第六回 日本橋-品川-庄野-小田原−下曽我

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 上京してかれこれ三十年くらいになるが、東京の町もJR中央線沿線+東京メトロ東西線以外の沿線は、たまにしか利用していない。
 東海道の品川宿、中山道の板橋宿、日光道中の千住宿などをちゃんと歩いたのもこの一年くらいのことだ。新宿は数え切れないほど行っているが、甲州街道と青梅街道の追分のある宿場町とは意識してなかった。
 今、新宿に行くと「この道は八王子や甲府に向かい、下諏訪まで続いているんだなあ」とおもう。
 人間の脳は興味がないものだと、その差異や多様性を識別できないものだ。
 すこし前まで、ただの町、ただの道とおもっていたのに、街道というフィルターを通すことで世の中の見え方が変わってきた気がする。

 二十代のころ、東京駅の東京中央郵便局の夜間窓口に新聞社の郵便物を持っていくアルバイトをしていた。東京中央郵便局は東京駅がもより駅なのだが、日本橋まで行き、丸善日本橋店に寄り、八重洲地下街を通るルートをよく利用した。
 今でも八重洲の地下街にはよく行く。地下街ばかり行っているので、日本橋の地上は知らない。行くのは夜だから、昼の日本橋も知らない。

 十二月九日、昼すぎ、高円寺からJR中央線に乗って東京駅へ。日本橋口から永代通りに出て、呉服橋の信号を北に行くと一石橋がある。
 日本橋の下を流れている川の名前は日本橋川という。まず先に橋ができ、後から川ができたのだ。有名な話らしいのだが、けっこう知らない人が多い。

 池波正太郎は『戦国と幕末』(角川文庫)所収の「新選組史蹟を歩く」でこんなふうに嘆いている。

《なにしろ、江戸の名残りの一つとして有名だった日本橋の頭上へ高速道路をぬけぬけとかぶせてしまうような政治家や役人や商人たちが、いまの東京に充満しているのだから、たまったものではないのだ》

 たしかに江戸の五街道の起点である日本橋の上を首都高が覆っているという光景は異様だ。現在、首都高の地下化の計画もあるそうだが、橋と川の上の高速がなくなるのは大歓迎である。しかし今の日本橋に高速道路が必要なのかという気もする。それより日本橋川の川沿いを歩けない状況をなんとかしてほしい。

 久しぶりに日本橋の地上を歩いてみて、橋のたもとに日本橋観光案内所ができていることを知った。オープンは二〇一七年七月二十三日。いくつか地図を入手したが、日本人向けのものより、中国語や英語のマップのほうが見やすい(中文のものは「街道漫歩地圖」と「街道」の二文字が入っているのもいい)。
 丸善日本橋店のワールド・アンティーク・ブック・プラザで「Ex-Libris 蔵書票展」(二〇一九年一月十五日まで)を見て東海道を歩く。ヤン・ヨーステン記念碑、江戸歌舞伎発祥の地碑、銀座発祥の地碑などで立ち止まりつつ、新橋を目指す。
 二十五歳のわたしは新橋で金融や建築の業界紙(業界誌)の仕事をしていた。まったく取材ができず、社会常識もなかったので、雇った側も災難だったとおもう。
 社長が誰かと立ち話をしているとき、わたしはそのあいだを突っ切って歩いてしまうような人間だった。それでよく怒られた。
 その仕事は八ヶ月でやめたが、最後のほうは新橋駅で降りると、お腹が痛くなったり、顔の筋肉がピクピクと痙攣したりするようになった。
 からだが仕事を拒絶するという経験は、そのときがはじめてだった。
 新橋駅で鉄道唱歌の碑、D51の車輪を見て新橋珈琲店で休憩する。
 新橋駅から田町駅までは、寄り道せず、黙々と歩く。田町駅の近くの港区立港郷土資料館に行こうとおもったら、二〇一八年十一月一日に港区白金台(都営三田線白金台駅)に移転していた。名前も港区立郷土歴史館に変わっている。
 家を出る前にグーグルマップで調べたときは、港郷土資料館があった。インターネットの地図が常に最新情報に更新されているわけではない。旧・港区立港郷土資料館からは東海道ではなく、聖坂を歩く。
 聖坂は古代中世の通行路で商人でもあった高野山の僧(高野聖)が開いた道らしい。
 しばらく歩いていくと亀塚公園がある。この公園は古墳ではないかという説もあるようだが、断定はされていない。公園内の亀山碑は『更級日記』の竹芝寺伝説の故地でもある。
 聖坂から伊皿子の信号で曲り、伊皿子坂へ。伊皿子坂をしばらく歩いて左折し、第一京浜に出ると、高輪大木戸跡の信号がある。
 JR山手線の新駅が「高輪ゲートウェイ駅」(二〇二〇年春開業予定)に決まった。新駅付近には高輪大木戸跡地がある。
 高輪大木戸は江戸中期の宝永七(一七一〇)年に芝口門に建てられ、享保九(一七二四)年に現在の場所に移転した。
 江戸の南の入口で京上りや伊勢参りの送迎もこの地で行われていた。かつての高輪は岡場所でもあった。

