第3回 1971~1972年のロック事情

 渋谷陽一が音楽評論家としてデビューした1971年の日本において、ロックはどのような状況にあったのか。彼のデビュー原稿で「枯れたロック界に水をまく放水車GFR」と題されたグランド・ファンク・レイルロード評が載った洋楽ロック雑誌「ミュージック・ライフ」19716月号をめくってみよう。

 カラー・グラビアでは「あと3週間でシカゴが日本にやって来る」のキャプションとともにブラス・ロックの雄、シカゴが4ページにわたって掲載されている。また、モノクロ・グラビアでブルース寄りのハード・ロック・バンド、フリーの来日の模様を伝えている。前述の渋谷の原稿は、当時の最新作『サバイバル』にからめてGFRを論じた内容だったが、同号にはそのアルバムの広告が掲載され、「G.F.R.待望の来日記念最新盤」、「ロック史上最大の話題を集めてグランド・ファンク・レイルロード7月来日決定!」の文言も書かれていたのだ。日本で人気があった同バンドをとりあげた渋谷の原稿中では、来日に触れていない。だが、新作発表、来日決定というタイミングでGFRの記事を掲載したいと編集部が考えたことは想像できる。さらにスリー・ドッグ・ナイトのグラビアには「来日説もささやかれている」と記されているが、実際に初来日したのは翌年12月のことだ。

 輸入文化であるロックは、1966年に日本武道館で公演したビートルズの人気を1つの契機として、この国でも次第にファンを増やしていく。そして、1971年から1972年の時期は、大物と称されるバンドの来日が相次ぎ、日本で洋楽文化が広まるようにうながした。先にあげた以外の1971年の来日アーティストを拾いあげると、ブラッド・スエット&ティアーズ、ピンク・フロイド、レッド・ツェッペリン、UFO、エルトン・ジョン、1972年はクリーデンス・クリアウォーター・リバイバル、再びシカゴ、再びピンク・フロイド、ビージーズ、テン・イヤーズ・アフター、プロコル・ハルム、カーペンターズ、ジェスロ・タル、エマーソン・レイク&パーマー、ディープ・パープル、再びレッド・ツェッペリン、T.レックスといったぐあいだ。

 1972年に「再び」組が散見されるのは、前回がそれだけ好評だったからだろうし、この時期の来日公演には、今では「伝説的」と称され語り草になったものもある。海外アーティストの来日が普通のことになるのはこれ以降であり、当時はまだ海外ロックの日本公演は特別なことだった。国内の音楽フェスの走りだった19718月の箱根アフロディーテで、ピンク・フロイドがトリで演奏する最中に霧が立ちこめ、幻想的な風景が出現した。1972年に雨の後楽園球場に登場したエマーソン・レイク&パーマーでは、キース・エマーソンがいつものナイフではなく日本刀でキーボードを刺すパフォーマンスを行った。その手の逸話が語り継がれ、バンドの人気や存在感を高めたのである。

 なかでも特に有名なのが、19717月に後楽園球場で行われたGFR公演だ。前座が出ている最中に雨が降り始めたため、しばらくコンサートは中断され、彼らの登場は遅れた。雨に打たれながらお目当てのGFRを待つ観客の期待感は膨れ上がる。小降りになっていよいよGFRが登場すると、興奮した観客は手を叩き、足を踏み鳴らし、なかにはネットによじ登るものもいたという。演奏の最中に再び雨が激しくなり、雷鳴が轟いた。それが予期せぬ演出効果となり、ライヴをいっそう印象的なものにしたのだった。

 渋谷陽一は1980年に刊行した『ロックミュージック進化論』でこの時の体験をふり返り、「奇跡とも思える舞台装置にお客もグランド・ファンクも酔いしれ、何がなんだかわからない興奮が球場を満たした」、「何万人ものお客が、"ハートブレイカー"を雷鳴の中で合唱する光景は、それなりに感動的で、今だにその時の光景をはっきりと思い出すことができる」と書いている。

 この公演が語り草になったのは、雷鳴のなかで演奏したからだけではない。満員のため会場に入れなかった約2000人の若者たちが「なかに入れろ」と騒ぎ、ゲートを打ち破って200人ほどが球場内に乱入したのだ。当時の新聞は、コーラ瓶や石、火をつけた新聞紙を投げるなどして、警備員やファン数人が負傷したと報道している。1960年代後半には学生運動の隆盛があり、石や火炎瓶を投げるデモがしばしばあった。1970年代に入り学生運動は退潮にむかうが、GFR公演での乱入騒動はその種のデモのノリを引き継いだもののように思える。

 既存権力に抵抗する学生運動、ベトナム戦争への反対運動などが先進諸国で盛り上がった1960年代後半、米英を中心にロックは従来以上に発展し、日本にもそれが伝播してきた。ロックがただ音楽であるだけでなく、周辺のアートと結びついたり思想性を帯びたりする部分も出てきたのだ。学生運動と同時代のロックには反体制的なイメージが強かったし、ライヴ会場で政治的な演説がされるような例も珍しくなかった。

