第十九回 奈良井-洗馬-塩尻-豊科-信濃追分-坂木

  • 木曽路十一宿 (駸々堂ユニコンカラー双書)
  • 『木曽路十一宿 (駸々堂ユニコンカラー双書)』
    尾崎 秀樹
    駸々堂出版
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  • 『どくとるマンボウ青春記 (新潮文庫)』
    杜夫, 北
    新潮社
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  • 『中山道69次を歩く 究極の歩き方120(改訂版)』
    岸本 豊(中山道69次資料館長)
    信濃毎日新聞社
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  • 『北国街道を歩く 究極の歩き方70』
    岸本 豊
    信濃毎日新聞社
    1,870円(税込)
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 わたしが旅に出たくなるのは、半ば現実逃避なのだが、そのさい、川沿いの道を歩きたくなる。水を見ながら歩くと、なんとなく心が軽くなる。
 九月一日、朝七時すぎ、三重県鈴鹿市の家を出て近鉄四日市駅へ。シャッター街化したアーケード内の旧東海道を通り、諏訪神社へ。そこからJRの四日市駅に向う。近鉄とJRの四日市駅は一キロちょっと離れている。
 四日市からは青春18きっぷで長野県の塩尻まで行くつもりだ。JR四日市駅から名古屋までのあいだ、橋が近づくたびに川を見た。同じ名古屋に向かう電車だけど、近鉄とJRでは風景がちがう。
 名古屋駅でJR中央本線に乗り換え、とりあえず中津川駅まで行くつもりだったが、十時十七分、釜戸駅でふらっと途中下車。降りたことのない駅を歩きたくなったのだ。
 釜戸駅のホームから「白狐と河童と竜の里 ようこそ釜戸へ」という看板が見える。釜戸、怪異の町なのか。駅で「てくてく釜戸ウォーキングマップ」を入手。駅前大橋を渡り、釜戸コミュニティセンターに寄り、しばらくウォーキングコースに沿って歩いた。土岐川沿いの道が歩きたくなり、コースを変更する。
 愛知県内では土岐川は庄内川と呼ばれている(河口は伊勢湾)。庄内川は三重から名古屋に電車で向かうとき、かならず越える川だ。岐阜県内を流れる土岐川はJR中央本線に沿って流れている。名古屋から中央本線に乗って東京に帰るときは電車から土岐川や木曽川を見る。
 橋を渡り、中央本線の線路をくぐり、蛙岩、神明神社などを見る。家に帰ってから地図を見ると、この日歩いた道が「中山道かえで街道」の一部だったことを知る。神社のあたりから中山道の大湫(おおくて)宿までは約三・五キロ。東海自然歩道もこの近くを通っているようだ。大湫宿はハイキングで有名な宿場町らしい。
 いっぽう釜戸は中山道の槇ケ根追分(岐阜県恵那市)と名古屋を結ぶ下街道(善光寺道)の宿場町だった。下街道は釜戸筋という別名があることも知る。
 釜戸駅十一時十八分、中津川駅に十一時三十九着。十二時発の電車で奈良井宿を目指す。
 奈良井宿に来るのは二度目である。前回は夕方に着いて、店がほとんど閉まっていた。今回は十三時二十四分着。駅で「奈良井宿 町並み建築てくてくマップ」をもらう。
 奈良井宿は中山道の中でも、全街道の中でも屈指の人気を誇る宿場町だ。近代以降に大火がなく、江戸末期の形式の町家が数多く残っている。
 長野県内の町だから信濃路かとおもったら、街道の分類では奈良井宿は木曽路に入るようだ。木曾と信濃の線引きがわからない。
 児玉幸多著『中山道を歩く』(中公文庫)の奈良井宿のところを読むと「奈良井宿は明治の国道改修で、新道からはずれた為に、宿の旧観が残り、昭和五十三年『重要伝統的建造物群保存地区』の指定を受けた」とある。
 かつてこの宿場町は「奈良井千軒」と呼ばれるほどにぎわっていた。『男はつらいよ』シリーズの第三作『フーテンの寅』、第十作『寅次郎夢枕』のロケ地にもなっている。寅さんの足跡をたどるマニアもけっこういるらしい。
 某店でうどんを注文。文庫本五十頁読めるくらいの時間待たされる。隣にいた家族連れはバスの時間が迫っていたらしく、ほとんど箸をつけないまま、店を出てしまった。
 食後、宿場町の端のほうの鎮神社、石畳の道あたりまで歩く。寺や水場もたくさんある。
 尾崎秀樹著『木曽路十一宿』(駸々堂ユニコンカラー双書)によると、「木曽十一宿を北からいうと、贄川、奈良井、薮原、宮ノ越、福島、上松、須原、野尻、三留野、妻籠、馬籠になる」とある。
 木曽路の奈良井、薮原、福島(木曽福島)などの宿場町は漆器の産地として有名だった。尾崎秀樹は「良材に恵まれ、湿気が多く、空気が澄んでいるためだ」と解説している。奈良井宿の名産は蒔絵をほどこした塗櫛(蒔絵櫛)だった。
 日没前に塩尻の宿に辿り着きたいので奈良井駅方面に折り返す。折り返すのが嫌いな人は薮原駅から歩くルートがおすすめだ(ただし薮原宿と奈良井宿のあいだには鳥居峠がある)。
『木曽路十一宿』には、鳥居峠は猿飛佐助が修業した土地だったことも記されている。