 伊能忠敬も高輪大木戸を全国測量の基点にしたといわれている。大木戸は街道上の江戸内外の境の関所である。
 新駅の名称で一番人気の「高輪駅」がダメなら「高輪大木戸駅」にしてほしかった。
 高輪大木戸跡から品川駅まで歩いて、この日は家に帰る。

 翌々日の十二月十一日、この連載を担当してもらっている本の雑誌社のTさんと品川宿を歩くことになった。
 品川宿は旧街道が残っていて、商店街の雰囲気もいい。
 当初、JR中央線の高円寺駅から新宿駅に出て、それから山手線で品川駅に行き、品川駅から北品川駅まで歩くつもりだった(片道三百十円)。
 山手線は五反田駅、大崎駅、品川駅と急カーブになっている。サーキットでいえば、ヘアピンカーブに近い。
 五反田駅の東口からまっすぐ東に歩けば、京浜急行の北品川駅に着く(片道二百二十円)。距離は約一キロくらい。品川駅は大きな駅だから、駅の外に出るだけでもけっこう時間がかかる。さらに北品川駅まで歩くことを考えると、五反田駅から歩くのと時間はそんなに変わらない。にもかかわらず、品川駅まで行くと運賃が九十円も高くなる。
 五反田から北品川までの道は「東京都道317号環状六号線」、通称「山手通り」だ。この道は東海道の第一宿場町の品川宿と中山道の第一宿場町の板橋宿につながっている。
 街道歩きをはじめて以来、自分の頭の中の地図が書き換えられていく。大きな地図だけでなく、日常の小さな地図も変わっていく。

 わたしも街道ビギナーなのだが、都内で初心者におすすめの宿場町は品川宿と板橋宿ではないかとおもう。
 品川宿は二〇一八年九月末の「しながわ宿場まつり」のときにも訪れている。この日、台風が接近中で夜二十時以降、在来線の運転が中止になるというニュースがあった。
 すこし前まで品川宿はジョージ秋山の『浮浪雲』の舞台という印象しかなかった。すっかり町は変わり果てていると勝手におもっていた。
 品川駅の近辺には、古い建物、寺社が並ぶ当時と同じ道幅の旧道が残っている。
 また品川には一万冊の蔵書があるKAIDO books&coffee、さらに四万冊の街道関係の書籍を誇る街道文庫もある。
 この二軒は、ずっと行きたいとおもい続けていたのだが、自分の街道歩きの方針が定まるまでは我慢していた。
 事前に連絡をとり、街道文庫の田中義巳さんとKAIDO books&coffeeで待ち合わせした。KAIDO books&coffeeの本も田中さんが並べているという。
 街道文庫の田中さんは一九五〇年生まれ。ウルトラマラソンのランナーとして日本全国、そして海外の街道を走り、さらに街道に関する本を集め続けてきた。定年退職後、北品川で古本屋を開業した。
 KAIDO books&coffeeを訪れると、田中さんは武田泰淳の『新・東海道五十三次』の中で引用されている資料を持ってきてくれた。四つの鞄から五十冊(もっとあったかも)くらい本が出てくる。
 古川芋蔓、池上幸雄編『俳句東海道』(俳句研究社)や入手難の田山花袋が編集した『新撰名勝地誌』(博文館)もあった。
 田山花袋記念文学館は群馬県の館林にあり、近々訪れたいとおもっている。館林は千人同心街道(日光脇往還とも重なる)の宿場町。江戸四宿のひとつ北千住から東武伊勢崎線で一本で行ける。
 この街道上には地元三重の桑名城(七里の渡し)と関係が深い忍宿(忍宿)もある。
 話はそれたが、田中さんには田山花袋本のほかに、水島爾保布(におう)の東海道の絵をいくつか見せてもらった。
 水島爾保布はSFファンにとっては今日泊亜蘭の父としてのほうが有名かもしれない。
 わたしは大学時代に大正思想史研究会という読書会で玉川信明さんから辻潤や武林無想庵と交遊があった人物として、その名を知った。ところが、古本屋で水島爾保布の本を見つけても、風呂なしアパート暮らしの学生の身には高くて買えない。その後も貧乏生活が続いたので、いつしか自分の記憶の中から水島爾保布は対象外の人物になっていた。
 まさか四十代後半になって、街道絡みでその名前が浮上してくるとは......。

