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3月30日(火)

「ついに買っちゃったんです」

 朝、出社すると顔を赤らめた浜田が告白してくる。

 ずいぶん長い間乗り続けてきた自転車を買い替えたのか、それとも応援しているヤクルトスワローズの新ユニフォームだろうか。

「これなんです」

 とガラケーの小さな画面に映し出された不鮮明な写真の向こうには、ビンのようなペットボトルのようなそれにしては周りのものとは縮尺がおかしなものが映っていた。目を凝らしてよく見てみるとそこには青い文字で「好きやねん」と書かれており、どうやら焼酎のようであった。もしやこれはあの酒屋さんやスーパーやドラッグストアで誰がこんなに飲むんだよと思わず突っ込みを入れたくなるあの大五郎のようなどでかペットボトルの焼酎ではないか?

「これ一本で4リットルもあるんですよ。安心感が違います」

 もしや顔が赤いのは恥じらいではないのかもしれない。

「えっ、飲み過ぎたりしませんよ。飲み過ぎないためにこれもちゃんと買ってつけてるんです」

 そうして拡大して見せてくれたのは何やらノズルのようなものでワンプッシュ定量ディスペンサー「一押くん」というらしい。

 一押くん? いくら一押で酒が注がれる量が少なくても何度も押せば同じことではなかろうか。浜田はいったい一晩で何押するんだろうか。

 4リットルが何日で空っぽになるのかは決して口を割ることなく、事務仕事に向かうのであった。

3月25日(木)

  • 狩猟に生きる男たち・女たち (狩る、食う、そして自然と結ばれる)
  • 『狩猟に生きる男たち・女たち (狩る、食う、そして自然と結ばれる)』
    高桑 信一
    つり人社
    1,980円(税込)
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 本日は事務の浜田がテレワークなので、9時前に出社。別冊の企画について思うままにノートの書き出す。

 沢野ひとしさんから電話がかかってきて、「杉江くんはさあ、どういう人間をダメ男だと思う?」と訊かれる。まさか「沢野さんです」と答えるわけにもいかず、そのまま1時間ほど沢野さんとダメ男について語り合う。

 電話を切ったあとぼんやりと沢野さんと電話している自分というものを振り返る。10代後半に沢野さんや椎名さんや目黒さんや木村さんのそれぞれの著作に出会い、憧れた、その人達と、今こうして話ができるところにいるというのは、まさに人生の僥倖なのではないか。ここのところないものばかりに目がいきがちだったが、手にしているものを改めて見つめ直したほうが幸せになれる気がする。

 本日の電話当番として出社してきていた編集の高野が、月曜日に入れ替えた最新鋭のコピー機の機能に感動している隙に営業にでかける。でかけたところでG出版社のA社長とばっかり遭遇し、ランチをともにする。自宅地下に書斎をもつA社長は、今年に入って、川崎長太郎自選全集を読み終え、現在は耕治人全集を読んでいるとのこと。なんて豊かな読書生活なんだろうか。

 発売を心待ちにしていた高桑信一『狩猟に生きる男たち・女たち』(つり人社)を買って帰る。泊りがけでドイツ語技能検定試験を受けにいっていた娘も無事帰宅。

3月24日(水)

 先週は心を踏み躙られるというか、足裏に剣山をつけてストンピングされるほど心を粉々のぐちゃぐちゃにされることがあった。

 しかしまあもう49歳だし、そういうことくらい口笛吹いて飄々としていられるかと思っていたのだけれど、気づけば悔しくて涙があふれ出てきて、改めて自分は心を大切にして生きてきたのだと気づかされたのであった。

 1週間経ってもぼろぼろぐしゃぐしゃにされた心は回復することなく、まさに心ここにあらずで日々を過ごしている。

3月15日(月)

  • 十五匹の犬 (はじめて出逢う世界のおはなし カナダ編)
  • 『十五匹の犬 (はじめて出逢う世界のおはなし カナダ編)』
    Alexis,Andr´e,アレクシス,アンドレ,瑞人, 金原,亜希子, 田中
    東宣出版
    2,090円(税込)
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    honto