《これは「立川文庫」が生んだ虚構の英雄だが、その出生地を鳥井峠としたのは、おそらく中山道の難所から連想されたのであろう》

 午後三時、涼しい風が吹いてくる。やはり夏は東海道より中山道だ。傘をささなくてもいいくらいの小雨が降りはじめる。
 わたしは庄野宿出身の「東海道者」を自負しているが、中山道のほうが再訪したい町が多い。中山道――川のきれいな宿場町が多いのだ。
 木曽の大橋を渡り、電車の時間が迫るまで小雨が降る中、奈良井川を見ていた。

 十五時五十分、奈良井宿を出て、塩尻駅のひとつ手前の洗馬駅で降りる。そこから宿のある塩尻宿まで一駅分歩くつもりだ。一駅といっても七キロくらいある。
 洗馬駅には十六時十九分。冬なら日没との競争になるが、まだ九月――なんとか明るいうちに辿り着けるだろう。
 洗馬宿は中山道と善光寺道(北国脇往還)の追分がある。
 稲垣進一著『中山道 昔と今』(保育社カラーブックス)によると、洗馬という地名は「木曽義仲が家臣の今井四郎兼平に出会い、兼平が義仲の馬の足を洗って疲れを癒してやった」のが、その由来とのこと。広重の描いた洗馬の絵は「生涯の最高傑作」のひとつに数えられているとも。
 駅前の洗馬宿本陣跡を見て旧中山道を歩く。分去れ道標、常夜燈、肱掛松(赤松の名木)――地蔵と石碑がたくさんある。
 洗馬郵便局近くの平出歴史公園の信号のところで旧中山道ではなく、「アルプス展望しののめのみち」を歩くことにした。
 塩尻市平出博物館の前を通り、しばらく歩いて左折すると、平出の泉がある。メモに「水が青い」と記されているが、字が乱れている。疲れていて景色を楽しむ余裕がなかった。泉の近くの伊夜彦神社に寄る。
 十七時五分、平出遺跡縄文の村。竪穴式住居を復元した広場がある。周囲にまったく人がいない。今どこを歩いているのか。自分を見失いかけたとき、平出一里塚があった。
 慶長十九年(一六一九)に中山道は、辰野町小野から牛首峠を越え、塩尻市宗賀に向かうルートから塩尻峠を越えるルートに変更された(変更の時期は諸説あり)。
 一里塚から北のほうに向かって歩くとJR中央本線の線路が見えてきた。もう安心だ。あとは線路沿いの道を真っ直ぐ歩くのみ。「この道で大丈夫なのか」とおもいながら歩いてきて、次の町が見えてきたときの喜びは格別である。
 塩尻駅に着いたのは十七時四十分。駅の売店で酒を買い、ホテル中村屋へ。部屋は風呂なしの和室(訳ありプラン)だが、館内に大浴場がある。もはや中山道を歩くときの常宿になっている。
 塩尻に宿をとり、中山道や甲州街道の宿場町をぶらつきながら三重から東京に帰る。18きっぷの季節なら、(ホテル中村屋なら)宿代をいれても新幹線で帰るよりも安くすむ。JR東海とJR東日本の中間点で北方向に行ける篠ノ井線もあるから塩尻駅は次の日の移動がすごく楽なのだ。
 行きは東海道、帰りは中山道――江戸の旅人は楽しいことを知っていた。遠回り、そして遅い移動が文化を育んできた。

