« 2022年3月 | 2022年4月 | 2022年6月 »

4月28日(木)

 内澤旬子さんの『カヨと私』の装幀をお願いしている松本孝一さんのところへ色校をお届けす。合わせて、その次の本の本文組の相談など。Jリーガーの次に今、最も憧れる職業である装丁家の方とお話するのはとても楽しい。


★★★★★★★

「本屋大賞ができるまで」(13)

【茶木則雄(当時:ときわ書房本店、現在:書評家)の回想】

 本屋大賞立ち上げのための会議に参加するにあたって、私はあらかじめ二つのことを心に決めていた。

 ひとつは、一回目の会議で必ず決着をつけること。

 そもそも書店員は(想像以上に)忙しいうえ、シフトの関係で日程を調整するのが難しい。皆さん優秀で一家言ある人達が集まった多人数の会議は、会を重ねれば重ねるほど、収拾がつかなくなる虞がある。だから最初から一発勝負で、と考えていた。

 二つ目は、選考過程の透明化、公正化をどう担保するかだ。単なる人気投票に終わっては、「これこそ書店員の選ぶ今年一番面白い本だ」という賞の創設意義が問われかねない。

 そこで、議題が具体的な選考過程に及んだとき、私はかねて用意した腹案を提示した。

 候補作は全国の書店員のアンケートで10作程度に絞り、最終選考においては参加者全員が候補作をすべて読んだうえで投票する。全部読んでいない人は投票に参加できない。というものだ。さらに、読んだという証明のため、参加者は10作すべてにコメントをつける。と、そこまで踏み込んだ。

 当然、反対意見が様々あった。

 曰く、候補作が出そろい最終投票までの一か月程度で、忙しい書店員が10冊すべて読むことは不可能だ。

 曰く、それを強制しては、参加者が極端に限られてしまう懸念がある。

 曰く、読んだという証明を求めるのは失礼ではないか。

 そんな感じの意見であったと記憶している。

 おっしゃることは、すべてごもっともである。現場の忙しさは私も長年経験して痛感している。こういう厳しい基準を設けると参加者が減る可能性が大いにある。また、読んだかどうかの証明に至っては、失礼極まりない。

 しかし、公正性と透明性を担保するにはこれしかない、と思っていた。

 予想された通り、議論は紛糾した。厳しい口調での文言も飛び交った、と記憶している。

 その度に、為せば成る、という意味のことを私は発言した。ときに、為さねば成らぬなにごとも、という意味のことを口走った、ような気もする。ついには、成らぬは人の為さぬなりけり、と机を叩いたような気が、しないでもない。

 いまや「昨日なに食べた」と訊かれても困惑する私である。20年前の記憶が曖昧なのは致し方ないところだろう。

 とまれ、激しい議論の行方を眺めながら、「これは成功したな」と内心ほくそ笑んだ。

 意見の相違はあっても、全員が前を向き、新しいものを自分たちの手で作り出そうという、熱意に満ち溢れていたからだ。

 細かな修正はあったが、最終的に、私の提案したフレームが落としどころになった。アメリカの陪審員裁判と同じように、全員一致の評決であった。

 と、あやふやな記憶で書き綴ってきたが、ひとつだけ鮮明に覚えていることがある。

 その後の打ち上げ席だ。ここは幕末の松下村塾か適塾か、というほどの気概と熱気の中で飲む酒が、すこぶる旨かったことは、いまでも脳裏に焼き付いている。

4月27日(水)

  • 「毎日の部活が高校生活一番の宝物」 堀越高校サッカー部のボトムアップ物語
  • 『「毎日の部活が高校生活一番の宝物」 堀越高校サッカー部のボトムアップ物語』
    加部 究
    竹書房
    1,760円(税込)
  • 商品を購入する
    Amazon
    HonyaClub
    HMV&BOOKS
    honto

 晴れ。夏のよう。9時に出社。

 午前中デスクワークの後、1時に7月号ルポルタージュ特集のインタビューのため、丸善丸の内本店の「M&C Cafe」へ。1時間半みっちりお話を聞く。堪能。

 15時会社に戻り、お腹が減ったので久しぶりにうどんの「丸香」へ。行列は10人程度。5分ほどで入店でき、大きくぶ厚いお揚げがたまらぬきつねうどんを食す。うどんもちもち、汁は香り高く何度食べても美味しい。

 16時より社内にて7月号ルポルタージュ特集の対談。こちらも1時間半みっちりのお話で堪能。

 対談者と食事に行く浜本と新人前田の背中を見送りつつ、ACLグループステージ、セーラーズ戦をDAZNで観るため急いで帰宅。6対0の大勝利に久しぶりにスッキリ。

 いい気分のなか、今日買ってきた加部究『毎日の部活が高校生活一番の宝物 堀越高校サッカー部のボトムアップ物語』(竹書房)を読む。
 

★★★★★★★

「本屋大賞ができるまで」(12)

