第三回 日永の追分-奈良井-塩尻-善光寺-小諸-岩村田

  • 新・東海道五十三次 (中公文庫)
  • 『新・東海道五十三次 (中公文庫)』
    武田 泰淳
    中央公論新社
    994円(税込)
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  • 鶏肋集・半生記 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)
  • 『鶏肋集・半生記 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)』
    井伏 鱒二
    講談社
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(......前回の続き)
 十九時十七分には伊勢鉄道の鈴鹿駅に到着しているはずが、二十時すぎまでJR四日市駅で足止め。この日(十月七日)は鈴鹿サーキットでF1が開催されていて、伊勢鉄道の鈴鹿サーキット稲生駅が大混乱に陥り、その影響で電車が止まったらしい。伊勢鉄道は通常は一両か二両編成だ。鈴鹿サーキットでF1の開催時は四~六両編成の臨時快速が増発されるものの、それでも人が乗り切れない(駅のホームに辿り着くのも大変)。すこし遠いが、近鉄(白子駅か平田町駅)を利用したほうがいいだろう。どちらかといえば、平田町駅のほうが空いている。
 電車の中でぼーっとしていたら、近鉄で振替輸送する件を伝える車内放送が流れる。
 JR四日市駅と近鉄四日市駅は約一・二キロ。これまで何度も行き来した道だ。近鉄四日市駅近くのアーケードの商店街は旧東海道が通っている。振り替え輸送なら乗り換えの楽な桑名駅(桑名も東海道の宿場町だ)でやってほしかった。
 近鉄のもより駅から家までの道のり(店は一軒もない)は真っ暗だったが、LEDのヘッドライトが役に立った。

 十月八日(月・祝)、午前九時、近鉄鈴鹿市駅近くの神戸城跡(神戸公園)に行く。神戸は「かんべ」と読む。
 わたしの母は伊勢志摩の浜島育ち(生まれは名古屋の鳴海なのだが、すぐ志摩に引っ越した)。二年前に亡くなった父は台湾生まれ。戦後、鹿児島の大口市(現・伊佐市)に移り、十八歳で東京に出て、川崎市、浜松市、鈴鹿市と転々と工場を渡り歩いてきた。
 つまり父は東海道、母は伊勢街道(参宮街道)に沿って鈴鹿に辿り着き、そこで生まれた子どもがわたしなのである。東海道と伊勢街道が合流する「日永の追分」に行くしかない。
 昔も今も鈴鹿は東海道の石薬師宿、庄野宿より伊勢街道沿いの神戸や港町の白子のほうが栄えていた。
 二年前に父が亡くなったとき、白子駅前の白子町観光協会に寄って「歩いてみよう鈴鹿神戸周辺」というマップをもらっていた(白子と伊勢若松のマップもある)。わたしが最初に入手した「街道マップ」だ。
 このマップでは伊勢街道は「参宮街道」と表記されている。『東海道中膝栗毛』でも日永の追分から東海道ではなく、伊勢街道を通る。神戸にも寄る(喜多さん、神戸で散々な目にあう)。
 伊勢への道は江戸からは伊勢街道を通るが、京都、大阪方面からは東海道の関宿から津に至る伊勢別街道を通った。ほかにも伊賀街道、初瀬街道、伊勢本街道などを通るルートもあった。十一月に増補新版が復刊された武田泰淳の『新・東海道五十三次』(中公文庫)には見知らぬ街道の名前が出てくる。

《伊賀上野をめざす私たちなのに、伊賀街道を走らなかった。
 関へぬける勢古街道を走り、名阪道路へ入った》

