして深くは突っ込まないまま、いざ浅野さんと話してびっくり。浅野さんは館長でもあり、課長でもありました。役場のみなさんの呼びかけは正しかったというわけ。

 真相を知った僕は、自分の思い込みがどうにもおかしくて、ひとりでにやにや。浅野さんが訊いてきます。「あれ、何かおかしいことありましたか?」と。経緯を説明するのも野暮ったい気がして「館長と課長って、どっちが偉いんですか?」なんて、どうでもいいこと訊いて誤魔化します。不思議そうな面持ちで「いやぁ、考えたことなかったですねぇ」と答えた浅野さんは、少し間を置くと「僕自身、どっちの肩書きを名乗っても偉くないですよ」。

 浅野さんの名刺に目をやると、上から順に、よいち水産博物館館長、社会教育課課長。となると、博物館の館長が主な仕事なのかなと思って改めて質問をすると、浅野さんはきっぱり。

「名刺の中で、どれ? と言われたら、僕は学芸員ですね」

 そう言われて、もう一度、名刺に目を落とせば、ふたつの肩書きとは別の場所=名前の横に「学芸員」。"curator"と英語表記も。

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 浅野さんは留萌管内の笘前町生まれ。「余市の人々。」は、これまでずっと余市で生まれて余市で育った人に話を訊いてきた。偶然だけど、必然。だから今回、余市以外の土地で生まれ育って、物心がついてから余市で暮らし始めた浅野さんが、余市について何を話すのか興味津々。

「よいち水産博物館」の1階の奥。かつては余市のスキー場のヒュッテで使われていたという木製のベンチ(ニッカの余市蒸溜所がスキー場に寄贈した年代物)に腰を下ろして、浅野さんにファースト・クエッションーーどうして余市で暮らすようになったんですか?

「理由ですか。うーん、どうしてと言われると、気の利いたことが言えない自分に困ってしまいます」

 浅野さんは、本当に困ったなぁという表情で「正直に話した方がいいんですよね」と、おかしな質問を返してきます。僕としては、答えたくないことは答えなくても大丈夫ですよ、と答えるしかないわけで、「そうですよねぇ」と、対する浅野さんの歯切れはあんまりよくない。博物館の入口で迎え入れてくれたときと比べて、ちょっと緊張しているみたい。

「答えたくないとかではないんです。正直に言うと、余市が好きだからとか、そういった劇的な話がひとつもないんです」

 むむむ。確かに、そう言われると、気の利かない話になりそうな予感がしますよ。

「鰊漁です。僕が余市に来た理由は」

 鰊漁。それだったら余市で暮らす真っ当な理由になるじゃないですか。と思いながらも、余市の鰊漁は昭和の初めにはほとんど行われなくなったはず。と考えると、鰊漁が最盛期を迎えていた明治や大正の時代を浅野さんが生き抜いてきたとは思えないし、そもそも漁師だった過去があるようにも見えません。鰊漁とは如何に?

「鰊漁に関係する人々の移動が僕の研究テーマだったんですね。北海道という土地で、鰊漁に携わった人たちの移動を調べるわけですよ。その研究がきっかけなんですよね、僕が余市で暮らすようになったのは」

 鰊関係の研究。おもしろそうな話じゃないですか、と僕が伝えても、浅野さんは「いやぁ」と、不安げな表情のまま。これはもしかしたら話題を変えた方いいのかな。と思って、方向転換。

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 セカンド・クエッションーー浅野さんは「よいち水産博物館」の何代目の館長になりますか?

「何代目? うーん、これまた弱りましたねぇ」

 またしても困ったなぁという表情を見せる浅野さんは、指折り数えながらも、天を仰いでギブアップ。「何代目なのか、正確にはわからないです」。続けて「考えながら思ったんですけど、訊かれる前に言っておきますね。館長になってから何年になりますかってことも訊かない方がいいかもしれません」。正確にはわからないってことですね、と僕が返すと、浅野さんは相好を崩して「そういう可能性が高いです」。向かい合ってから初めてかな、浅野さんが笑ったのは。僕も笑顔で、訊かないことにします、と答えます。その言葉を聞いて、浅野さんがふふふふと笑った頃に、ようやく場があたたまってきた感じ。