 九月二日、午前八時四十六分の電車で塩尻駅から南豊科駅へ。JR大糸線に直通の電車だ。途中、松本駅で特急の遅延のため、十分ちょっと停車。梓橋駅のところで「これより北 安曇野」の看板が見えた。梓橋駅の手前にあった川の名前を知りたかったが、そのときはわからなかった。家に帰って調べたら、梓川(信濃川水系犀川の上流域)だった。
 電車の遅延はあったが、南豊科駅には午前十時前に着いた。目指すは臼井吉見文学館、南豊科駅からは二・六〜三キロくらいだろうか。
 駅を出て西に向かってすぐのところに本村区コミュニティセンター(安曇野市)がある。なぜか道祖神と神代文字碑があり、漢字が伝来する以前に古代日本で使われていたといわれる神代文字の一種の阿比留(あひる)文字が刻まれている。阿比留文字はハングルに似た文字だけど、偽作という説が根強い。それ以前に「なぜこんなところに?」という違和感をおぼえる。まわりに寺とか神社とか何もないのだ。
 そこからしばらく歩くと五差路。本村 円(ラウンドアバウト)という交差点で中心部分が円になっていて道が分岐している。一瞬、方向がわからなくなる。だいたい西(やや北西)に向かい、地図を見ながら安曇野インター堀金線を目指す。途中、万水川を渡る。風が強い。田んぼの稲穂が揺れている。堀金の信号から堀金総合体育館の裏あたりに臼井吉見文学館がある。
 臼井吉見は筑摩書房の『展望』の編集長で小説『安曇野』で知られる作家だ。わたしは『あたりまえのこと』(新潮社)、『自分をつくる』(ちくま文庫)などのエッセイが好きで、臼井吉見文学館にはずっと行きたいとおもっていた。
 午前十時二十五分に文学館に到着したが、入口が閉まっている。まさかここまで来て休館日か。インターホンで職員を呼ぶ。五分後、職員がやってきて開けてもらった。
『展望』の創刊号、堀金小学校の卒業写真、手紙や葉書もたくさん展示されている。ハガキを見ると、臼井吉見の住所は杉並区成田東だった。駅でいうと、JR中央線の阿佐ケ谷駅。わたしはその隣の高円寺に住んでいる。わりと近所である。『安曇野』の生原稿がすごい。五千六百枚。赤字で直した跡がものすごくきれいで校正本の見本のようだ。
 臼井吉見と筑摩書房の創業者の古田晁とは旧制松本中学(現・松本深志高校)時代からの友人である。
「古田君、僕は君にまんまとおいてけぼりを食わされてしまった」ではじまる臼井吉見の古田晁の弔辞の全文も飾られていた。ふたりは中学以来、五十五年の付き合いだった。
 塩尻市には古田晁記念館(もより駅がJR中央本線辰野支線の小野駅)もある。小野宿は、初期中山道、そして三州街道の宿場町である。
 あと長野県は、岩波書店の創業者の岩波茂雄(諏訪市出身)やみすず書房の創業者の小尾俊人(茅野市出身)など、多くの出版人が生まれている土地だ。彼らの出身地は、街道という観点からすれば、太平洋と日本海の塩の合流地付近にあり、ある意味、情報の交差点のような場所でもあった。出版人が出るべくして出てきたといえよう。
 旧制松本中学といえば、北杜夫も卒業生で『どくとるマンボウ青春記』(中公文庫)に臼井吉見の名前が出てくる。