 田中義巳、三輪主彦著『ジャーニーランのすすめ 東海道五十三次の走り方』(窓社、一九九七年)という著書もある。
 一九八三年、もともとギリシャのスパルタスロンやアメリカ大陸横断ジャーニーランの足慣らしのために東海道を「走り」はじめたという。三十三歳のときだ。
 足慣らしといっても、東海道五十三次を六日か七日で走破する。江戸の飛脚よりも速い。
 わたしが「旧街道を歩いているうちに、よく道をそれてしまうことがあって......」というと、田中さんは「うーん、道をそれたときは、すぐわかりますね」といわれた。足で学んだ人はちがう。さらに街道本五万冊を買い集めた知識もとんでもない。
 どんな質問にたいしても常に三十倍以上の答えが返ってくる。脳内の処理が追いつかない。
 街道の本は、東海道関係のものが多く、「膝栗毛」と付いた本だけでも数百冊(千冊に近い?)くらいあるという。田中さん自身は、走る(歩く)ための地図を重視しているそうだが、店内には読み物から雑学本まで、ありとあらゆるジャンルの街道本が揃っている。
 神保町の書肆アクセスによく行っていたという。地方の出版社の地元街道本は優れた本が多い。わたしも書肆アクセスに通っていたが、そのころ、街道に興味がなかったことが悔やまれる。
 田中さんは「自分は街道の研究者ではなく、あくまでもウォーカーなんだ」とくりかえし語っていた。その言葉からは、誰よりも街道を自分の足で歩いているという自負を感じた。田中さんは日本の街道だけでなく、スペインのサンティアゴ巡礼にも足を運んでいる。

 KAIDO books & coffee を出て、田中さんが営む街道文庫も案内してもらう。店内で身動きがとれないくらい街道本がある。あまりの情報量に眩暈がする。
 山本茂実著『街道・風土と伝説の旅』(恒文社、一九六六年)などを買う。
 帰りに「東海道五十三次遠足 最終章 上京編・佐屋路回り」という地図をもらった。姫街道や京街道(大阪街道)の地図も付いている。東海道を三十回以上走って作った地図だ。
 世の中には桁外れにすごい人がいるものだ。
 街道文庫を出て「しながわ宿場まつり」のときに入手した「東海道品川宿まち歩きマップ」を見ながら、旧東海道を散策する。他にも「東海道お散歩マップ」(六行会)という北品川から青物横丁までの小さなマップもある。
 品川宿のような商店街系の街道は町のにぎわいが味わえるし、おなかが空いたら、すぐ食事できるのもいい。
 品川宿交流館で『別冊るるぶ愛蔵版 街道と町並の旅』(日本交通公社出版事業部、一九八二年)を購入(街道文庫の出品だった)。
 品川橋を渡り、浜松宿の松、袋井宿の松などを見る。
 本の雑誌のTさんとそば屋に入る。満腹になって店を出たら、いきなり道をまえちがえる。当初は鈴ケ森刑場跡あたりまで旧東海道を歩くつもりだったが、小雨が降ってきたので本日の街道散策はここで終了。京急の青物横丁駅まで引き返し、家に帰る。
 一週間後、再び、品川を訪れ、KAIDO books & coffee を訪れ、長時間くつろぐ。前回、田中さんの話がおもしろすぎて、KAIDO books & coffee の本をじっくり見ることができなかった。
 時が経つのを忘れる。珈琲もうまい。店に滞在中、東海地方関係の街道本をいろいろ読む。
 沢井鈴一著『名古屋の街道をゆく』(堀川文化を伝える会)、河村立司著『歴史街道遊び旅』(PHP研究所)などを購入する。

