第2回 愛されて半世紀。酔客たちを魅了し続けるモツ味噌焼き
口開け16時。引き戸の桟ひとつひとつまで綺麗に拭き上げられた店内に、待ちかねたように客が滑り込んでくる。掲げられたばかりの暖簾を潜るは、パリッとしたシャツを着たサラリーマン風の男性ひとり客。焼き場を囲むコの字カウンターの焼き台すぐそばに座り、「瓶ビールと味噌焼きをください」。
ここの2大名物酒肴だ。
テレビからわずかなボリュームで流れるニュース情報以外は静かな店内に、「シュポッ」、威勢のいい音が響く。店主・石塚裕一さんが瓶ビールの栓を抜く音だ。この音を聴きたいがために瓶ビールを注文する人がいるほど、惚れ惚れとする音。そして味噌焼きは、この店が発祥の元祖・モツ味噌焼き。ニンニクなどをブレンドしたオリジナルの味噌だれで焼き上げられたモツの串焼きで、先代の大将が考案したものだ。
昭和45(1970)年創業の老舗モツ焼き屋「㐂よし」。埼玉県川口市にある。最寄駅はJR蕨駅だ。
54年もの年月を確かに感じさせる風格を湛えた木造の引き戸を開けると、高い天井に、コの字カウンター席。小上がりなどはない。ビール・赤星の王冠レプリカと対をなすように天井近くに飾られている熊手には、お札がびっしりと挟み込まれている。壁には、つまみや酒メニューが書かれた短冊がずらり並ぶ。まさに昔ながらの酒場の風情。
店主・裕一さんは、二代目。先代の大将は、奥様の父上で義理の父にあたる。
ミュージシャンを目指し音楽活動をしていた若かりし頃、今や有名になった某バンドとも対バンをするなど活躍をしていたものの、音楽活動に区切りをつけて、飲食店の道へと進んだ。
荻窪の人気焼き鳥屋「鳥の介」で弟・卓司さんと一緒に修業を積んだ後に、東京・高円寺でご自身の店「串焼き処ディズ」を創業。1999年のことだ。新宿にある憧れの酒場「バカボンド」のようなお店にしたい、いつか海外の雑誌でも紹介されるような酒場にしたい、と兄弟で夢を持っての開業だった。それからわずか3年後の2002年に、義理の父の店である「㐂よし」を継ぐことになった。
――ご自身のお店があるのに、「㐂よし」を継ぐのに抵抗はなかったですか?
「いやぁ、いつかはこういう日が来るかなとは、ね。親父さんも体調が悪かったから。電話で『継ぐか?』と連絡が来て、『え~っと、え~っと、はい。継ぎます』。その場で決めました」
「ディズ」は弟の卓司さんに託し、「㐂よし」二代目へ。
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茨城出身の裕一さん。モツの味噌焼き自体も、「東松山系の唐辛子がきいた味噌焼きは食べたことがあったけれど、「㐂よし」スタイルの味噌焼きは食べたことがなくて。お嬢さんと結婚させてくださいって挨拶にお邪魔した時に食べたのが、初めて。もう味なんてわかんなかったですよ」と笑う。
昭和の職人そのものだったという親父さん。常連さんたちも燻銀な酔客が多かった。その中に、たった一人で「㐂よし」に客として座り、お嬢さんをくださいと言う。想像するだけで心臓が止まりそうだ。
「仕事ぶりはほんと、昔ながらの職人でしたけれど、普段は優しい人でね」
「㐂よし」を継ぐことになり、改めて修業をすることになる。「ディズ」は鶏で「㐂よし」は豚という違いもあり、捌き方から、モツの洗い方、串の刺し方も勉強し直し、味噌だれの調合も学んだ。しかしその期間はわずか2ヶ月。
「親父さん、すでに体調が悪かったから、その期間しか一緒に(カウンターの中に)立てなかったんですよ」
「㐂よし」を継いだのは、裕一さんが34歳の時だった。
ただでさえ、先代から代替わりをすると味が変わっただのなんだのと言われがちだ。しかもお客さんたちは裕一さんよりも先輩ぞろい。ご苦労もあったことだろう。
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あたしが「㐂よし」に初めてお邪魔したのは、2011年のこと。裕一さんが「㐂よし」を継いで10年になろうとする頃だった。店内は、まず女性ひとり客は皆無。自分よりもはるか先輩の男性たちがひとり呑みをしていた。静かな店内。独特の雰囲気。真空パックにして保存しておきたいほどに魅了されて、足を運ぶようになった。