《先日、松本高校の初期の大先輩である中島健蔵、臼井吉見氏の話を伺う機会を得たが、むかしは信州で最高学府である松高生はもてて、浅間温泉の芸者と心中した事件もあった由だ。芸者が花代を立て替えてくれた。(中略)統計によると、三年生になって芸者を知らない松高生は一クラスに三名しかいなかったという》

 話が脱路したが、臼井吉見文学館を出たあと、行きと同じ道を歩きたくなかったので、南豊科駅ではなく、豊科駅を目指す。万水川沿いの道を歩いて、地図に載っていない田んぼの畦道みたいなところを抜ける。横からの風がきつかったが、土の道を歩くのは楽しい。徒歩の旅の自由さを味わう。しばらく歩くと豊科フイルムの工場が見えた。小雨。駅は見えたが、線路を越えて東口に出ないと改札がない。焦る。
 このあと篠ノ井駅で飲み友だちと待ち合わせ。十一時五十七分の電車に乗らないと間に合わない。余裕を持って文学館を出たつもりが、時計を見るとあと二分しかない。ちょうどホームに着くと同時に電車が来た。
 豊科駅から松本駅に出て、そこから篠ノ井線で篠ノ井駅を目指す。家に帰ってから豊科駅から篠ノ井線の田沢駅まで歩くルートを見つけたのだが、それだと約束の時間に辿りつけなかったかもしれない。
 十三時三十三分、篠ノ井駅に到着。東京と長野の二拠点で「出版と農業といろんなもののハイブリッド」を試みているつかだま書房の塚田眞周博さんは来ているのか。
 数日前に高円寺のペリカン時代というバーでたまたま塚田さんと会い、「今週長野に行くよ。いちおう篠ノ井に午後一時半くらいに着く予定だけど」と話したら「車、出しますよ」といってくれたのだが、お互い、かなり酔っぱらっていて(塚田さんは泥酔)、いわゆる酒の席の口約束だから、来ても来なくてもいいくらいの気持でいた(わたしはスマホや携帯電話を持っていないので連絡がとれない)。
「午後二時くらいまでは待つよ」といっていたら、時間通りに塚田さんは駅に来ていた。さすが長野出身の出版人は律義である。
 篠ノ井は北国街道の間宿で北国街道と善光寺西街道の追分でもある。
 すこし北に行くと川中島がある。
 わたしは上杉謙信と武田信玄が戦い続けた川中島がどこにあるのか知らなかった。篠ノ井から北国街道沿いの地域が川中島の戦いがあったところで、近くには長野オリンピックスタジアムもある。なんとなく長野は、本州の真ん中くらいにある印象だったが、地図を見ると日本海に近い。
 信濃川と千曲川が同じ川だということも四十歳すぎまで知らなかった。はじめて地図を見たとき、自分の目を疑った。そのくらい新潟と長野は離れているとおもっていたのだ。
 街道歩きをはじめて以来、歴史や地理の本を読んだり、暇さえあれば地図を見たりするようになったのだが、それまでいかに自分が日本のことを知らなかったかに愕然とする。 
 川中島の戦いで武田軍の拠点だった海津城(松代城)も篠ノ井駅がもより駅だ。時間があれば、松代大本営跡にも行きたかったが、また今度。
 塚田さんおすすめの篠ノ井駅の改札を出てすぐのそば処あんずで山菜とろろ蕎麦を食べる。「日本一狭い駅そば」二〇一九年九月いっぱいで閉店するという。
 篠ノ井駅を出て、目指すは中山道の追分宿。仮に電車で篠ノ井から追分宿のある信濃追分駅まで行こうとすれば、十四時四十九分まで電車がなく、到着は十五時五十五分。長野県内の移動はけっこう大変だ。
「高速で行きましょう」と塚田さん。高速道路のほうが運転が楽だというので追分宿までのルートはまかせることにした。
 千曲川を越えて、高速に乗る。何度かトンネルを抜けて、小諸のあたりを通り、しなの鉄道の御代田駅のあたりで旧中山道に入る。追分公園近くの駐車場に着いたのが十五時すぎ。いきなり芭蕉の句碑がある。