 たぶん勢古街道は伊勢別街道だろう(ちがうかもしれない。詳しい人がいたら教えてほしい)。伊勢別街道は「いせみち」「参宮道」「山田道」などの呼び名もある。
 街道入門者はまずひとつの街道にいろいろな名前があることに混乱する。同じ名前なのに別の街道だったりすることもある。街道ややこしい。
 神戸から旧伊勢街道をひたすら北に向かって歩く。途中、古い建物の壁に歴史の道東海道宿駅会議主催「第31回 石薬師庄野宿大会」のチラシが貼ってあった。十月十八日(木)の十三時半に開会式。「なんで平日昼間?」とおもったが、来年も開催されるなら行きたい(来年は藤枝宿で開催のようだ)。
 伊勢街道を歩きはじめて一時間。高岡橋に到着し、鈴鹿川を渡る。何かをなしとげた気分だが、それが何かはわからない。それにしても歩いている人がいない。誰ともすれちがわない。
 午前十時二十分。近鉄の鈴鹿市駅から歩きはじめて初のコンビニ、セブンイレブン四日市河原田町駅前店に到着する。この日、十月というのに気温が三十度くらい。のどからから。コンビニは街道のオアシスである。
 コンビニから三百メートルほど北に歩くと河原田神社がある。かなり急な階段を登り、体力を消耗する。神社から伊勢湾が見えるそうなのだが、木が繁りすぎて、海が見えない。
 内部川を渡り、小古曽町へ。『伊勢と出雲』(岡谷公二、平凡社新書、二〇一六)には小古曽の「コソ」は古代朝鮮語で「聖地/社」を意味する言葉と記されている。
 三重に渡来人由来の地名、神社が多く残るのは奈良時代に大陸や半島から来た人が海の近くに住みたかったからではないか。もともと海を渡ってきたわけだし、三重の海岸沿いは季候も温暖だし、食べ物にも困らない。古代人におすすめの土地である。
『伊勢と出雲』には、古代の伊勢が水銀の産地だったと記されている。ヤマトタケルの足跡も、鉄や水銀の産地と重なっているという説を何かで読んだ記憶がある。昔、内部川は采女川と呼ばれていた。ヤマトタケルが病気になったときに助けた采女がこのあたりにいたという伝説が残っている。
 街道のことを調べていると記紀神話につながっていく。古代史は避けて通れない。

 午前十一時二十分、日永の追分に到着する。桑名の一の鳥居にたいし、日永には二の鳥居、「東いせ参道」「右京大阪道」と刻まれた道標もある。日永は道の分岐がはっきりしている追分らしい追分で、東海道の「間の宿」(四日市宿と石薬師宿のあいだ)でもあった。
 東海道日永郷土資料館に入る。「ひながふれあいマップ」という折畳み式の地図をもらう。資料館のスタッフが展示品を解説してくれた。「写真、撮ってもいいよ」といわれたが、わたしはカメラどころかスマホも携帯電話も持っていない。黙ってメモをとり続ける。
 帰りに『伊勢・参宮街道を歩く 日永追分から伊勢神宮まで』をはじめ、同資料館発行のパンフレットを五冊購入。地元の郷土史家が歩きまくって調べた資料に頭が下がる。
 日永は東海道、伊勢街道を通る旅行者向け「足袋(日永足袋)」が有名だった。当時の足袋や木型も資料館に展示されていた。足袋は旅の必需品だから、いい商売になったとおもう。もし江戸時代にタイムスリップしてしまうことがあったら、街道の追分で足袋を売ることをおすすめしたい。
 資料館を出たあと、日永一里塚を見て、日永カヨーというショッピングセンターに寄り、JRの南四日市駅に向う。家を出るとき、母が「日永に行くんやったら、日永カヨーにあんたの好きなうどん屋があるで」と教えてもらっていた。でもなかった。ゑびすやカヨー店。今、調べたら二〇〇一年十月に閉店している。おかん情報、古すぎる。