【林香公子さんの回想】

 第一回目の会議の頃、何を考えていたか、ということで思い出してみたのですが、売場で自分が出来ることは精一杯やってるつもりだったので他の人が売ってる本はどうして売れてるのか知りたかった。

 売れると思ったポイントはどこなのか、私が気づいてないいいところを理解し、アピールすれば自分の店であんまり売れないこの本はもっと売れるんじゃないか? もちろん、大成功例は出版社さんより教えて頂いたり、なんなら複製ポップをいただいたりしていましたが、そこまでじゃない話を知りたいものよねー。

 といったことや、個人の好き嫌いや善し悪しといったセンシティブさに触れる話じゃなくてもっと仕事の面白みとしての本とその中身の話をする場が選ばれし者しか集えない会合や飲み会とかじゃなくて希望したら誰でも参加できる形であったら素敵じゃないかとか、だったかと思います。

 そんな気持ちだったので、他の人に売りたい本について聞けるんなら無理に順位はつけなくてもいいと思ってましたが順位がないことには人を動かす形にはならないというのもそりゃもっともな話でして。会議が進むにつれての後戻りできない感に面白いとは思うけどどうしよう? と青ざめる気持ちも若干。

 とはいえ、まぁミーハー心だけで本屋に入り、右も左もわからないのをいいことに直木賞が受賞作なしだなんてその分の売上どうやって作れというのか、だの重版のタイミングがどーのこーの、などとそれまで好き勝手を言ってたことに対し、ここらで、役に立つ行動の一つもとってみろ、と突きつけられてたわけですから。

 今まで何も考えずに口を開いててすいませんでした、と心の中であやまりつつ自分らで決める以上、不満なんかないようにしなきゃ、ってな、やけくそパワーがすごかったんだよな、確か。

4月26日(火)

 晴れ時々雨。9時半出社。

 内澤旬子さんの新作『カヨと私』のイラスト部分の色校が出てきたので、しばし眺める。二色刷りで印刷されたヤギたちが、美しく、そしてかわいい。内澤さんとデザイナーの松本さんのスケジュールを調整しつつ、チェックの日取りを決める。

 午後、高野ひろしさんのやっている「ペンギン堂雑貨店」へ初訪問。ベンギングッズのコレクターだと思っていたら、いやはやこんな立派なお店を構えていらしたとは。ペンギンの話はもちろん、本業であるガラス屋さんの話、そして代々住み暮らしている東京の話を伺う。

 夜、ご無沙汰していた書店員さんからメールが届く。内容は、早見和真の『八月の母』(KDOKAWA)がどれだけ面白かったかということで、実はその書店員さんから『イノセント・デイズ』を激推しされ、私は早見和真を読み始めたのだった。それが時間が経ってまたこうして新作の話で再会でき、こんなうれしいことはない。本の持つひとつの力だ。


★★★★★★★

「本屋大賞ができるまで」(11)

【藤坂康司(当時:丸善お茶の水店、現在:名古屋市志段味(しだみ)図書館館長)】

 1980年代後半広島のフタバ図書で働いていたころ、当時は珍しかった、会社の垣根を超えた書店員同士の飲み会をしてました。啓文社の児玉さんを誘ってわざわざ尾道から広島まで来てもらったこともありました。

 その後丸善に転職してからは福岡、京都、名古屋でその町の書店員さんたちの飲み会に参加してました。お茶の水の丸善に異動したときも、おなじように「面白い=すごい」書店員さんを古幡さんに紹介してもらおうとおもったわけです。

 その飲み会のあと、何日かたってからお店に杉江さんから電話があって、「書店員さんたちのつくる賞をつくろうと思うので、藤坂さんも参加しないか?」と誘ってもらいました。が、実は半年後に丸善を退職し書店員でなくなることが決まっていたので、そのことを杉江さんにだけお話して、半年間だけお手伝いをすることになりました。

 博報堂さんでの会議に何回出席したか記憶が定かではありませんが、新しい賞の名前を「本屋大賞」とすることと、投票をインターネット経由とすること、書店員である証拠として取次の番線と書店コードを記入してもらうこと、発表のときに店頭に受賞作がならぶこと、とか決めたことを覚えています。茶木さんが「打倒直木賞」とか話されてたと思いますが、個人的にはそういう過激な表現はやめてほしいなあと思ってました。

