第五回 烏森-宮-恵那-塩尻-甲府

  • 歴史物語を歩く―名古屋、愛知、岐阜、三重、滋賀、静岡―
  • 『歴史物語を歩く―名古屋、愛知、岐阜、三重、滋賀、静岡―』
    長屋良行
    ゆいぽおと
    1,320円(税込)
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  • 続・歴史物語を歩く―名古屋、愛知、岐阜、三重、滋賀、静岡―
  • 『続・歴史物語を歩く―名古屋、愛知、岐阜、三重、滋賀、静岡―』
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  • きよのさんと歩く大江戸道中記―日光・江戸・伊勢・京都・新潟…六百里 (ちくま文庫)
  • 『きよのさんと歩く大江戸道中記―日光・江戸・伊勢・京都・新潟…六百里 (ちくま文庫)』
    金森 敦子
    筑摩書房
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 郷里の三重・鈴鹿の家で東海地方の地図(三十年くらい前のもの)を見ていたら、愛知県名古屋市中村区烏森町が気になった。烏森は「かすもり」と読む。JR関西本線の烏森駅、近鉄烏森駅がもより駅。郷里から名古屋までは急行を利用するのでいつも通過していた。
 十一月十九日、鈴鹿の家を午前八時すぎに出発し、近鉄烏森駅には午前九時十二分着。烏森駅から金山駅まで佐屋街道という道がある。金山駅は東海道の宮(熱田神宮)のすぐそばだ。金山駅はJR東海道本線と中央本線の分岐点でもある。
 東海道の宮から桑名までは陸路ではなく「七里の渡し」で行き来していた。伊勢湾も東京湾ほどではないが、名古屋近辺は埋め立てによって昔とかなり地形が変わっている。
 出発前は佐屋街道がどんな街道なのか何の予備知識もなかった。ただし佐屋街道の佐屋という地名はなんとなく見覚えがあった。
 武田泰淳の『新・東海道五十三次』(中公文庫)に「私の父の故郷は、愛知県海部郡本部田という農村である」と記されている。本部田の場所が気になって調べたら、現在は愛知県愛西市佐屋町と地名が変わっていた。「佐屋」の名はこのとき憶えた。もより駅は名鉄尾西線の佐屋駅。三重県の桑名市長島町から川をこえてすぐの町である。

 今回の佐屋街道散策はファミリーマート近鉄烏森駅前店からスタートすることにした。ここから金山駅まで一本道。オイルコンパスの力を借りなくても道に迷うことはないだろう。
 とりあえず近鉄烏森駅から一キロほど先にある中川運河を目指す。運河には長良橋がかかっている。橋をこえるとファミリーマート中川富川町店。その駐車場の一角に明治天皇御駐蹕の石碑があり、すこし先の中川福祉会館に佐屋街道の石柱と看板があった。

《佐屋街道は、寛永3年(1626)と11年(1634)の三代将軍徳川家光の通行を契機として整備が進められ、寛文6年(1666)には幕府の道中奉行が管理する官道に指定された。
 この街道は、熱田宿と桑名宿を結ぶ七里の渡しの風雨による欠航や、船酔いを嫌う多くの旅人が行き交い、東海道の脇往還として非常に賑わっていた(以下略)》

