市場界隈 那覇市第一牧志市場界隈の人々

『市場界隈 那覇市第一牧志公設市場界隈の人々』は書籍になりました。

沖縄県那覇市の第一牧志公設市場。戦後の闇市を起源に持ち、70年以上の歴史を抱える市場に通いつめて、界隈の人々を取材しました。浮かび上がるのは沖縄の昭和、そして平成。観光で触れる沖縄とはちょっとちがう、市場界隈の人々の記録です。
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18「にしきやおみやげ店」

 日曜日の国際通りは歩行者天国となる。路上で披露される大道芸に足を止める人もいれば、キッズエリアでシャボン玉を追いかける子供達もいる。さまざまな国から沖縄を訪れた観光客が、国際通りをそぞろ歩き、ずらりと建ち並ぶ土産物店を眺めてゆく。

「私がここで店を始めた頃はね、お土産を売る民芸品店というのはありませんでしたよ」。そう語るのは「にしきやおみやげ店」を営む城間ルミ子さん。お店の創業は東京オリンピックが開催された頃だというから、半世紀以上前に遡る。「国際通りにある店と言うと、ほとんど時計屋さんでした。当時はまだドルの時代でしたけど、オメガだとか外国の時計を売る店と、ワニ革のハンドバッグなんかを売る店と、外国のウィスキーを売る店。そういったお店がずらりと並んでいる通りだったんです」

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 ルミ子さんは昭和十一年、台湾の花蓮港で生まれた。両親は久米島出身だったけれど、仕事の関係で花蓮に移住していた。日清戦争後、台湾は日本に割譲された。日本統治下の台湾では、東部の沿岸に移民村がいくつも作られ、多くの日本人が入植している。

「私が住んでいたところには、製糖工場があったんです。日本政府の勧めでサトウキビを作っていて、それを収穫して砂糖にする。父は電気技師をしていて、製糖工場の電気部で働いてました。沖縄から移住した人は、うちともう一軒くらいで、あとは内地の方達でしたね。そこで働く人達が住んでいる長屋があって―長屋と言っても玄関もお風呂もあるのよ―とっても良い暮らしをしてました。豆腐屋さんもあるし、日本式の神社もありましたね。お正月になると、朝早くに起きて、着物をきてお参りしてました。五年くらい前に、兄と一緒に花蓮を訪ねたことがあるんです。そうすると、今はもうサトウキビは作ってなくて、畑はほとんどバナナになってましたけど、当時のまま残っている建物もたくさんありました。神社もそのまま残っていて、あの頃は小さかったからものすごく長い階段があったような気がしたけど、今行ってみると三十段くらいでね。そこを登っていくと、今は蔣介石の銅像が飾られてました。そこからあたりを眺めると、当時のことが懐かしくなって。『戦争がなければ、今頃はもっと良かったはずなのに』とうちの兄がよく言いますが、私達が花蓮に住んでいた頃はとっても平和な時代でした」

 太平洋戦争が始まると、台湾も空襲の被害を受けた。両親は台湾で亡くなり、ルミ子さんは親戚に手を引かれ、沖縄に引き揚げることになる。

「引き揚げるときはね、基隆という港町の岸壁に倉庫があって、しばらくそこに収容されてました。内地からは大きな船がやってきて、先に帰っていくんです。でも、沖縄に引き揚げる船がなかなかやってこなくてね。昭和二十一年の秋になって、ようやく米軍の上陸用の舟艇がやってきて、それで引き揚げたわけ。沖縄に到着するときも、那覇港は軍港で入れないもんだから、中城村の浜ばたに降ろされて。そこに名簿があって、親戚を探すと、やんばるのほうに住んでいるみたいだから、トラックに乗せてもらって訪ねて行って。でも、そこにずっとお世話になるわけにもいかないから、今度は糸満までヒッチハイクをしながら、三日かかって移動しましたよ。そのときに今の国際通りのあたりも通ったはずだけど、戦争で燃えて何もないからね、このあたりから海まで見通せるほどでした」

 そうして糸満で暮らし始めたルミ子さんは、学校を卒業すると、昭和バスの車掌として働き始める。家が糸満ということもあり、配属されたのは糸満線だ。その路線は魚を行商する女性も多く乗っていて、朝早い便から混雑していたという。結婚を機に退職し、三年ほど専業主婦をしていたけれど、二十八歳のときに「にしきやおみやげ店」を開店する。引き揚げた頃に通りかかったときには焼け野原だったけれど、復興とともに繁華街が形成され、一九五四年にアスファルトで舗装された道路が完成していた。通り沿いにあった「アーニーパイル国際劇場」から名前を取り、この道路は「国際通り」と呼ばれるようになる。

「主人は那覇出身で、国際通り沿いに物件を持ってたんです。最初は人に貸してたんだけど、色々あって、自分達で店をやったほうがいいんじゃないかという話になりまして。それまで商売をやったこともなかったけど、二十八歳のときに土産物屋を始めたんです。最初はね、周りと同じように時計やワニ革を仕入れようかと思ったんだけど、高級なものを仕入れるには資本が要るでしょう。だから、とりあえず安く仕入れられるものをということで、土産物屋にしたんです。この近くに『紅屋』さんという民芸品店はありましたけど、そことうちしか土産物を売る店はなかったです」