 あと、書店員が投票で決める賞にどういう本が選ばれるのだろうかと、まったく想像できなかったこと。どんな本が大賞になっても、その横に書店員の「私の本屋大賞」本を並べて売ってほしいなと思っていました。

 そして、一番強く思ったのは、この賞の話がもっと早い時期に立ち上がっていて、お誘いがあったら、転職しなかっただろうなということです。

 結局半年後に偕成社に転職し、退職するまで一度も本屋大賞にはスタッフとして参加することはありませんでした。

 退職後、図書館員になったとき、本屋大賞実行委員に復帰しないかと声をかけられたのは嬉しかったです。16年ぶりの復帰でした。

4月25日(月)

 晴天。昨日のinterFM「Barakan Beat」で出てることを知ったライ・クーダーとタジ・マハールの『Get on Board」を聴きながら、9時に出社。

 9時半よりZoomにて本屋大賞の反省会。11時より北上次郎さんとZoomにて「北上ラジオ」収録。Zoomありがたし。

 5月8日で建て替えのため一時閉店となる三省堂書店神保町本店さんに「いったん、しおりを挟みます」という秀逸なコピーのバナーが掲示される。

 自分にとって三省堂書店神保町本店は営業の面白さを教えてくれた原点であり、ここのメディカルブックセンターにて私の営業マン人生ははじまったのだった。

 当時御茶ノ水の駅前にあったクインテッセンス出版という歯科学を専門とする出版社に、22歳のまったく別種の専門学校を卒業し毎日パチスロをしていた馬の骨である私が奇跡のように採用となった。ただし憧れていた出版業とはいえ、それは目標だった編集ではなく、営業という最も忌み嫌っていた職種に就くにいたったのだった。

 忌み嫌おうがなんだろうが、拾っていただいた馬の骨である私は一生懸命働かねければならないと、担当として渡された書店や大学生協を廻ることになるのだが、その中で、特に最も歯学書のみならず医学書を興味を持ち夢中になって売っていたのが、この三省堂書店神保町本店のメディカルブックセンターだったのである。

 正直いえば私は自分が売っているものがなんだかわからなかった。またどれくらいそれが読者のためになるものなのかも理解できていなかったのだけれど、ここメディカルブックセンターに通ううちにそんなことではダメだと気づいた。メディカルブックセンターのMさんやHさんにきちんと話せるような人間になりたいと願い、少しずつ少しずつ自社の本に興味が持てるようになり、編集の人に内容を聞いたり、学会で耳をそばだてるようになっていったのだった。

 そうしていつの間にか信頼とまではいかないけれど、おもしろいやつくらいに思っていただけるようになり、メディカルブックセンターにて大々的にクインテッセンス出版の全点を置いたフェアをしていただいたのだった。それにはもちろん営業部の部長やら課長の協力も得て、図書カードかなにやらの特典も用意し、会社としても若い営業がなんだか夢中になってやってるからいっちょ少しやらせてみるかみたいな雰囲気になり、そうしてお前の好きなようにやってみろと初めて任された大きな仕事だったのである。

 今となっては売り上げがどれくらいだったのかとか本当に貢献できたのかわからないけれど、とにかく僕はそのときはじめて営業って面白いかもと思い、その後、28年営業を続けることになり、どうにか馬の骨から出版営業マンとなれたのであった。

長谷川晶一『中野ブロードウェイ物語』(亜紀書房)
本並俊司『マイホーム山谷』(小学館)

 を買って帰る。


★★★★★★★

「本屋大賞ができるまで」(10)

【白川浩介(当時:オリオン書房ノルテ店、現在:リブロプラス商品部)の回想】

 本の売上を生活の方便とする身からすれば不遜な話ではありますが、書店員になる前は平台一等地を占める「ベストセラー」には興味がなく、書店の利用法といえば自分の興味関心のある本を書棚で探すだけでした。書店員になって仕事として「ベストセラー」の重要度を認知するようになったものの、たまたま勤務する書店が、そばに圧倒的な集客力を誇る駅ビル内にある競合店(幸いなことに自社)があることを良いことに、その店との差別化を図る意味でもベストセラー以外の売上を稼ぐというスタンスの店だったので、仕事としても相変わらずベストセラーを追いかけるより地味に売上が上がる銘柄を見つけてチビチビ売って一人でニヤけているような男でした。

 とはいえ、杉江さんから賞の創設のミーティング参加のお誘いメールをいただいた時は、なんか面白いことが始まる!とわくわくしたのをよく覚えております。わくわくしつつも、第一回目の会議の時から「ベストセラー創生」には後ろ向きで、「1冊を選ぶんじゃなくて複数冊で、フェア展開でも......」などと言って同業の先輩(茶木さん? 藤坂さん?)から怒られた記憶があります。今から思えば甘ちゃんです。