 日永カヨーからJR関西本線の南四日市駅まで歩き、十二時四十八分発の名古屋駅行きの電車に乗る。十三時三十六分、名古屋駅着。十三時四十六分のJR中央本線に乗る。
 しばらく電車に乗っていると、車窓から「化石のまち みずなみ」という看板が見えた。瑞浪市化石博物館(岐阜県)があるようだ。ミュージアム中仙道も気になる。次の釜戸駅付近には「白狐と河童と竜の里」という看板が見えた。電車の窓からの風景だけでもワクワクする。
 その次の恵那駅は中山道の大井宿――恵那市役所中山道ひし屋資料館、中山道広重美術館などがある。
 東海三県、あるいは愛三岐という言葉もあるが、岐阜県は行ったことのない町ばかりだ。近いわりに人の行き来が少ないのは東海道と中山道という街道文化圏のちがいもあるのではないか――なんてことをおもったが確証はない。
 十五時七分、中津川駅に到着する。東京と三重をJR中央本線で行き来するさい、長野県の塩尻駅、岐阜県の中津川駅は毎回途中下車している。
 中央本線は中津川駅までは電車の本数が多いのだが、その先になるとがくっと減る。次の普通列車は十七時まで待たなくてはいけない。二時間待ち。そんなに待ちたくないので十五時四十九分の「特急ワイドビューしなの」のチケットを買う。木曽福島駅までの乗車券+特急券(自由席)で二千百五十円。
 今年八月にわたしは東京~三重をJR中央本線で往復した。そのとき、中山道の木曽福島宿を歩いた。関所があって川がきれいで橋に風情があって路地がごちゃごちゃしていて楽しい町だった。今のところ、中山道でいちばん好きな宿場町である。
 井伏鱒二の『鶏肋集/半生紀』(※「鶏肋」の「鶏」は旧字。講談社文芸文庫、一九九〇年)の「鶏肋集」に「私は木曾に旅行して以来、旅行好きになった。徹頭徹尾、旅行が好きになった」とある。最近、この「木曾」が木曽福島であることを知った。何度か読んでいたのに木曽のどこなのか考えたこともなかった。街道好きになると、こうした発見がたくさんある。
 今回は木曽福島には寄らず、奈良井宿に行こうとおもう。中山道六十七次(草津で東海道と合流するので、京都までの宿場を含めると六十九次)の三十四番目の宿場。中山道のちょうど中間の宿場町だ。ちなみに東海道五十三次の真ん中の二十七番目の宿場は袋井宿(静岡県)で、近年「どまん中の宿場」としてPRしている。
 種村季弘著『東海道寄り道紀行』(河出書房新社)の「今昔木曾街道繁盛記」に木曽福島や奈良井宿の話が出てくる。奈良井宿については「その駅前からしばらく行くと、往時の宿場が映画のセットのようにそっくり保存されている」とある。
 種村さんは『東海道書遊五十三次』(朝日新聞社)という本もある。街道好きだった。
 木曽福島駅から十六時三十二分の松本行に乗り、奈良井駅に到着したのは十六時五十五分。この時間に着いたのは失敗だった。蕎麦を食べて、のんびり町歩きをするつもりが、店、開いてなーい。道の駅のほうにも行ってみたが、やっぱり飲食店は閉まっている。でも「奈良井千軒」と呼ばれる町並はまさに「映画のセット」のようだった。次は昼間に訪れたい。
 この日の宿は塩尻駅の近くのホテル中村屋。「訳ありプラン」で四千五百円。奈良井駅から塩尻駅に行く次の電車は十八時二十六分。そうこうするうちに日が沈む。空腹で歩く元気もない。駅の構内で読書――児玉幸多著『中山道を歩く』(中公文庫、一九八八年)を読む。街道を研究するには児玉幸多と今井金吾のふたりの存在は大きい。ふたりとも街道研究に人生を捧げた人物だ。街道関係の本には、かなりの頻度でこのふたりの名前が出てくる。
 児玉幸多は長野県更級郡稲荷山町(現・千曲市稲荷山)の生まれで、稲荷山は善光寺街道の宿場町としてにぎわっていた。