――吹き飛ばす石は浅間の野分哉

 芭蕉は四十代半ばごろ、信濃善光寺から北国街道、中山道を通り、江戸まで歩いている。そのときに作った句らしい。
 信濃追分は中山道と北国街道の分岐点である。今回の旅では洗馬、篠ノ井、信濃追分といずれも長野県内の追分を回っている。
 信濃追分については、軽井沢の隣の別荘地くらいの知識しかなかった。
 中山道では軽井沢、沓掛、追分宿は浅間三宿と呼ばれている。追分宿は、三宿の中でいちばんにぎわっていた。
 竹内勉著『追分節 信濃から江差まで』(三省堂)を読んでいたら、追分宿は「中仙道と北国街道の分岐点で、京大阪方面に向かう人も、北陸へ向かう人も、碓氷峠越えをして行く人も、ここで一区切りつけてから次の目的地へ向かうという、地の利に恵まれていた」とあった。
 この本には追分宿の脇本陣で「文士の宿」としても有名な油屋の主人・小川誠一郎さんの超貴重なインタビューも収録(一九七八年七月)されている。
 宿場町が寂れた理由といえば、鉄道の開通を挙げていることが多いのだが、小川さんは「明治五年(一八七二)に飯盛り女の『解放令』が出たわけですよ。これが宿場町どこでもさわったわけですねェ」と語る。
 この話を受け、著者の竹内さんは「飯盛り女」について次のように解説する。

《飯盛り女とは、字のとおり飯を盛る女で、給仕さんのことである。(中略)旅人に代わって炊事をする女たちは、そのうち客の前へ現れ、給仕するだけでなく、酒の相手を、更には遊女まがいに枕まで共にするようになった。そうなると、旅人も飯盛り女のいる所へ集まるため、飯盛り女の存在で宿が盛るか廃るか決まってきた》

 街道に関する本を読みはじめるまで、わたしは「飯盛り女」についてほとんど知らなかった。貧しい農民が借金のかたに娘を飯盛り女として奉公させていたという(奉公期間は十年以上)。
 さらに信越線の開通によって追分宿を訪れる旅人が激減する。旅人相手の商売をしていた追分宿の有志は建物ぐるみで岩村田(長野県佐久市)に移り、岩村田遊廓を作った。この遊廓は一九四〇年に廃止となる。

 油屋の旧脇本陣は昭和十二年十一月十九日に焼失するが、そのころ堀辰雄と立原道造が部屋を借りていた。
 近藤富枝著『信濃追分文学譜』(中公文庫)によると、火事のとき、堀辰雄は郵便局に出かけていて留守だったが、立原道造は部屋にいたという。

《「立原さあん。階段を降りなさい。まだ大丈夫」
 と外から宿の主の小川誠一郎が教える。道造がいってみると、そこも火花と煙で通れそうもない。また窓に戻って格子にしがみついていた。
 外から二階に梯子をかけ、大工がかけ上げって格子をきり、道造を助け出した》