 話し合いを重ねるうちにこの活動にのめりこんでいく訳ですが、(自画自賛にもなりますが)中野さんも書いておられます通り集まったメンバーが本当に建設的かつ頭の回転と手が早く、物事がどんどん決まっていくこと、そしてこれまで知り合うすべもなかった広告業界の方と真剣にお仕事の話が出来たこと、そして、出版社や取次の方たちと、お互いの立場を想像し敬意を抱きつつも妙な立場バイアス(取引先と被取引先)抜きの対等な立場で真剣にお話できたことが大きなモチベーションになりました。

 本屋の店頭からベストセラーを作る、となると、自分の店単位の発想しかできなかった(何部仕入れて、××の売り場にフェイスはこれぐらいで積んで、手書きのPOPとパネルと...といった、規模は小さくても大事な事を積み上げていく方法)のですが、他業種の方の、最初から完成した大きな絵を描いて、現実とのギャップを知恵と工夫で埋めていくという手法も大いに学ばされ、刺激になりました。毎回のミーティングのたびに新たな発見と見識が得られた、幸せな時代でした。

4月22日(金)

「磯マーケットフェス」の準備でやって来られた宮田珠己さんに諸々お預かりしていたグッズをお返しす。「磯マーケットフェス」というのは海の文化祭だそうで、5月3日、4日に「アーツ千代田3331・B104」で開催されるらしい。入場には事前予約が必要なそうなので、こちらよりどうぞ。

 午後、追加注文いただいた大竹聡『ずぶ六の四季』を丸善丸の内本店さんに納品する。


★★★★★★★

「本屋大賞ができるまで」(9)


【高頭佐和子(当時;青山ブックセンター本店、現在:丸善丸の内本店)の回想】

 あの頃の私は追い詰められていました。本屋の仕事は好きだ。続けたい。しかし本はどんどん売れなくなっている。会社は下っ端の私にもわかるレベルに経営難。どんどん人が辞めていく。自分も脱出すべき? しかしうまく逃げたとしても、無資格無能でか弱い私が、この先他の職業でやっていけるのか。まあ、そんな感じです。

 そこで私がたどり着いたのは、「もっと本が売れれば良い」というシンプルな考えでした。本は面白い。それは間違いないので、そのことをみんなが知ってくれれば、ガンガン売れて将来不安からも解放されるはず、と思ったんですよね。

 今当時の私に言ってやりたいのは「あんたって頭の中花畑?」ってことなんだけど、ブーブー文句だけ言ってるより、書店員として売り場でやってることを、みんなで協力してもっと大きな何かにできたら面白いじゃんっていう考えは間違いではなかった気がします。

 どこかの出版社の会合の時にトイレで化粧直しをしながら、ブックファーストの林さんと「書店員のみんなで賞みたいなの、できたらいいね」という思いつきを話して、その後杉江さんに『本の雑誌』で1ページなんかやらせてよ、みたいな話をしました。しばらくして杉江さんから「例の話やろうと思うので、会議に来てください」と言われたものの、なぜ博報堂みたいなちゃんとした会社で華やかな仕事をしている人たちが、狭い売り場で本を売ってる地味な人間たちと何かやろうとしているのか、よくわからないままに参加したんですよ。

 飲み会の延長のような会議でしたが、全員が自分の考えや経験、疑問を遠慮なくストレートに出してきました。何も決まっていないところから、書店員なら誰でも投票に参加できるというたくさんの人を巻き込むシステムにみんなの気持ちがまとまったのは、そこにいた全員が「なんとかしたい」と言う気持ちを持っていたからなのではないでしょうか。日々店頭で感じている「こんなに面白いから、もっとたくさんの人に手に取ってもらいたいなあ」という気持ちを、「売りたい」というシンプルな言葉にして入れられたのも良かったと思います。

「本屋大賞」ってホワイトボードに書いたのは、誰だったかなあ。私だったような気もします。書店員大賞とか本屋さん大賞とかいろんな案が出た記憶がありますが、私としては「本屋」っていうのが一番しっくりくるんですよ。年配の方から赤ちゃんまで気軽に立ち寄れる親しみやすいイメージですよね。なのでめちゃめちゃ嬉しかったです。

 その後いろいろ大変なことがあり、本屋を辞めるチャンスは何回もやってきました。あの会議がなかったら、違う人生を歩んでたかもしれないなあ、と時々思います。

4月21日(木)