 帳場の後ろに、古くなった漆器がいくつか並べられている。「これは昔の売れ残りです」とルミ子さんが言う。丸いプレート状の漆器に、沖縄の地図と花笠が描かれている。地図には「IE」や「KADENA」、「KOZA」、「RAIKAMU」とアルファベットで地名が記されている。

「これはね、アメリカの兵隊さん向けに、私がオーダーして作らせたものなんです。世界地図で見てもね、沖縄は点でしかなくて、どんな島かわからないでしょう。それで兵隊さんがやってきて、『自分が駐留しているのはどんな島か家族に送りたいから、マップはないか』と言うわけ。それで漆器に沖縄の地図を描いて、地名を英語で入れて、それだけでは寂しいから花笠も描いてね。これを兵隊さんが買って、『自分はこの地図のこのあたりにいる』と手紙を書き添えて送っていたみたいです」

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 土産物店を訪れていたのは米兵ばかりではなかった。復帰前の沖縄にも、内地から観光団が訪れていた。その多くは慰問のための観光団である。一九六一年に和歌山県が「紀乃國之塔」を建立すると、沖縄や南洋で亡くなった出身者を追悼するための慰霊碑を各都道府県が建立し始める。

「その時代だと飛行機は高かったから、船でいらっしゃる方が多かったみたいですね。まだ美ら海水族館なんてありませんから、観光団の方達は激戦地になった南部を一周されてました。各都道府県ごとに四、五十名ぐらいの団体でいらっしゃって、ひめゆりの塔を見学する。もうすでに慰霊碑がある県の観光団であれば慰霊碑に手を合わせて、まだ慰霊碑がない県の観光団であれば慰霊碑を建てられそうな土地を探す。そうした観光団の方達が、土産物を買いにきてくれてました。土産物と言っても、今みたいに何種類もありませんよ。島酒と黒糖と、琉球漆器と琉球人形。最初はこの四種類くらいでしたね。ちんすこうを売り始めた頃も、今のように包装されてなくて、瓶にたくさん詰めて並べておくんです。それでお客さんが『十個くれ』と言えば、駄菓子屋さんみたいに紙袋に入れて渡してました。今は綺麗に包装されてますけど、最初の頃はビニール袋もなかったからね。島酒だって、瓶詰めされて箱に梱包されるようになったのはずっと後のことですよ。昔は素焼きの壺に入れて、上を藁で括ったものを並べてました」

 競合店が少なかったこともあり、「にしきやおみやげ店」はすぐに繁盛した。観光客は朝早くから夜遅くまでやってくるので、八時過ぎには店を開け、夜は日付が変わる頃まで営業していたという。

「昔の観光団の方達は、買っていく数が多かったんです。琉球人形にしても、一個や二個じゃなくて、五個、十個と買っていく方が多かったですよ。『箱は要らないから、人形だけ詰めてくれ』と言われてね。箱にきれいに並べて、お客さんのホテルまでタクシーで届けに行くこともありました。従業員もふたり雇ってましたけど、とにかく忙しかった。朝起きると、ごはんを食べるひまもなく店にきて、とりあえず店をオープンさせて、二階のコンロでごはんを炊いて食べてました。子供の面倒を見ながら働いてましたけど、私が商品を包むのに一生懸命になっていると、いつのまにかいなくなっていて。どこに行ったかねえと探しに行くと、道の端っこで遊んでました。そんなして店を続けてきたんです」

 観光団のルートが変わるのは、復帰後のこと。一九七二年、沖縄本島北部にある本部町で沖縄国際海洋博覧会の開催が決まると、急ピッチで開発が進められてゆく。沖縄におけるリゾート開発の先駆けとも言える恩納村のムーンビーチリゾートホテルが開業したのも、一九七五年のことだ。復帰の年に四十四万人だった観光客数は、一九八四年に二百万人を超え、沖縄サミットが開催された二〇〇〇年には四百五十二万人を記録。その頃には国際通りに土産物屋さんが増え始めたという。

「昔は土産物屋が少なかったぶん忙しかったけど、今はたくさんありますからね。うちは創業した当時と同じ建物で営業を続けてますから、素通りして他の店に行く方も多いですよ。私ももう年だから、朝早くから働くと疲れるので、時間を縮めて働いてます。この先、そんなに長く続けようとも思ってないけど、家にいてもつまらないから続けてるんです。ここに立って、通りかかる人を眺めて、ああ、今日も終わったと感じる。その繰り返しですね」

 一日を繰り返すごとに、風景は変わってゆく。沖縄を訪れる観光客は増え続け、もうすぐ一千万人に届く勢いだ。かつては焼け野原だった国際通りに、国内外から観光客が押し寄せている。今日はクルーズ船が入港したらしく、札を提げた観光客が行き交っている。五十年後、あるいは百年後には、今とはまったく異なる風景が広がっているのだろう。国際通りを眺めながら、未来の姿を想像する。