 車通りの少ない旧中山道を歩いていると堀辰雄文学記念館があった。記念館の入口には追分宿本陣門(裏門)が移築されている。
 堀辰雄は信濃路や大和路に関する著作もある街道作家である。ただ、この日はどうしても時間内に行きたい場所があったので、門の中にすこしだけ入ってすぐ出た。
「今日は休みかもしれません」と塚田さんがいっていた古本カフェの追分コロニーは営業していた。街道本を何冊か買う。
 中山道の宿場町は東海道と比べて多彩だ。埼玉県の大宮や浦和のような都会もあれば、奈良井宿のような江戸の風情が漂う町もある。旧街道が残っているのもいい。
 塚田さんに追分宿の後藤明生の山荘(麓迷亭)を案内してもらう。途中、道に迷いかける。後藤明生の『吉野大夫』(中公文庫)もこの山荘で書かれた。追分宿に実在したといわれる遊女の話......というか、そこから脱線し続ける小説である。
 山荘が密集するエリアを抜け、再び旧中山道へ。追分宿の「分去れの道標」を見て、中山道69次資料館に到着する。資料館は北国街道と浅間サンラインと旧中山道が交わっているところにある。
 庭には「ミニ中山道」が作られている。館長は『改定版 中山道69次を歩く 究極の歩き方120』『北国街道を歩く 究極の歩き方70』(いずれも信濃毎日新聞社)などの著作がある岸本豊さん。
 入館するや否や岸本さんは館内の展示物について懇切丁寧に解説してくれた。街道のことを話し出したら止まらないかんじは北品川の街道文庫の田中義巳さんと似ている。
 中山道の宿場町について質問すると、岸本さんは何でも即答してくれる。渓斎英泉の中山道の絵について聞いたら「あなた、詳しいですね」と褒められた。英泉は追分宿の絵も描いている。
 ほかにもある人物が「旧中山道」を「一日中、山道」と間違えて読んだエピソードなども教えてくれた(「旧」という字は「1日」に見える)。
 閉館時間はすぎていたが、岸本さんの語りは止まらない。中山道の歴史や宿場町が舞台やロケ地になっている映画など、その情報量の膨大さに圧倒された(途中でメモを諦めたくらい)。
 さらに資料館には北国街道の展示物もあった。帰りぎわに塚田さんが「坂木宿のあたりの出身なんですよ」といったところ、岸本さんの目が輝き、そこから北国街道の話に......。
 ちなみに岸本さんは館長になる前は高校で地理の先生をしていたそうだ。
 中山道69次資料館を出て、この日は塚田さんの家に宿泊。帰り道は浅間サンラインを通った。絶景。長野オリンピックによって、県内の道路事情が格段によくなったという。たぶん北国街道も通ったような気がするが自信がない。
 千曲川を渡り、しなの鉄道テクノさかき駅近くの上平島温泉びんぐし湯さん館で温泉に入り、夕食もとる。ねずみ大根のおしぼりうどんが名物(けっこう辛い)。二〇一四年九月二十八日に塚田さんの家の稲刈り、というか稲架掛け(はぜかけ)を手伝いに行っている。そのときもびんぐし湯さん館に行った。
 日付をおぼえているのは前日に御嶽山噴火があったからだ。もう五年以上前になるのか。
 塚田宅で朝四時くらいまで飲む。
 翌日、千曲川沿いの道を通り、旧北国街道の坂木宿をすこし歩く。道の途中に「日本刀とバラ びんぐしの里」という看板があった。
 五年前に坂城町を訪れたときはまだ「街道病」を患ってなかったので、坂木宿を歩くのははじめてだ。江戸時代には養蚕が盛んだったところらしい。
 さらに江戸以前は信濃善光寺からの鎌倉街道の上道も坂木宿のあたりを通っていた(あくまでも推定だが)。
 坂木宿 ふるさと歴史館、旧坂木宿本陣門を見て、昭和の雰囲気が残る街道筋を歩く。北国街道は追分宿から小諸、上田、坂木、善光寺などを経て新潟に至る。善光寺もうでの道だが、佐渡の金を江戸に運ぶ"金の道"でもあった。
 今回、長野では中山道と北国街道を歩いたが、千国街道と三州街道(伊那街道)も気になる。千国街道は、長野県の松本から新潟の糸井川、三州街道は塩尻から愛知県の岡崎に至るいずれも"塩の道"である。
 しなの鉄道の坂城駅から上田駅。午前十一時半すぎ、上田駅からは高崎駅まではJR北陸新幹線に乗り、青春18きっぷで倉賀野駅、大宮駅で途中下車し、東京に帰る。

 長野から帰って数日後、背中と右脇腹に赤い斑点が出た。「山道のどこかで毛虫に食われたか」と虫刺されの薬を塗っていたら、背中を見た妻が「今すぐ皮膚科に行ったほうがいい」という。近所の病院に行き、「毛虫か何かに刺されたみたいで......」といいながら、シャツを脱ぐと皮膚科の先生が「ああ、帯状疱疹ですね」。
 自己判断は危険である。気をつけたほうがいい。