 9時30分に出社。午前中はJPRO等への入力作業に勤しむ。途中、「週刊文春」を買いに行く。大竹聡『ずぶ六の四季』の書評が掲載されている。評者はなんとなぎら健壱さん。涙がでるほどうれしい。

 昼。本日は週に一度の外食デイ。ふらふらと神保町をランチ放浪していると、吸い寄せられるように「ライスカレーのまんてん」の行列に並んでいる。10分ほど待って、カツカレーをオーダー。結果、晩ごはんも不要となる。

 午後は一心不乱に注文書2枚と書店さん向けDMを作る。

★★★★★★★

「本屋大賞ができるまで」(8)

 これから本屋大賞実行委員会の第一回目の会議の話を書こうと思うのだけれど、まずはじめに記しておきたいことがある。

 それは本屋大賞の仕組みを作った一番の功労者は、これは誰がなんと言おうと(誰もなんとも言わないと思うけれど)、ときわ書房本店(当時)の茶木則雄さんなのである。

 茶木さんが実行委員に居なかったら本屋大賞はできなかった。いや「本屋大賞」はできたかもしれないけれど、今のような本屋大賞は絶対に生まれなかった。書店員として稀有な経験を持つ茶木さんという存在がなければ本屋大賞はできなかったのだ。

 2003年6月5日、神田錦町の博報堂第二別館に集まったみんなの前に嶋さんが作った企画書が配られた。これを叩き台として議論を進めましょうということになったのだが、茶木さんは猛然と意見を主張した。

 対直木賞としての書店員が選ぶ新たな文学賞を作る。直木賞に対抗するなら公明正大でなければならない。密室で選考委員が決めるのではなく、書店員なら誰でも参加でき、結果もガラス張りにして発表すること。文学賞であるからには単なる人気投票ではいけない。

 茶木さんがそこまで「打倒直木賞」にこだわったのは、ミステリー評論家としても活躍していたからかもしれない。ちょうどその年に起きた横山秀夫『半落ち』に対する直木賞選考委員の評価と選評への怒りがあったのかもと思う。あるいはこれまで与えるべきと思われる本に与えられてこなかった不満が溜まっていたのだ。

 ただしそうは言ってもどの実行委員も茶木さんの意見をそのまま受け入れたわけではなかった。

 まず一冊の本を選ぶということにオリオン書房ノルテ店の白川さんが首を傾げて反対意見を述べた。書店員が本を選ぶというのはおこがましいのではないかと。もちろん全ての本を平等に扱うことはできないけれど、たった一冊の本を全国の書店でブッシュするのは違和感を覚える、1冊選ぶのではなく30冊くらいのフェアにしてはどうかと提案した。

 ブックファースト渋谷店の林さんや青山ブックセンター本店の高頭さんもその意見に頷いたけれど、丸善お茶の水店の藤坂さんが諭すように答える。30冊のフェアはもうすでにそれぞれのお店でやっている、それで今の状況ならばこれまでやったことのないことをやらないといけないと。

 その賞はすべてのジャンルの本を対象にするのか、あるいは小説だけなのか。小説だけならば外国文学も同列に評価をするのか。疑問が浮かんだら誰もが立場や年齢や経験に関係なく率直に意見を述べた。それに対してまた別の視点で誰かが話す。その繰り返しが続いた。思い当たるたくさんのことが話し合われ、大賞作品を一冊選ぶ文学賞としての本屋大賞がかたち作られていった。

 まず、この一年に出た国内小説の中でおすすめしたいものを三冊投票してもらう。それには一位、二位、三位と順位をつける。順位に即して点数が付随されている。その点数換算はどうするか。一位はこれだという想いが強くあるから、二位と三位よりも大きめの点が必要だなどと議論が展開され、それまで黙って聞いていたBDIの秋山さんが、日本カー・オブ・ザ・イヤーの採点方法(持ち点制)などを提案したりもした。

 一回の投票では単なる人気投票となってしまうということで、一次投票の上位作品をノミネート作とし、それを全部読んで二次投票をすることになったのだが、そのノミネート作を何作にするのかというのも激しい議論となった。

 10冊というのが茶木さんの提案だったが、高頭さんが難色を示した。自分だってそうだが多くの書店員は薄給であり、誰でも投票できるというならば、アルバイトで働いている人に最大10冊も本を買わせるのは負担が大き過ぎるのではと。

 しかし、茶木さんはここでも折れることはなかった。これは文学賞なんだからそれくらいの覚悟をもって参加してほしい。おれは20冊でもいいと思っているくらいだと檄を飛ばした。