 歩いて一時間たらずで佐屋街道の謎が解けた。この道はオランダ商館のフィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルトも通っている。
 烏森からは名古屋城下(納屋橋)にいたる柳街道という道もある。柳街道もいつか歩いてみたい。
 中川福祉会館のすこし先の郵便局で草津宿で買った資料、京都で買った古本、前日に桑名のアピタで買った調味料と田舎あられ(お茶漬け用)などを送る。カバンが軽くなる。
 中川運河からしばらく歩くと東海道新幹線のガード下を抜け、尾頭橋に到着。尾頭橋は「おとうばし」と読む。橋のたもとに「尾頭橋と佐屋街道」の説明がある。しばらく歩いた先の国道十九号線の交差点に佐屋街道の道標もある。
 そうこうするうちに金山駅。いつの間にか知らないうちに「金山総合駅」と駅名が変わっていた。
 駅の金山総合案内所でマップをもらう。「熱田ぐるりんマップ」(熱田区まちづくり協議会 堀川にぎわいづくり専門委員会 熱田ぐるりんMAP製作委員会)はエリアごとにコンパクトにまとめられていて使いやすい。いい地図だ。
「宮宿と七里の渡し 旧東海道」の頁を見ながら宮宿を目指す。都々逸発祥の碑、旧東海道道標を見る。宮の駅交流サロンの開館は土日の午前十時から午後三時まで。平日は事前予約要とのことで閉まっていた。
 街道沿いの街灯には「旧東海道/伝馬町」の看板があり、路面には弥次さん喜多さんの漫画っぽい絵が描かれている。
 昼の十二時十分。ついに七里の渡し(宮の渡し公園へ)に到着する。
 熱田湊の常夜燈を見て、すこし休憩したかったのだが、ベンチに高校生くらいのカップルがいたので遠慮する。
 松尾芭蕉は宮には何度となく訪れ、鳴海宿(東海道)の門人と交流があったそうだ。街道歩きをしていると、行く先々に芭蕉がいる。
 愛知県の「愛知」は「あゆち潟」からきていることを知る。「あゆち」は「年魚市」「吾湯市」などの表記もある。地名の由来は諸説あるようだが、暇なときに調べておく。
 七里の渡し跡を見て熱田神宮を通る。熱田神宮はヤマトタケルの草薙の剣が祀られている神社である。もともとこの剣は伊勢神宮にあったといわれている(諸説あり)。
 街道を研究していると、ヤマトタケルは避けて通れない。そもそもヤマトタケルは実在したかどうかはいまだに論議の対象になっている。
 神社内の宮きしめんで白しょうゆのおすましきしめんを食べる。
 熱田駅から金山駅で乗り換え、それから千種駅で途中下車する。