時には強面のお兄さんたちもいた。そんな中、若干若めの女がひとり呑み。完全にそこだけ異世界だったと思う。でも、誰にも絡まれることもなく、いつお邪魔してもとても綺麗に呑めることが感動的でもあった。それは裕一さんの酔客に対する毅然とした対応があったからこそだ。いかつい兄さんたちにも、きっちりと指導。一見でお邪魔した見知らぬ女性ひとり呑み客(=あたし)には、不審がることもなく、他の常連さんたちと全く変わらず同じように接客をしてくださった。そこがこの店を信頼している点の一つでもある。
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コロナ禍を経て久々に往訪したこの日。先ほどの口開け一番乗りのお客さんは、文庫本を片手にひとり静かに呑まれている。手元にやってきた味噌焼きにぱぱっと七味を振り、ビールをぐびり。手慣れた様子。
あたしも全く同じ酒肴を注文。
「まるでストーカーみたいですね。すみません」
そう謝ると、ふっと笑い返してくれた。
そこへ、さらにひとり呑みの男性客が来店。カウンター向かい側に座るや否や、エシャレットと谷中と、味噌焼きを注文。さらにあたしの隣席にもひとり呑み男性客が来店。着席されると同時に、キンミヤ焼酎300mlのボトルがその方の目の前にトンと置かれる。常連さんですね。そしてそのお客さんも味噌焼きを注文。
「おひとりで、その量の焼酎を?」
思わずそう尋ねると、
「そう。300ml、ちょうどピッタリの量でいいんだよ」
呑みきりサイズの焼酎ボトルを片手にホッピーで割りながら串を頬張る姿、絵になります。
さらに男性ひとり客が、カウンターの対岸に着席。この方も最初の注文から味噌焼きだ。そこへ黒いTシャツ姿の若めのひとり呑み男性客が来店。カウンター対岸の焼き台のすぐ側に座り、やっぱり味噌焼きを注文する。
口開け20分の間に5名来店し、全員がモツ味噌焼きを一品めにオーダー。いかに人気かがわかる。
続々とやってくる酔客たちのモツ味噌焼きを炭火で焼き上げるは、横田大和さん。三代目を継ぐ予定の若者だ。
元々は、「㐂よし」のお客さんだった横田さん。20代前半の時に地元の友達と入ったのがきっかけ。
「チェーン店以外の個人店で呑もうと足を運んだのが最初。赤提灯そのものが、『㐂よし』が初めてだったんです」
20代前半で「㐂よし」を選ぶとは、渋い。
「緊張はしましたねぇ。怖いというのとは違うんですけれど。お酒の呑み方もまだよく知らない若造だったから、大将から指導を受けました(笑)」
びしりと指導をされても臆することなく足を運び続け、ついには店を受け継ぐ後継者にまでなった横田さん。
「『㐂よし』はね、味噌焼きはもちろんのこと、テッポウのタレ焼きも美味しくて、初めて来た時に、『ここは本物だ!』って思ったんです。大将も根本が優しい人で。修業時代も、正しいもの、正しくないものを、ちゃんとはっきりと言ってくれてわかりやすかった。背中を見て覚えろって言うのではなく、ポイントごとに丁寧に教えてくれました。自分自身食べ物に興味があったので、いろんな質問を大将にできたのもよかったなと思っています」
そうしみじみと語ってくれた横田さんは、「㐂よし」の支店である西口店(立退により現在は閉店)でも修業を積み、現在は本店で焼き場を任されている。裕一さんは、仕込みや横田さんのサポートなどを担当。曜日によっては、横田さんのみでカウンター内を切り盛りすることもあるという。
急に店主が変わると常連さんたちが戸惑ってしまうからと、緩やかに引き継ぎができるよう顔見世興行的に横田さんを焼き場のメインとしている裕一さん。おそらく、ご自身の体験も踏まえての配慮だろう。
横田さんは、現在38歳。裕一さんが「㐂よし」を継いだ年齢にも近い。
――サラリーマンみたいに、ご自身は60歳定年を考えていますか?
「まあね、ぼちぼちとそういうの、考えてますよ。横田くんだって、目標がないとつまんないでしょ。だからね、自分が60歳になったら、逆に横田くんに雇ってもらうの」
と笑う裕一さん。さらに続けて言う。
「お客さんもね、自分がいない方が生き生きしている。自分がいない時を狙って来店したりね。だから、いないと見せかけて突然店に立ったりするの」
冗談を飛ばす裕一さんにすかさず、「それは被害妄想すぎます」と突っ込む横田さん。いい師弟関係だ。
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「㐂よし」のモツ味噌焼きは、ここで修業を積んだ野方「秋元屋」さんの発信もあって、東京でも絶大なる人気を博し、味噌焼きを目当てに、全国からモツ焼き好きが足を運ぶようになった。
――秋元さんのように「㐂よし」で修業を積みたいという人、多いのでは?