 様々なことを茶木さんが提案し、みんなで議論していった。なぜ茶木さんにそれができたのかといえば、茶木さんには「このミス」を作った経験があったからだ。

 阿佐ヶ谷の書楽でアルバイトを始めた茶木さんは、八千代台の良文堂書店で経験を積んだのち、神楽坂の入り口にミステリ専門書店「深夜プラス1」を1986年にオープンさせた。またそれと並行して、ミステリー評論家としての地位も確立し、数々の書評や解説を執筆していた。

 ミステリー好きの人たちや出版業界の人たちが茶木さんの周りに集まるようになっていた。茶木さんはそういう人たちとともに第一水曜日に集まる飲み会「一水会」を結成し、ミステリーや出版業界の話を肴に酒を飲んでいた。

 そんな中から毎年末、「週刊文春」で発表されるミステリーランキングへの不満がたまり、「このミス」が作られたのだった。それは本屋大賞ができる15年も前のことだ。

 今回、この原稿を書くに際して、この辺りの経緯を茶木さんに確認すると以下のような返信が届いた。これは本屋大賞の本筋とは異なるけれど、ひとつの文芸のイベントの貴重な記録となるため、ここに転載しておく。

「まず、「週刊文春ミステリーベストテン」に対する不満があった。毎年のように江戸川乱歩賞受賞作が一位になるのはおかしいではないか。

 当時、文春のミステリーベストテンは日本推理作家協会員へのアンケートで決められていて(現在は「このミス」同様に、書評家や書店員、取次の人なども参加)その結果、協会員に最も読まれているであろう(江戸川乱歩賞は日本推理作家協会主催)、その年の乱歩賞受賞作が一位にきていた。

 つまりは、作品の評価ではなく、読まれた数によって順位が決まっていたといっても過言ではない、と思っています。

 そもそも作家は書き手のプロであって、読み手のプロとは言い難い。そんな背景があり、それなら、読み手のプロとミステリー愛好家で真のベストテンを選ぼうではないか、と。

 ちなみに、一水会では一水会通信という小冊子を制作していて(深夜プラス1の独占販売(笑))その別冊として、人脈を頼り書評家や大学のミステリー研究会に声掛けしてベントテンを選ぶつもりでした。

 これをたまたま、会員である宝島の石倉氏が会社の企画としてあげたところ、その企画が通り、宝島社から出版することになった。というのが「このミス」ができる経緯ですね。」

 茶木さんは文芸のイベントを考えるのは経験済だったのである。そして「このミス」に続いて「本屋大賞」を作った茶木さんの文芸書売り場での功績は、計り知れないのであった。

 三時間を超えた会議は、最後にこの賞の名前を決めることに議論が移っていった、

 会議室の脇に置いてあったホワイトボードに嶋さんがいくつかの候補を書き記す。

 ブックショップアワード
 書店大賞
 本屋さん大賞

 そこにサブコピーの候補も記される。「全国書店員が選んだいちばん!おもしろい本」と。

 高頭さんがすくっと席を立ち、ホワイトボードに歩み寄る。

「私たち書店員は、本を読むプロではないから「おもしろい」と評価することはできません。その代わり、私たちは本を売るプロです。だから、ここは...と言って、「おもしろい」を消して、「売りたい」と書き換えた。

 そして自らに呼称を付けるのはおかしいでしょうと言って、「さん」を消した。

 ホワイトボードに残ったのは、「全国書店員が選んだいちばん!売りたい本 本屋大賞」という文字だった。

4月19日(火)

 晴れ後雨(夜)。

 御茶ノ水のソラシティで開催されている古本市を覗くが、蔵書整理ユニット「本の雑誌スッキリ隊」のスッキリグリーンこと岡島さんの姿は見つからず。残念無念。

 御茶ノ水の丸善さんでフェアのお話を聞いた後、中井の伊野尾書店さんに追加注文いただいた「本の雑誌」5月号を直納。

(7)

 もしタイムマシンが開発されたらぼくはあの日の会議の時間に戻って、音声レコーダーかビデオカメラを設置しておくことだろう。

 2003年6月5日に開催された本屋大賞実行委員会の記念すべき一回目の会議は、のちに中野さんが「書店員さんたちがほんとにモチベーション高くて、意見が建設的で、終わったあとふだんの社内会議もこういう人たちだったらもっと前に進むのになあ」とこぼしたほど白熱した議論が取り交わされ、また古幡さんが「長かった、あの会議」と苦笑いを浮かべるほど、長時間に渡る会議だった。

 仕事を終えた夜7時前、神田錦町にある博報堂第二別館と呼ばれる建物に、のちに本屋大賞実行委員会となるメンバーが三々五々集まった。入口にある守衛室で名前を記し、会議室のある三階へ階段で上がっていく。階段の手すりはまさしく歴史的建築物を思わせる堅牢なものだった。