 年末年始は三重に帰省。その行き帰りに桑名宿と木曽福島を歩いてきた(帰りは塩尻に泊る)。桑名と木曽福島の話は別の機会に書きたいとおもう。
 元旦は近鉄の平田町駅からバスで鈴鹿の加佐登神社に初詣。たぶん三十年ぶりくらいか。高校を卒業してから行った記憶がない。子どものころ、この神社でカブトムシやクワガタをとっていた(夜、車で連れていってもらった)。久々に加佐登神社の長い階段をのぼる。たくさん人がいる。
 すぐ隣にある白鳥塚古墳にも寄った。
 白鳥塚古墳は、江戸期にはヤマトタケルの墓と呼ばれていた。加佐登神社のご神体はヤマトタケルの笠と杖。なぜか明治に入って、急に亀山市の能褒野王塚古墳がヤマトタケルの墓ということになった。この変更の背景には、何か裏があるような気がしてならない。
 広重の「庄野の白雨」を見たとき、加佐登神社を出たところの橋を渡ってすぐの坂が頭に浮んだ。今回久しぶりに歩いてみて、「やっぱり、似ている」とおもった。確証は何もないのだが......。
 そのあと庄野宿まで歩いて、本陣跡があったあたりでバスに乗り、郷里の家に帰った。

 年明け一月六日、三重に帰省したときにつかった青春18きっぷが残っていたので小田原に行くことにした。
 朝八時ごろに家を出るつもりが、起きたら午前九時すぎ。午前十時前に高円寺駅、新宿からJR湘南新宿ラインで大船駅、大船からJR東海道本線で小田原へ。到着は午前十一時四十六分。
 駅を出て、お城通りを通り、小田原城へ。東海道の宿場町では江戸を出てから最初の城下町が小田原だ。
 城内の歴史見聞館は休館中だったので、同じく城内にある郷土文化館に行く。フェリックス・ベアトによる幕末の小田原宿の古写真などが展示されている。
 小田原城の天守閣にものぼることにした。
 わたしが高校生のころは、小田原城主の北条早雲(伊勢新九郎)は「伊勢の流れ者」というのが通説だったが、今は「備中国高越城の城主伊勢盛定の子」説というのが有力らしい。
 ゆうきまさみの『新九郎、奔る!』(ビッグコミックス)は伊勢盛定の子説を採用している。
 小田原城を出て、小田原文学館に行く。途中、西海子小路(さいかちこうじ)という美しい道を通った。江戸後期にサイカチの木が植えられたことが、この道の名前の由来になっている。サイカチはマメ科ジャケツイバラ亜科サイカチ属の落葉高木だそうだ。
 小田原には尾崎一雄や川崎長太郎が暮らしていた。尾崎一雄はわたしが私小説に傾倒するきっかけになった作家である。
 尾崎一雄は一八九九年三重県宇治山田生まれ。
 文学館の敷地内に尾崎一雄の下曽我の家の書斎も移築している。この書斎を見ることが小田原行きのいちばんの目的だった。机の近くにはウイスキーのボトルが二本置いてあった。晩年の尾崎一雄はウイスキーをちびちび飲みながら、気が向いたときに原稿を書いていた。
 小田原文学館にはわが郷里の鈴鹿が誇る文士・斎藤緑雨に関する展示もあった。
 緑雨は明治三十四(一九〇一)年四月に療養のため、小田原へ引っ越している。そのころ、『食道楽』の村井弦斎も同じ町内にいた。

 帰りは東海道を通る。本陣跡を見たり、小田原宿なりわい交流館(お茶をごちそうしてもらった)に寄ったりしながら、駅を目指す。町中に歴史を記した案内板があって、歩いているだけで勉強になる。
 小田原駅からJR御殿場線に乗って下曽我駅へ。
 清野明著『東京ウエストサイド 極楽!丘歩き30』(天夢人)を読んでいたら、曽我丘陵の頁があり、尾崎一雄に関する記述があった。こうしたガイドブッで尾崎一雄の名前を見たのは、はじめてかもしれない。
 尾崎一雄の祖父の代まで下曽我の宗我(そが)神社の神官だった。小説やエッセイでもたびたび下曽我の話を書いている。
 関東大震災のあと、学生時代の尾崎一雄は下曽我から東京まで歩いている。戦中に下曽我に疎開し、以来、この地に暮らしている。

 下曽我駅は降りた瞬間、空気が澄んでいて気持がよかった。梅の木がたくさんある。尾崎一雄の趣味が梅干作りだったことをおもいだした。
 地図を見ながら、宗我神社を目指す。神社でしばらくぼーっとし、そのあと曽我の里散策コースの看板をたよりに弓張の滝まで歩く。ずっと富士山が見える。日が暮れたら、迷いそうだなとおもっていたら、迷いかけた。
 夕方、駅に戻り、靴をぬいだら左足の中指が出血していた。足の爪が伸びていて、それで切れたようだ。丘歩きに備えていつもとちがう靴を履いたのがまずかった。
 足のコンディションや靴のことも勉強しないといけない。年明け早々、新たな課題が見つかる。


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東京都品川区北品川2丁目3−7
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