 こんなやり取りが楽しいんですよね。予定調和じゃないQAは、勝敗の行く末が見えないシーソーゲームのよう。「余市の人々。」は、話を訊く前に質問事項を提出したりしませんからね。そもそも求められたこともない。市井の人の世間話やお茶飲み話の延長に、人となりが顔を出す。忘れていたり、正確に答えられないことは、その人にとっては重要なことじゃない。浅野さんにとって、博物館の館長がこれまでに何人いたとか、自分自身が館長を何年やってきたかは取るに足らないこと。僕はそんなふうに考えます。

「平成8年にここに入ったことは確かです。僕が館長になるまでに、4人は変わってますね。だいたい2、3年で異動かな。僕の前の館長は発掘をやっていた学芸員だったので、ちょっと長かった。僕も学芸員なので、それなりに長いです。でも、正確な年数は訊かないでくださいね」

 笑みをたたえながら、少しづつ、浅野さんの口が滑らかになってきます。

「余市にやってくる前の話とか、若い頃のことはよく憶えているんですけどね。最近のことは今朝に何を食べたのかも忘れちゃうくらいですよ」

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 ではでは、サード・クエッションは若い頃の浅野さんについての話にしましょう。

「僕は2浪して、旭川の大学に入るんです。教職をとりました。卒業した後にシアトルに行くんですよね。日本人学校に就職しようと思って。でも、うまくいかなくて、観光ビザで入ったからずっといるわけにもいかない。帰国したら同級生はみんな先生になっているし、自分だけが手持ち無沙汰。20代の半ばまではずっとそんな感じでしたね。あたふたしているのに、手応えがないっていうんですかね」

 確かに浅野さん、若い頃の話になるとメリハリが効いています。僕はうんうんと頷くばかり。問わず語りは続きます。

25歳のときに初めて職に就いたんです。中学校の初任者研修講師です。中学3年生の副担任。やっと居場所を見つけたわけですよ。でもね、辞めちゃうんです。10ヶ月で」

 えぇ。思わず、声が出ます。

「その次にやったのが皿洗い」

 揺れ幅の大きい浅野さんの職歴に、聞いているこっちがどきどきします。

「学生のときから飲食の仕事が好きだったこともあって、札幌でいちばん繁盛しているスパゲティ屋さんに入ったんです。皿洗いからスタート。というより、皿洗いがやりたかった。だから、満足してました。働いているうちに、このままいけば次のステップに進めるかなという気持ちが芽生えてきて、最終的には麺ゆでまではやらせてもらえるようにはなりましたね。でも辞めちゃうんですよ、やっぱり10ヶ月で」

 皿洗いと聞いたときも、えぇって思ったけれど、再び辞めちゃったと耳にしたときは、その何十倍ものえぇっが僕の頭の中を占拠します。10ヶ月を境にして、浅野さんの気持ちに変化がおとずれるのかな。

10ヶ月くらいが経つと、十分に楽しんだという思いになっちゃってたんですよね。同時に、このままでいいのかなというもやもやした気持ちが芽生えてくる頃ですよね。とは言ってもですよ、そんなことばかりしてもいられないわけです」

 となると、そろそろ余市ですか、と僕が訊ねると、浅野さんは「あっ、余市はまだですね」。その後は北海道教育委員会の職員となって、函館を皮切りに室蘭などで働くこと3年、だとか。と聞くと、ついに10ヶ月以上ですね、となんだか嬉しくなってきます。

1年ごとに異動があったので、なんとなく次はどこかなって思ったりして、よーっしっていう気持ちなっていたみたいです」

 20代の浅野さんが、移動を続けていたことがよくわかる。土地の名前が次から次へ飛び出してくる。でも、そのほとんどが1年に満たない。まるで定住することを拒否するかのように。旭川に行ったり、札幌に行ったり、函館に行ったり。転々、という表現がぴったり。

「ぷらぷらするのが好きなだけです。いまでもそう。さすがに引っ越したりはしないですけど、休みの日にぷらっと出かけて、バスを乗り継いで知らない土地まで移動して、2泊してひょっこり帰ってくるとかね」

 彷徨い続ける20代の浅野さんの話で、さっきの鰊漁のことを思い出します。鰊に関わった人々の移動が、浅野さんの研究テーマだったんですよね?