 そこに集まったのは書店員さん5人、博報堂の中野さんと嶋さん、それに中野さんの上司や部下、BDI(現在ユーピー)の志藤さんに、志藤さんの上司の秋山さん、楽天ブックスの出向から日本出版販売に戻った古幡さん、そして浜本とぼく。

 まったくそれまで面識のなかった朝日新聞社の広告部の人たちもいた。中野さんが声をかけ、朝日新聞とも組んで何かできるのではと目論んでいたのだと思われる。どんな理由かわからないものの朝日新聞社の人が来たのは一回目の会議のときだけでその後やってくることはなかった。

 さて、ここから古幡さんが長かったと苦笑いを浮かべる会議を再現しようと思う。思うけれど残念ながら記録がない。記録がないので記憶で書くしかない。それが残念でならない。ぼくの人生であれほどエキサイティングした会議は他になく、中野さん同様すべての会議がこうして行われるのであれば、会議ほど楽しいものはこの世にないと思ったほどだ。

 僕の正面に5人の書店員さんが並んで座っていた。左から順にオリオン書房ノルテ店の白川浩介さん(31歳)、ブックファースト渋谷店の林香公子さん(29歳)、青山ブックセンター本店の高頭佐和子さん(31歳)、丸善御茶ノ水店の藤坂康司さん(44歳)、ときわ書房船橋本店の茶木則雄さん(46歳)だ。実行委員の呼びかけに即座に快諾してくれた人たちであり、みな毎日売り場に立つ書店員だった。

 第1回会議が行われた2003年というのは、それまで右肩上がりだった出版販売額が96年を頂点に減少し始め、6年が過ぎた頃だった。いっときの出版不況ではなく、このまま売上が下がり続けるのではと気付き出した頃でもあった。

 そんな中、気を吐いていたのが書店員による販促だった。その端緒となったのは、なんといっても書店員が書いた1枚の手書きPOPから大ベストセラーとなった津田沼のBOOKS昭和堂と『白い犬とワルツを』(テリー・ケイ/新潮文庫)の出来事だろう。

「本の雑誌」2001年9月号には「書店発、驚異のベスセラー」という記事が掲載されており、ちょっと長いがその時代の空気が伝わると思うので引用しようと思う。

「新潮文庫の『白い犬とワルツを』が全国各地でバカ売れしていることをご存知だろうか。新刊ではない。九八年三月に文庫化された、すでに発売から三年以上を経過した既刊本である。初版三万部。なんとこの本がここ二か月で十五万二千部!も増刷、累計二十万を突破したというのだ。いったい何が起きたのか。

 実は千葉県は津田沼の昭和堂という書店の木下さんという書店員がきっかけなのである。親本を読んで感動していた木下さんは、文庫化されてもあんまり動かない『白い犬』を見て、もっと売れるし売れるはずの本だと思い、この三月に、

〈妻をなくした老人の前にあらわれた白い犬。この犬の姿は老人にしか見えない。それが、他のひとたちにも見えるようになる場面は鳥肌ものです。何度読んでも肌が粟立ちます。〝感動の1冊〟プレゼントにもぴったりです!!〉

 という手書きポップを立て、文庫の棚前で平積みを開始。その途端、一日で五冊が売れるようになったかと思ったら、日が経つにつれてどんどん売れ行きが加速するものだから、店内の一等地でどかーんと十二面積みを展開。四月に百八十七冊売れて、すごいねえと言っていたのが、五月、六月にはなんと四百七十冊を売って、全書店でトップの販売数にしてしまったのだ。

 これを伝え聞いた新潮社も、おおっと驚いたのでしょう。さっそく木下さんの了承を得て、木下さんが作ったのと同じ文面のポップを手書きで作成、書店に配布して『白い犬』を強力プッシュ。その結果、全国の書店でどかどか売れているというのがことの真相なのである。

 つまり一書店の一書店員が全国規模のベストセラーを、それも三年前の文庫で、生み出してしまったのである。いや『白い犬とワルツを』は単行本が九五年に出ているから、邦訳以来、正確には六年目にして火がついたことになるのだ。いや、なんともすごい話ではないか。

「ベストセラー、話題作ではない本の中にも面白い本があるという棚作り、平積みをしている」と木下さんは言うが、まさかここまでいくとは想像していなかったんでしょう。「普通、売れる本というと、宣伝がすごいとか、あるいは映画化テレビ化といった外からの要因がありますけど、この本の場合、外の力を借りずに、純粋にうちの店の力だけで売れたというのが嬉しいですね」と喜びを隠さずに話すのである。書店発のベストセラーということで、新潮社営業部も浮かれ騒いでいるらしい。