 わたしは昭和の終わり、一九八八年に浪人し、名古屋の河合塾に通っていた。一九八九年一月、昭和最後の日も予備校にいた。三十年前の話である。高校時代は京都の私大の文学部を受験したが、すべて不合格だった。浪人中も京都の私大を受けるつもりだった。
 願書を申し込む直前、講師のひとりに何の気なしに「将来、文章を書く仕事がしたい」と話したら「だったら東京に行ったほうがいい」といわれた。
 その言葉で上京を決意(明治大学の文学部に進学)。そして東京に引っ越し、すぐライターの仕事をはじめた。
 今おもうと、名古屋の予備校時代がわたしの人生の追分だった。数年後、その講師と再会したとき、「そんなこといったっけ?」といわれたのだが......。
 河合塾は名古屋駅前と千種駅に校舎があり、夏季講習や冬季講習の時期は千種校にも通った。千種校に行ったときは、ちくさ正文館に寄った。
 ちくさ正文館で街道関係の本を買いたいとおもい、長尾良行著『歴史物語を歩く』『続・歴史物語を歩く』(ゆいぽおと)を購入する。『続・歴史物語を歩く』に、前回の養老鉄道のときに書いた薩摩義士と木曽三川の話も詳しく記されている。
 同書の「弥次さん喜多さんの四日市~日永追分を行く」には「桑名と伊勢を結ぶ街道は『餅街道』とも呼ばれ、各宿場で和菓子が名物になっていた」とある。
 その後、東京に帰ってから大下武著『朝日文左衛門の三詣日記 二つの社と二つの渡し』(ゆいぽおと)も買った。熱田神宮や七里の渡しのほか佐屋街道のことが綴られていた。わたしが知らなかっただけで、佐屋街道は有名な街道だったようだ。
 一度その名前を知ってしまうと、次々とその名を目にするようになる。金森敦子著『きよのさんと歩く大江戸道中記 日光・江戸・伊勢・京都・新潟......六百里』(ちくま文庫)を読んでいたら、"江戸セレブ"のきよのさんも佐屋街道を歩いていた。
 佐屋街道もずっと陸路というわけではなく、「三里の渡し」があった。伊勢湾に出ず、川を下るだけなので、宮から桑名の「七里の渡し」よりは安心、安全だったらしい。
 千種駅から十三時五十六分のJR中央本線の中津川行きの電車に乗る。
 大井宿のある恵那駅で途中下車するかどうか迷う。恵那の中山道広重美術館は月曜が定休日。中山道の宿場町は夕方以降、店があまり営業していない。夕方前に行けるところとなると、中津川駅より手前の宿場町しかない(中津川駅から先は電車の本数が急激に減る)。
 長考の末、恵那駅で降りることにした。この途中下車は大正解だった。しかし恵那駅で降りたときは疲れが残っていた。
 わたしは駅を出た瞬間、疲労回復と観光を両立する方法を発見した。
 明知鉄道に乗ればいいのだ。恵那駅十五時七分の極楽駅行きの往復切符(八百六十円)を買う。極楽駅には十五時三十三分着。極楽駅から恵那駅に戻る電車は十五時三十九分。恵那駅には十六時四分着。だいたい一時間、のんびり電車に乗って車窓を楽しむことにした。
 ちょうど紅葉の季節だったこともあり、ずっと絶景が続く。駅の建物も味わい深い。途中の飯羽間駅には「農村景観日本一」という看板が見えた。車窓に見とれているうちにあっという間に極楽駅へ。といっても極楽駅には六分間しかいられない。
 駅で三波春夫の「極楽音頭」を聴いた。ホームには「幸せ地蔵」、待合室には「OK観音様」がある。
 極楽駅は二〇〇八年十二月二十五日に開業。この地は平安末期に極楽寺という寺院があったというのが駅名の由来だそうだ。
 経営難のローカル線は一駅くらい縁起のいい駅名をつければいいのではないか。「長寿駅」なんてどうですかね。
 東京に帰ってから、インターネットのマイナビニュースを見ると「岐阜県の日本一急勾配な線路でも『すべらない』明知鉄道で合格祈願!」という記事があった。毎年受験シーズンには「合格祈願列車」が運行し、「合格祈願切符(入場券)」も発売しているという。
 極楽駅から折り返し、恵那駅へ。途中、阿木駅から学生がたくさん乗ってきて満員になる。
 十六時すぎに恵那駅に到着。次のJR中央本線の電車の時間まで一時間ちょっとあるので中山道の大井宿を歩くことにした。駅でマップを入手し、大井宿本陣、枡形の路地を歩く。
 明知鉄道の線路の下を抜け、上宿石仏群を見て、階段を登って菅原神社に寄る。ここから大井宿が見渡せる。夕暮れの宿場町がこんなに美しいとは......。大井宿、ファンタスティックだ。
 阿木川にかかる大井橋には橋の欄干に広重と英泉の木曾街道六十九次の絵が飾られている。この橋を渡るためだけでも大井宿に来てよかった。
 日没の時間が迫る。大井橋を渡ると中山道の案内板がある。橋のたもとでひとり街道情緒に耽る。そして日が暮れる。
 恵那駅に戻り、十七時二十八分の中津川行の電車に乗る。中津川駅には十七時四十分着。
 わたしの郷里の東海道の庄野宿と中山道の中津川宿には共通点がある。さて、それは何でしょう。おそらく即答できた人はかなりの街道マニアにちがいない。
 中津川駅十八時三十分発の「ワイドビューしなの」の自由席の切符を買う。特急が来るまで五十分くらいあるので、中津川駅の周辺を歩く。
 サラリーマン風の男性が中津川を「なかつ」と略して喋っているのが聞こえた。中津川の「なかつ」のアクセントが自分の予想とちがった。「なかつ」の「か」が上がる。
 JRの中央本線で東京と三重を行き来するときは毎回中津川駅で降りているのだが、まだ中津川宿はほとんど歩いていない。中山道歴史資料館にも行っていない。行きたい場所になかなか行くことができない。もどかしい。
 ちなみに庄野宿と中津川宿の共通点は、江戸から数えて「四十五番目の宿場町」というのがその答え。
 中津川駅から塩尻駅へ。十九時三十四分着。駅の売店で酒を買う。塩尻、夜の気温は六度だった。寒い。
 今回もホテル中村屋。「訳ありプラン」の和室に泊る。十八畳。ただし室内に風呂とトイレはない。でも快適だ。
 塩尻は今も昔も交通の要所の町である。特急に乗れば、名古屋にも東京にも一本で行ける。甲府や長野までもすぐだ。
 塩尻市は塩尻宿、洗馬宿、本山宿、贄川宿、奈良井宿の中山道の五宿にくわえ、洗馬宿から旧善光寺街道の郷原宿、さらに三州街道(伊那街道、飯田街道)の宿場町の小野宿がある。三州街道は、愛知県の岡崎と塩尻を結ぶ「塩の道」である。最盛期、塩尻宿は七十軒以上の旅籠があった。
 さらに小野宿は筑摩書房の創立者の古田晁の記念館がある。ただし、この記念館は土日祝しか開館していない。いつか行こうとおもいつつ、日程がなかなか合わない。情報に行動が追いつかない。