 十八時五十分に塩尻駅に到着。塩尻駅はJR東日本とJR東海の境界駅である。太平洋と日本海の分水嶺で、古くは新潟県の糸魚川や愛知県の豊橋からの塩の合流地でもある。
 駅に着いて西口に出てアメリカンドラッグという薬局で酒とつまみを買いに行く。
 ホテル中村屋に荷物を置いて再び駅へ。駅前の「ほっとして ざわ」で山賊焼き定食を食う。夏に塩尻に宿泊したときもこの店で同じものを食べた。山賊焼きは、信州の郷土料理。デカい鳥の唐揚げである。
 インターネットで予約した「訳ありプラン」部屋は室内の真ん中に大きな柱があり、ベッドで寝ころんでテレビを見ることができない。不都合はそのくらいだが、前回泊った「訳ありプラン」の和室の部屋のほうが広々としていてよかった。
 大浴場で汗を流し、酒を飲んで寝る。熟睡。

 そして翌日――。
 旅行前に時刻表を見ていたときは、塩尻から長野に行く朝六時五十七分発の「おはようライナー」に乗るつもりだった。起きたら八時四十分。寝坊。荷物をまとめ、塩尻九時二分発の松本行に乗る。途中、JR篠ノ井線の姥捨駅でスイッチバック(急勾配対策の運転方式)になる。姨捨駅付近は「日本三大車窓」としても知られている。
 長野駅には十時五十四分着。歩くかどうか迷ったが遅れを取り戻すため、長野電鉄に乗って善光寺下駅へ。観光客がいっぱいで歩くのも一苦労。きらびやか、ゴージャス。江戸時代の人にとって、伊勢神宮や善光寺は宗教施設というより、アミューズメントパークみたいな場所だったのではないか。
 中山道の山道、里山の風景を見続けたあと、非日常な町があらわれる。『東海道中膝栗毛』の続編では善光寺詣りをしている。『膝栗毛』が人気が出すぎて、十返舎一九は延々と書き続けた。まるで今の日本の漫画家のようだ。
 十二時十七分の電車で小諸へ。JR篠ノ井線の篠ノ井駅からしなの鉄道になるため、「秋の乗り放題パス」がつかえない。
 二〇一四年の秋に小諸に行ったときは懐古園に行った。小諸駅から軽井沢駅に出て、そのあとバスで横川駅まで行き、高崎駅経由で東京に帰った。在来線では碓氷峠をこえられないことを知り、ショックだった。
 かつて中山道の横川、軽井沢間には碓氷鉄道馬車があった。開通したのは明治二十一年(一八八八)八月に横川宿から坂本宿に到る路線が開通し、同年十二月に軽井沢宿まで通った。その後、明治二十六年に横川軽井沢(横軽)間に碓氷線が開通する。
 以上、うすいの歴史を残す会発行『関所のまち・よこかわ』(あさを社、一九九五年)を参照。横川は箱根、白河と並ぶ「日本三大関」でもあった。この本は古本屋で買った月刊の郷土文化誌『上州路』の広告で知った。
 信越本線の横軽間の廃線は一九九七年九月末。前に小諸に行ったとき、まだ「街道病」にかかっていなかった。だから小諸が北国街道(善光寺街道)の宿場町ということも知らなかった。もともと北国街道は佐渡の金や銀を運搬するためのルートだった。北国街道という名前の街道もいろいろなところにあってややこしい。
 十三時十九分、小諸駅着。駅の近くの小諸観光交流館で「信州小諸 城下町&文学のめぐり道map」をもらう。駅に小諸のいろいろな地図があったが、街道歩きにはこのマップがいちばんいい。スタッフの人が小諸宿の本陣への行き方を丁寧に教えてくれた。
 本陣問屋から旧北国街道を歩く。古い建物(商家)がたくさん残っている。歩道もゆったりしていて、いい街道だ。北国街道ほんまち町屋館は休館日だった。昼食は、商店街のこもろ食堂で馬肉うどん。
 長野は馬肉を食べる文化圏だが、馬と街道も深い関係がある。
 食後、北国街道に戻り、東に向かって歩く。