「社会学です。大学のときに人口の移動を研究して、それで学芸員の資格を取ったんですね。資格自体は大学を卒業した後に通信制で。集団が移動しなければいけない理由、そこに行かなければいけない理由を調べるわけです」

 そもそも、浅野さんが人口の移動を研究しようと思ったきっかけはどこにあったんだろう。

「北海道の日本海側は鰊で豊かになったわけです。僕の故郷の笘前町も御多分に洩れず人が集まった。でも、僕が生まれた昭和41年にはそんな痕跡がこれっぽちもないわけですよ。すごかったんだよ、すごかったんだよと、耳にする話はすべて過去形。豊かな話にはすべて、昔はね、という言葉が枕詞のようについてまわる。僕はそんな話を聞きながら育ちました。それなのに、僕が暮らしていた町にはスーパーすらなかったんです。なんでだよって、ずっと思ってました」

 みんな、どこに行ってしまったの?

 浅野さんが研究したかったのは、そのことだった。

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「でも、学芸員の資格があるからって、仕事がすぐにあるわけじゃないんですよ」

 北海道教育委員会の仕事をしながら、浅野さん、道内の博物館へと手紙を出した。働きたいという思いを綴って。

「どちらかと言えば、ここ、つまり余市に引っかかったクチなんですよ、僕は」

 ついさっき「気の利いたことが言えない」と話した浅野さんの困った顔が思い出される。浅野さんは鰊のように、余市に流れ着いた。浅野さんを見れば、うんうんと頷いている。

「余市で発掘の仕事ならあるというわけです。でも発掘の仕事を希望しているわけじゃない。僕は学芸員として働きたいわけですからね。でも職員の募集はないと。それでも、とにかく自分を売り込んだわけです。そうしたらですよ、何がどうなってそうなったのかはわかりませんが、職員として採用しますよと。驚きますよね。運が良かったとしか言いようがないのですが、学芸員として余市で働くことになったんです」

 浅野さん、30歳のとき。ずっと臨時雇いだった浅野さんにとって、採用が決まったときはどんな気持ちだったのだろうか。

「正直に言いますよ」

 突然、浅野さんが宣言します。さっきは「正直に話した方がいいんですよね」なんて言っていたのになぁ。どんな言葉が飛び出すのか、僕は待つのみ。

「採用が決まったとき、思ったんです。おいおい、余市町、大丈夫かよって。学芸員として、なんの実績もない30歳の中途半端な男に決めちゃって、いいのかよって」

 秘密の話を打ち明けるように、浅野さんは身を乗り出してこちらに顔を近づけながら「冗談じゃなくて本当にですよ」と念を押してきます。

「ただ、僕にとっては絶好の場所でもあったんです、余市が、ですよ。鰊関係の研究をするなら、余市は稚内にも函館にも行ける真ん中で、後付けで考えると、ここしかないよなって」

 浅野さん、気の利いた話になってますよー。僕は心の中で快哉を叫びます。

「もうひとつ、ニッカが好き。余市にニッカがあることでテンションが上がります。何が好きって言われると困るんですけど、たとえば、ニッカの図面を110枚も借りてきて、どの建物が古くて新しいかを調べたりして喜んでます。ランダムに存在しているのでパズルみたいで、楽しんですよね」

 余市のことを語る浅野さんの面持ちが、さっきとは打って変わって楽しそうになっているのがよーくわかります。

「竹鶴政孝さんが余市を選んだ理由にも何かがあるわけですよ。鰊で町ができる。労働力が増える。余市では、その人たちがりんごの時季になるとりんご畑で働く。増毛でもよかったはずですよね。でも余市には鰊とりんごと『何か』があったんだと思います」

 浅野さんの言葉が熱を帯びてくる。そろそろ訊いてもいいかな。浅野さんが考える余市の魅力ってなんだろう、と。

「あらら、答えにくい質問はしないでくださいよ。おぉ」

 浅野さん、困ったというよりは嘆いている感じで、天を仰ぎます。

「よく言えば、活発。悪く言えば、人を惹きつける魅力が、ぱっと見ただけはわからない場所ですよ、ここは」

 そのココロは?

「鰊を獲るために移動して来た多くは農民だったんです。漁場から鰊がいなくなれば、農民は魚に執着がないので、仕事がある別の場所に行ってしまう。余市はすべての都道府県からやって来てると言っていいほどに、全国から人が流れてきた場所なんです。でも、すぐに出て行ってしまう場所でもあった。それが余市。僕は仕事柄、いま余市で暮らしている人たちに話を訊いてまわることが多いんですね。『余市での暮らしは楽しいですか?』と問うと、誰もが『はい』とは言わない。けど『嫌じゃない』という。僕もその感覚がわかる。少し長く住むとわかる。目に見えるものじゃない、肌で感じるものが」

 30歳で余市で暮らし始めて、浅野さんのこの場所での生活はもう四半世紀になる。立派な余市の人だ。

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「よいち水産博物館」と浅野さんのこれからはどこに向かうのか、最後に訊いてみようかな。そう思いながら、口から出た質問は、浅野さんの趣味はなんですか?