 翌日、十一月二十日。午前九時十分、塩尻駅からJR中央本線竜王駅までは一時間半。車窓から紅葉を眺めたり、本を読んだりしているうちに竜王駅に着いた。午前十時四十分着。
 竜王駅から甲州街道(美術館通り)を歩けば、山梨文学館のある山梨県芸術の森公園に着く。
 山梨文学館はまさに「街道文学館」だ。
 RCサクセションの「甲州街道はもう秋なのさ」が頭の中で流れる。アルバム『シングル・マン』の名曲。忌野清志郎は都立日野高校出身。日野は甲州街道の宿場町である。
 しばらく歩くと歩道が急に狭くなる。ずっとドブ板の上を歩く。つらい。鞄を肩にかけていると歩道と車道のあいだの白線をこえてしまう。怖い。しかも山梨のドライバーは歩行者がいてもまったくスピードを落としてくれない。
 せめて親御さんが子どもと手をつないで歩けるくらいの道幅がほしい。
 甲州街道の歩道問題を考えているうちに芸術の森公園に到着する。
 この日、十一月二十日は山梨県民の日で文学館の入館料が無料だった。草野心平の企画展「歿後30年 草野心平展 ケルルン クックの詩人、富士をうたう。」も開催中(二〇一八年十一月二十五日まで)。
 山梨文学館の『井伏鱒二 風貌・姿勢』(一九九五年)や『井伏鱒二と飯田龍太 往復書簡 その四十年』(二〇一〇年)、『企画展 深沢七郎の文学 「楢山節考」ギターの調べとともに』(二〇一一年)は資料として重宝している。
 入館料が無料だったので今回の草野心平展と二〇一六年に開催された北杜夫展のパンフ、『深沢七郎ガイドブック』『深沢七郎ゆかりの地と峡東地区文学散歩』『井伏鱒二と飯田龍太ガイドブック』『甲府市中道編』などの冊子、山梨県立文学館のメモパッドと芥川龍之介のカッパの絵の一筆箋を購入する。
 草野心平の特別展は東京・高円寺にあった「みち草」という飲み屋の解説もあった。みち草は高円寺から新宿に移転した。わたしが研究中の元杉並区長で文筆家の新居格、井伏鱒二も常連客のひとりだった。この店の看板、のれんやメニューが草野心平の字だったことを知る。
 草野心平は新宿で「火の車」という居酒屋も経営していた。
 常設展では井伏鱒二を中心とした「幸富講(こうふこう)」に関する展示を見る。この会は釣り仲間の飯田龍太が世話役をつとめていた。
 新宿と甲府は甲州街道、青梅街道でつながっている。新宿区は早稲田や神楽坂界隈に多くの作家が暮していたし、青梅街道には阿佐ヶ谷文士村があった。このふたつの街道は日本屈指の文学街道なのだ。
 山梨の街道といえば、井伏鱒二著『七つの街道』(中公文庫)には「甲斐わかひこ路」という随筆が収録されている。