 東京及び埼玉のコロナ新規感染者はまた少しずつ増えており、気の抜けない状況なのだが、電車はコロナ前の8割程度の混みようで安定してしまっている。

 そんな中で読むのはあまりに不釣り合いな『羆撃ち久保俊治 狩猟教書』(山と渓谷社)を読みながら8時半に出社。

 かの名作『羆撃ち』(小学館文庫)を書いた猟師・久保俊治氏のこれまでの狩猟で培ったノウハウがあますことなく詰められた一冊なのだけれど、読み物としても大変優れており、頭と心はすっかり北海道の大自然の中で、熊やシカといった動物たちと対峙している気分。コロナのことも、昨日わが浦和レッズが横浜Fマリノスにコテンパンにされたこともすっかり忘れて没頭し、神田駅まで乗り過ごしてしまう。

 本日は社員各自諸々切羽詰まっているらしく、事務の浜田、経理の小林、編集の松村と続々と出社してくる。私も切羽詰まりながら今夏発売予定の単行本2冊の原稿を読み進む。六本木のブックファーストさんが閉店されると封書が届く。がーん。

 ここのところ昼に、朝にぎったおにぎりを持ってきて食べている。そうするとお金がまったく減らないことに気づく。

 当初、お金を使わないことはいいことのように思えていたのだけれど、なんだかそうなるとお金を使うことにやけに敏感となり、週に一度外食ランチデーに食べる650円のラーメンや750円の唐揚げ定食がその対価に値する味だったのかなどと小賢しいことを食後に考えるようになってしまった。

 それどころか外食でお金が減らなければその分、本がたくさん買えると考えていたものの、やはりここでも妙にケチくさくなっており、本屋さんで本を手にして長考することが増え、持ち時間がカウントダウンされる中、本日も古本屋さんの均一棚で見かけた200円の文庫一冊すら買えずに棚に戻したのだった。

 お金が貯まることは一見幸福のように思えていたのだが、どうもそうではないらしい。

 午後、本屋大賞発表会の下見。今年は例年使用している明治記念館が改修工事を行っているのとコロナ感染防止対策としてマスコミ向け発表会となるため、場所を出版クラブに移しての開催。出版クラブは神楽坂から神保町に移転しており、会社から歩いて5分とかからず至極便利。

 思えば第1回、第2回の本屋大賞は移転前の出版クラブで開催したわけで、移転しているとはいえ16年ぶりの帰郷となり感慨深いものがある。

 その後、営業。ジュンク堂書店池袋本店のKさんよりアンドレ・アレクシス『十五匹の犬』(東宣出版)をおすすめいただく。その代わりに私は砂原浩太朗『高瀬庄左衛門御留書』(講談社)をおすすめする。そういえば書店員さんと交わすこういう会話を私はもっとも楽しみにしていたのだ。それこそが本屋大賞の原点なのだった。

3月3日(水)

 初めてアルバイトしたのは小学生のときで、それは父親の町工場だった。父親が独立して数年が過ぎたころで、急に忙しくなったもののきちんと人を雇うわけにもいかず、夏休みで暇そうにしてる息子に声をかけてきたのだった。行きは父親と電車とバスを乗り継いで会社に行き、帰りは一人で帰った。

 まかされた仕事はプラスチックの部品にボール盤で穴を開けることだった。段ボールいっぱいの部品を手にしてはハンドルを下げ、高速で回るドリルを当てていく。出来上がったものはすぐ次の作業をしている職人さんが持っていき、また別の部品が取り付けられ、その向こうにも別の職人さんが並ぶ。そうして6人の人の手を渡って部品は製品となる。少しでも自分のところで時間がかかってしまうと他の人の手を休ませてしまうことになる。

 焦った。焦っていると50個に1個くらい穴を開けているうちにプラスチックが割れてしまう。作業を始める前に父親からうまくいかなかったのはこの袋に入れろと言われていたけれど、このかけたプラスチックもお金を出して作っていることは小学生にもわかった。