 一方、渋谷は、音楽評論家デビューする前、1970年の浪人生時代に新宿厚生年金会館前にあったロック喫茶「ソウル・イート」でDJのアルバイトを始めた。DJといっても、アーティスト名とアルバム名を告げ、レコードをかけるだけの簡単な仕事だった。巨大なスピーカーでロックを鳴らす店には大勢の客が訪れ、異常な繁盛ぶりだったという。渋谷は『メディアとしてのロックンロール』(1979年)でその頃の店の様子を回想している。「客はロック・ファン以外にも、正体不明の連中がウロウロしていて、フーテンは半ば店を住み家のようにして暮らしていた。店の中にはマリファナの臭いが充満し、金のないフーテン達の愛用するシンナーの臭いとまざり合い、坐ってコーヒーを飲んでいるだけで気分が変になって来た」。

 アメリカ軍基地のある街で日本の若者男女が黒人たちとの乱交パーティやドラッグに明け暮れる様子を描いた村上龍のデビュー小説『限りなく透明に近いブルー』(1976年)は芥川賞を受賞し、100万部超のベストセラーになった。1970年代初頭を舞台とし、ドアーズ、ローリング・ストーンズなどロックへの言及が多い同作には、クスリで酩酊した女友だちが主人公に「あなたソールイートのトイレであたしを犯したの憶えてるでしょ?」といいつのる部分がある。この店は、フーテンのたまり場としてマスコミでも知られていた。

『ロックミュージック進化論』によると、渋谷が勤め始めた年の夏に最もリクエストが多かったのが、GFR2枚組『ライヴ・アルバム』だという。だが、同作は197011月リリースなので、冬か1971年夏の出来事だったのかもしれない。渋谷は「常連の女の子にグランド・ファンク・マニアが居て、いつも二枚組のライヴをリクエストし、それがかかっている間、頭を振りながらスピーカーの前で体をフラフラとゆらしていた」と思い出も記していた。「狐つきみたいで、ちょっと不気味」と形容しながらも、書き手がシンパシーを感じているのが伝わってくる文章だ。

 渋谷は、高校時代から大学にかけてハード・ロック・フリークだったと、あちこちで語っている。したがってデビュー原稿がGFRだったのはいかにもふさわしいと思えるが、「いちばん最初に依頼されたテーマがグランド・ファンクであったのはまったくの偶然だ」とも彼は『ロックミュージック進化論』に書いている。

「枯れたロック界に水をまく放水車GFR」というデビュー原稿は、ハード・ロックおよびGFRの擁護を生硬な文章で綴った内容だが、タイトル通り、現在のロック界は枯れているという認識から出発している。「過渡期であるという一語で清算してしまうには、今のロックはあまりにも醒めてしまい枯れているものが多い」と彼は、まず書き始める。エルトン・ジョン、ジェイムス・テイラー、スティーヴン・スティルス、ニール・ヤングなど、当時、ソフト・ロックやフォーク路線だったアーティストの名をあげ、「醒めた様子をよそおいながらも実のところ、本質において自己肯定的であり、安易で楽観的」と批判するのだ。

 同号の「ミュージック・ライフ」で表紙になったジェイムス・テイラー、インタヴュー記事があるスティーヴン・スティルスを否定的に評した渋谷の原稿を載せているのだから、今みるとこの号の「ミュージック・ライフ」は十分に硬派だ。

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 続けて彼は、主流であるべきハード・ロックが落ち目であり、レッド・ツェッペリンがソフト・ロックに傾斜していることを嘆き、唯一気を吐くGFRの擁護論を展開していく。GFRは、レッド・ツェッペリン、ブラック・サバス、ディープ・パープルのように後世への影響が大きかったわけではない。1970年代には雷鳴コンサートの衝撃で記憶されていたが、現在ではあまり評価されていないバンドだ。1980年代になって「ヘヴィ・メタル・ブームはゴミじゃ!!」(「ロッキング・オン」19811月号)と主張し始める渋谷が、10年前にメタルの先祖であるハード・ロックを擁護するため、むきになってGFRクラスのバンドを支持していたのが、今となっては面白い。

 後に音楽評論家としての渋谷陽一を知った人は、おや? と思うかもしれない。彼が最も愛したバンドがレッド・ツェッペリンだったことは、よく知られている。ツェッペリンが最初に来日した年に評論家デビューし、2度目の来日の年に「ロッキング・オン」を創刊したのだから、渋谷はこのバンドの勢いに後押しされて活動に本腰を入れたのかと想像したくなる。だが、先のGFR評執筆時の最新作『レッド・ツェッペリンIII』(1970年)でアコースティックな曲が半分以上を占め、ハード・ロック色が薄かったことへの失望を、かつての渋谷は書いていた。その変化もバンドの音楽が発展するための必然的な過程だったと位置づけるようになるのは、しばらく後のことだ。また、彼らの来日公演は3時間を超える破格な内容であり、渋谷も『ロックミュージック進化論』で「実にエネルギッシュで、素晴らしいというよりは、すさまじいという感じ」と回想している。だが、「サード・アルバムの曲を演奏する時だけ、ステージの端にチョコンと三人がギターを抱えて座り、可愛らしいコーラスなどを聞かせるのには失望した」と書き加えずにいられないのだ。

 大物バンド来日ラッシュの熱狂と、ロック喫茶の鬱屈したような熱狂にとり巻かれながら、枯れるようなロックの変化も感じている。そのような状況で渋谷は、「ロッキング・オン」の創刊にむかったのである。