《甲州には大昔からの古い道が残っている。これを古道と総称し、隣国へ通ずる古い道が九本ある。それがみんな酒折というところを起点として、酒折が扇の要なら九本の道は扇の骨である。一と息に道路計画をしたかの観がある》

 井伏鱒二は山梨が好きだった。疎開先も甲府(当時は甲運村)で戦後もよく釣りに通った。河盛好蔵著『井伏鱒二随聞』(新潮社)の対談にこんなやりとりがある。

《井伏 そうです。甲州の昔の道、ヤマトタケルのころからの道を書こうと思う。古道、最初は矢の根を運ぶ道ですね。
 河盛 どこへ運ぶんですか。
 井伏 ほうぼうへ。信州の和田峠というところから黒曜石が、いまでもあるそうですから、そこから矢の根を運んでいく道があるわけなんです。それから塩を運ぶ道》

 井伏鱒二はヤマトタケルの通った道、甲州の馬についてもふれている。街道の形成には、塩や鉄、そして馬も大きく関わっている。ヤマトタケルが東征で陸奥に行き、その帰りに山梨の酒折に寄った。そこから下諏訪を目指し(途中で迂回したが)、現在のJR中央本線のようなルートで尾張に戻ったといわれている。つまり甲州街道や中山道の元になる道は『古事記』や『日本書紀』の時代からあったわけだ。
 わたしの郷里の鈴鹿市は江戸時代まではヤマトタケルの御陵(白鳥塚古墳、武備塚古墳、双子塚古墳など)があった場所といわれている。白鳥塚古墳は庄野宿の近くだ。
 明治九年までは白鳥塚がヤマトタケルの御陵とされていたのだが、明治十二年に亀山市の能褒野王塚古墳に変更された。わたしはこの変更については納得していない。
 山梨文学館を堪能し、再び甲州街道を歩く。貢川と荒川に貢川橋、荒川橋がかかっている。橋の上にバス停がある。
 橋をわたる。甲州街道ではなく、荒川沿いを歩きたくなる。荒川橋東詰で川が分岐している。車の交通量が多い街道の場合、わたしは近くに遊歩道があれば、そっちを歩く主義だ。北に向かって荒川沿いの道を歩き、飯田通を東へ。しばらく歩くと甲府の県庁前に出る。
 一時期、山梨への移住を考えていた。石和温泉から甲府くらいのあいだで物件を探したこともある。山梨と甲州街道のことはまたいつか詳しく書く予定だ。
 駅のすぐ近くに舞鶴城公園(甲府城跡)がある。城の手前の山交百貨店に寄り、セレオ甲府の五階にある飲食店街でラーメンと炒飯のセットを食う。
 県民の日で文学館の入館料が浮いたので、十五時二十七分の「特急かいじ」(自由席)で東京に帰ることにした。かいじは「甲斐路」だと気づいたのは最近の話だ。
 甲府から特急で立川駅へ。十六時三十八分着。あとはJR中央線の快速で高円寺まで三十六分......とおもいきや、まちがえてJR武蔵野線に乗ってしまう。中央線と同じオレンジ色のラインの車両だから勘違いした。夕方の東京駅方面の電車なのにけっこう混んでいたので不思議だった。
 東所沢駅の手前でようやく気づいた。電車に乗ってすぐ本を読みはじめてしまい、気づくのが遅れた。特急に乗った意味なし。東所沢駅始発の電車で引き返し、西国分寺駅に戻る。
 たしか所沢も西国分寺も鎌倉街道が通っていた土地だなあ......なんてことをぼんやり考えていた。