「趣味? ないですよ。ないない。仕事が趣味かって? いやいやそれもないなぁ。本当に調査したいのかどうかもわからないですからね。仕事じゃない調べものは楽しいんですよ。ここにあるこれっていつ頃からあったの? みたいなことを訊ねたられたりすると、嬉々として調べちゃう。音楽ですか? キングクリムゾンですね。えっ、意外ですか?」

 浅野さんとの距離がどんどん近くなっていく。そもそも、学芸員って、どんな仕事なんだろう。

「残す仕事です。探したり、聞きとめたり、調べたり。わかりやすく言うと、そんな感じ」

 学芸員の仕事の楽しさについて訊いていいのかどうか迷っていると、先に浅野さんが口を開きます。

「いまにして思えば、仕事としての達成感は皿洗いがいちばんだったかもしれないですね。成果が見えやすい。思考も飛ばない。肉体を使う。もう一度、あんなに達成感のある仕事がしてみたいと思う事もありますよ」

 でも、浅野さんには学芸員の仕事がある。館長としての責務がある。

「それはもう、博物館をもっともっとどうにかしたいという思いはつねにありますよ。余市は縄文時代からの発掘物がそのまま残っている珍しい土地ですし、せっかくだからいろんなことをやりたい。『あさのーと』に実現したいことを書いています」

 えっ、なんですか? あさのーと?

「やってみたいことを書き綴ってるノートがあるんです。そのノートをそう呼んでいます」

 浅野さんは、そう言いながら、へへへへと笑う。おぉ、この日いちばんの笑顔だなぁ。

「よいち水産博物館」に余市の人はほとんど来ないんですよと、浅野さんはつぶやくように口にします。余市の人たちがいつか行こうと思いながら最後まで来ないのが余市の博物館である。それをなんとかしたい。企画に問題があるということもある。その責任の一端は自分にもある。浅野さんは、箇条書きの題目を読み上げるように、ぽつぽつと博物館について話します。

「お盆に孫が遊びに来て、行くところがなくて、じいちゃん、ばあちゃんがしょうがなく連れてくる場所なんですよ」

 浅野さん、少々自虐的。

「じいちゃん、ばあちゃんがしょうがなくやって来ると、必ず言うのが、意外と面白いね。勉強になるね。もっと早く来ればよかった、なんですよ」

 浅野さんの矜持が顔を出す。

 最近、町民無料デーを始めたという。予想していた以上の来館者に、浅野さんは手応えを感じている。

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「よいち水産博物館」の資料の中心は、もともと余市にあった国の機関である北海道区水産研究所。研究所は釧路に移ったけれど、当時の資料が大量に残っていて、その保存の意味合いもあって、余市に水産博物館が誕生した。浅野さん曰く「結局は郷土資料館。個人的には水産を取りたい気持ちがあります。水族館と間違える人もいますからねぇ」。

 平成5年までは、博物館の隣に温泉施設があった。ソーラン節の生唄を楽しめる、大きな宴会場やゲームセンターを兼ね備えた大規模旅館。宿泊客が浴衣姿で割引券を持って、浮かれ気分で博物館にやって来ていたこともあったいう。当時は博物館もその周辺も潤いがあった。『アダムス・ファミリー』を彷彿させる気配はどこにもなかった。でも、浅野さんは、その時代を知らない。鰊のときと同じように、すごかったんだよとは聞くけれど、ぽつんと博物館となったいまでは、面影すらない。「いつも後追いです」と、浅野さんが残念そうにつぶやく。

「ほじくれば、ここにも歴史があるんです。いや、どこにでも誰にでもある。だから僕らの仕事がある。まだまだ余市であがいてみます」

 こんな話でいいんですかね、という浅野さんの言葉を合図にお開きとなった。建物の外に出ると、強い風が吹き抜けて、びゅうびゅうと木々を揺らしている。周囲を見渡せば、ここが小高い山の上であることを思い出す。と同時に、山の上の水産博物館――そんなシュールな立ち位置も悪くないんじゃないかな、なんて無責任な考えが頭をよぎるほどの唯一無二な存在感に圧倒される。

 なにはともあれ、余市の人々が「よいち水産博物館」をもっともっと訪れますようにと願いを込めて、いざ下山。