 どうにかして不良品を出さずに上手く穴を開ける方法はないか。抑える手の力加減、ドリルの向かう方向、ハンドルを下ろすスピード、それぞれ何度も何度も調整して作業しているうちに一日はあっという間に終わった。終わる頃には割れるプラスチックは100個に1個くらいに減っていた。壊れてしまった部品の袋を恐々職人さんに渡すと、「不良品これだけか?」と言われ、それに小さく頷くと職人さんは頑張ったなと微笑んでくれた。

 その仕事はどうにか納期に間に合い、僕のアルバイトは三日で終わった。父親からは小遣いよりずっと多いお金を、ちゃんと給料袋と書かれた封筒で渡された。

 家に帰ると先に帰っていた母親が笑いながら話し出した。「あんたさ、毎日夢中になって一言もしゃべらず穴開けてたでしょう。だから社員の人たちあんたのこと口の聞けない子供だと思ってたんだって。すごい一生懸命仕事するなって感心されてたわよ」

 実はこのとき僕と一緒に従兄弟の中学生のお兄ちゃんも来ていたのだけれどお兄ちゃんは組み付け作業の間にウォークマンを聞いていてしょっちゅうラインを止めていたのだ。職人さんたちはその子はもう呼ばないでくれと父親に言っていたらしい。

 僕の仕事の原点は、たぶんここだ。

 一生懸命やれば必ず誰かが見ていてくれる。逆に手を抜けばそれも必ず見られてる。人は怖い。でも人は一生懸命やってる人には優しい。そしてどんな単調な作業も工夫することで楽しくなる。

 その原点を思い出すため、ここ数年、春になると西荻窪・今野書店さんの教科書販売の手伝いに行っている。学生のアルバイトさんたちと重い教科書を運び、生徒の数に合うようたくさんの教科書をセット組みしていく。
 
 作業初日に今野さんの奥様で、日々店頭に立つ聖奈子さんが言っていた。

「教科書販売の仕事は、絶対就職したときに活きると思うのよ。例えば、はじめに本を5冊ずつ積んでおくと間違いにすぐ気づける。そうしたら最初からやり直さなくて済む。面倒くさがらずにきちんと準備する。何事も段取りが大事。神は細部に宿るのよね」

 今日でお手伝い2日目。小学生のときの自分のように夢中になって頑張る。

3月1日(月)

 とてつもないものを読んでしまった。国分拓『ガリンペイロ』(新潮社)。

 前作『ノモレ』のときも思ったけれど、国分拓氏はノンフィクションライティングの新たな地平にたどり着いたのではないか。そこは沢木耕太郎も開高健もたどり着けなかったノンフィクションによる文学だ。『ガリンペイロ』は文学としても極上の部類の傑作である。

 アマゾンの奥地、「勝手に森に分け入り、勝手に穴を掘り、勝手に精錬して莫大な富を得ている非合法の金鉱山、闇の金鉱山」で働く人々(ガリンペイロ)は、それはそれは過酷な労働者である。

「陽が昇ってから沈むまで、ずっと同じことの繰り返しだ。穴を削る奴はずっと削り続ける。ホースで土砂を汲み上がる者はずっと汲み上げる。一日十二時間以上立ちっぱなしだから、足はずぶ濡れ、顔は泥だらけになる。」

 それだけクタクタになって働き、ほとんど露天のようなところで暮らし、日々変わらぬ質素な食事だけで過ごして手に入れられるのは、採れた金次第なのだ。何日働いても金が採れなければそれまでの苦労は水の泡になってしまう。しかも当たり前だがそう簡単に大きな金が手に入るわけではない。

それでも様々な事情で絶望の淵に立たされた人間たちが、一発逆転の夢を見て黄金の穴に吸い寄せられてくる。その人間の、絶望と希望、欲望と虚無、生と死、が研ぎ澄まされた文章で描かれる。

 読み終えてしばし立ち上がることができなかった。ぼんやり天井を眺め、地球の裏側に今も穴を掘っているであろうガリンペイロを思う。私とガリンペイロ、どっちが生きているといえるのか。

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