「もうね、そういう時代でも無くなった。そもそも今の若者は、町場の焼きとり屋なんかで修業しない。町場の焼きとり屋、蕎麦屋、寿司屋は絶滅危惧種。あと何年かしたら無くなっているかも。銀座あたりの高級店しか残らない。スーパーで買ったものか、高級な店で食べるものかの二極化になるんじゃないかな。そもそも定年後に「蕎麦屋」をやるなんてのも現実無理ですよ。体力がもたない。立ち仕事用の体になっていないと。修業はね、もう横田くんが最終世代だと思う、40歳前後のね」
あたしが初めて「㐂よし」に来た時ですら、よくぞ現在まで続けてきてくださっていたと、まさに古典酒場遺産のような貴重さにありがたく思ったのだが、それは店に立ち続けてくれる人がいてこそ。横田さん世代を是非とも盛り立てていかねばと思っていたところに、さらにひとり男性客が来店。カウンターの対岸に座り、裕一さんと挨拶をかわす。
「半年ぶり」
「そんなになりますか?」
「なるねぇ。3月以来だからね。もうそんなに呑めなくなって」
「いいんですよ、そんなに呑めなくても」
***
コロナ禍を経て、足を運ぶお客さんにも変化があったと言う。早く来て早く帰る人が増えたから、営業時間も、17時スタート23時終わりだったのを、16時スタート21時終わりに変えた。
「コロナ禍が明けて会うと、みんな老けてた(笑)。自分らの年齢だと、そうなっちゃうよね」
――あたしももう朝まで呑めないです。
「コロナ禍の時に、爽やかな朝ってやつを知っちゃったからね(笑)」
とは言いつつも、客は続々と来店し、みんな黙々とモツ焼きを頬張っている。緊張感とも違う、心地よい静謐。大人の嗜みが詰まっているような空間だ。これも裕一さんの指導の賜物かと思いきや
「今はね、ソフト路線。もう昔みたいな荒々しさはないの。自分も歳をとったのよ。お客さんたちも。肩で風を切っていた人たちも、肩で風を切らなくなった(笑)」
裕一さんは、店を継いだ後、先代が残したモツ味噌焼きに次ぐ人気のオリジナルモツ焼きを考案した。
「カシラ21世紀だれ焼き」だ。
レバ刺しがまだ食べられた時代。付けダレの生姜醤油タレも人気だった。レバ刺しと共にそのタレまでも無くなってしまうのは惜しいと、活用方法を考えてできたのが「21世紀タレ焼き」。生姜の清々しい辛味がきいた味わいが、味噌焼きの濃厚さとも呼応し、交互にエンドレスもつ串を呼び込む。
味噌だれを応用したつまみもある。「みそポテト」だ。蒸したじゃがいもをアルミホイルで包んでマーガリンと共に炭火で炙り、味噌だれをかけて食べる。味噌だれには熱が入っていないから、モツ味噌焼きとはまた違う味噌本来の甘さも楽しめる。創業以来愛されてきた女将さんのぬか漬けも、箸休めどころか、酒をより一層進ませる美味さ。
裕一さんと仲良しの若女将の店・赤羽「まるます家」の名物酒"ジャン酎モヒート"のオマージュである酎ハイモヒートも爽快な味わいで心地いい。
そして締め飯としても外せないのが、「とり豆富」。鶏出汁の澄んだスープに三つ葉の香りも高く、白ネギのシャキッとした食感も格別。そこに焼き餅をドボンと投入すれば、炭火で焼かれたお餅の香ばしさも足されて、汁をつまみに呑む"汁呑み"にもピッタリ。
以前は、この鶏豆腐に焼きおにぎりを合わせるのも、あたしは愛していた。出汁粉がたっぷりとまぶされた俵型の焼きおにぎり。鶏出汁と相まみえれば、king of 旨味。今はもうメニューにない焼きおにぎりへの愛を語っていたところ、カウンター対岸の若めの男性客も、そうそうと頷き、ご自身の思い出を語ってくださった。
隣り合った方のみならず、対岸の方までも、全方位的にお客さんたちとも交わることができるのもコの字カウンターのよさ。だからと言って、決して場がうるさくなりすぎないのは、裕一さんが地道に場の空気づくりに心を砕いてきたからこそ。
さて、びしり指導もイカしていた裕一さん。今は、アニメ「ラーメン赤猫」に癒される日々だと言う。オープニング歌の最後のフレーズを「みそ焼き」に置き換え口ずさみ、「猫が店に立ってるよ」と落涙する。
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知り合って13年。
互いに歳を重ねた。しかし、裕一さんも「㐂よし」も年輪の刻み方が格好いい。あたしも大人の階段をこんな風に上っていきたい、今でもそう思わせてくれる酒場だ。
店名 | 㐂よし |
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住所 | 埼玉県川口市芝新町2-11 |
電話番号 | 048-266-1002 ※予約不可 |
営業時間 | 16:00~21:00(L.O) |
定休日 | 日・祝日 ※火は不定休 |
アクセス | JR蕨(わらび)駅東口より徒歩3分 |
※メニューは時期などによって替わる場合があります。