 目指すは市立小諸高濱虚子記念館。祝日の翌日の火曜日は休館日のところが多いのだが、虚子の記念館の休館日は水曜日なのである。
 戦時中、虚子は小諸に疎開していた。関川夏央原作、谷口ジロー画の「坊ちゃんの時代」第五部『不機嫌亭漱石』(双葉社)に虚子が登場する。ちょっとしか出てこないが、印象に残っていた。
 高濱虚子は一八七四年松山生まれ。同郷の正岡子規に師事したが、虚子は自分の感性しか信じない。したがって師の意見にも従わない。このふたりの関係は興味深い。
 街道沿いは句碑がたくさんあり、俳人の足跡も避けて通れない。しかもわが郷里三重は松尾芭蕉の出身地(伊賀)でもある。
 虚子記念館に入ると客はわたしひとりで、ガラスケースに入った貴重な資料を見せてもらう。疎開時代の虚子の旧宅(虚子庵)も案内してくれた。
 一九四四年、小諸に疎開したとき、虚子は七十歳。小山栄一という人に家や食を提供してもらい、子どもたちや孫も世話になっている。小諸時代の虚子は「小諸雑記」や「小諸百句」を残した。
 小諸は「あの夏で待っている」というSFアニメの舞台にもなっていて、「あの夏」関連のポスターやグッズもたくさん見かけた。
 当初の予定では、小諸のあと、中山道の信濃追分と軽井沢に寄って、東京に帰るつもりだった。しかし寝坊の影響で時間がない。急遽、中山道の岩村田宿(佐久市)に行くことにした。JR小海線で小諸駅から二十分。岩村田宿は、岩村田藩一万五千石の城下町。善光寺街道(脇往還北国道)、佐久甲州街道の追分で交通の要所だった。
 岩村田宿に行こうとおもったのは歌川広重と池田英泉(渓斎英泉)の「木曾街道六十九次」の「木曽道中 岩村田」の按摩同士が殴り合いをしている絵のわけのわからなさに魅了されたからだ。
 その後、青梅街道に関する本を読んでいて、英泉の墓がわたしが今暮らしている東京・高円寺の福寿院という寺にあることを知った。英泉は四十代以降、酒に溺れ、周囲に迷惑をかけまくっていた人物だった。借金もあった。ますます英泉のことが好きになった。
 中山道沿いに岩村田の商店街を歩き、再び商店街を折り返し、大井城跡の王城公園に行き、龍雲寺に寄る。昭和の雰囲気が濃厚に残る「いわんだゴールデン街」も気になる。この町こそ、夜訪れるべきだった。長野県佐久市は岩村田宿-塩名田宿-八幡宿-望月宿、そして茂田井間の宿と中山道の宿場町が五つもある。ちょっと羨ましい。
 岩村田駅から佐久平駅までは七百メートル。
 佐久平駅が近づくにつれ、風景が近代化する。新幹線で佐久平駅から高崎駅まで三十分(二千八百五十円)。岩村田駅から軽井沢駅に出てバスで横川駅に行くルートだと時間が三倍かかる。日も暮れかけ、バスからの車窓も楽しめない。ここで新幹線に乗るのはまちがっていない。
 十八時十四分、高崎駅から湘南新宿ラインに乗り、二十時六分、新宿駅へ。湘南新宿ラインは、倉賀野、新町、本庄、深谷、熊谷、鴻巣、大宮、浦和など、中山道の宿場町を通っている。
 わたしは街道に興味を持つまで「中央線=中山道」だと漠然とおもっていた。板橋が「江戸四宿」のひとつで中山道の宿場だったことさえ知らなかった。街道の本を読み、中山道の宿場町に大宮や浦和や高崎といった地名を見かけたとき、「そっちやったんかい」とおもった。
 JR浦和駅の西口のさくら通りで毎月「浦和宿古本いち」が開催されていて「浦和宿」という言葉は何度も目にしていたのに......。

 今回の旅行中、わたしはあることをずっと考えていた。街道散策を通して自分は何をするべきなのか。
 その答えが見つかるまではまだまだ行き当たりばったりの旅を続けるしかない。