 本が売れない売れないと嘆いてばかりが聞こえてくるが、嘆いてばかりでは始まらない。どこにベストセラーが眠ているかわからないのだ。全国の書店の皆さん、本を選ぶ目に自信を持って、どしどし仕掛けてみてはいかがか。たった一枚のポップと平積みにするだけで、次のベストセラーを生み出すのはアナタかもしれないのだ!」

『白い犬とワルツを』はその後二十万部どころか百万部を軽く超える大ベストセラーになっていったのだった。

「本の雑誌」の呼びかけに応じたわけではないが、当時の「本の雑誌」を紐解くと、毎月のように書店発の取り組みが紹介されている。

●本邦初!?の人間ポップを発見(青山ブックセンター六本木店間室道子さんが名札の代わりにポップを胸につける)=2002年4月号
●第二の「白い犬」が渋谷にいた!?(山下書店渋谷南口店による遠藤周作『わたしが・棄てた・女」の多面展開)=2002年4月号
●裏百冊の夏はただいま開催中(パルコブックセンター吉祥寺店によるオリジナル夏百フェアの紹介)=2002年9月号
●来年の夏は「裏百」で対決しよう!(ブックファースト京都店での「夏の文庫、裏百選。フェアの紹介」)=2002年10月号
●ハチクロ応援団「自腹'S」登場!(山下書店本店の永嶋恵理子さんを団長に書店横断で『ハチミツとクロバー』を販促)=2003年4月号
●書店員の時代(扶桑社ミステリーフェア冊子「全国名物書店人が贈る12の傑作」フェア及び文教堂書店の「書店発!ベストセラー創造プロジェクト」の紹介)=2003年5月号
●第三回のチャンピオン本は何だ!?(紀伊國屋書店新宿本店の「チャンピオン本」フェアの紹介)=2003年7月号
●カリスマ書店員?(読売新聞夕刊の駅売店ポスターに「カリスマ書店員」という言葉が使われる)=2003年7月号

 そして2002年5月号では「全日本書店員が選ぶ賞を作ろう!」と題して、『オリンピア』(あすなろ書房)という訳書についた「全米書店員が選ぶ2000年度売ることに最も喜びを感じた本賞受賞」と『スター★ガール』(理論社)の帯にある「全米書店員が選ぶ『2000年いちばん好きだった小説』」というコピーから、日本でも両賞を作ってくれと呼びかけてもいるのである。

 2003年とは、「本の雑誌」の記事だけでなく、『世界の中心で、愛をさけぶ』や『天国の本屋』などたくさんのベストセラーが書店発で誕生していた時期だった。

 たとえぼくらが本屋大賞を作らなくても、誰かが書店員が選ぶ賞を作る気運が高まっていたのだ。

4月18日(月)

  • コールセンターもしもし日記
  • 『コールセンターもしもし日記』
    吉川 徹
    フォレスト出版
    1,430円(税込)
  • 商品を購入する
    Amazon
    HonyaClub
    HMV&BOOKS
    honto

 曇りのち雨。吉川徹『コールセンターもしもし日記』を読みながら出社。

 これは

柏耕一『交通誘導員ヨレヨレ日記』
梅村達『派遣添乗員ヘトヘト日記』
川島徹『メーター検針員テゲテゲ日記』
南野苑生『マンション管理員オロオロ日記』
真山剛『非正規介護職員ヨボヨボ日記』
岸山真理子『ケアマネジャーはらはら日記』
内田正治『タクシードライバーぐるぐる日記』
笠原一郎『ディズニーキャストざわざわ日記』
宮崎伸治『出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記』

と連なる三五館シンシャの〈日記シリーズ〉の最新作で、ときにお世話になることもあるコールセンターというところの仕事の実情がわかるのと同時に、仕事に対しての不満と誇りが絶妙で、その裏にある人間ドラマも胸に迫ってくる。相変わらずの安定の面白さで一気に読んでしまった。

 午前中、5月より本の雑誌社に正式入社となる前田氏と企画の打ち合わせ。どうみても私よりずっと仕事ができる人なので好きに本を作っていいと思うのだけれど、会社というところは建前上、立場が上にいる人間が確認することになっているらしく、企画書を前に終始頷く。

 午後は営業に。オークスブックセンター南柏店さんでは、本屋大賞4位決定戦などという歴代の4位の作品がずらりと並ぶ楽しいフェアが、本屋大賞コーナーの隣で開催されていた。これまで2位決定戦、3位決定戦、そして天と地の違いの11位フェアなども開催されており、素晴らしい切り口にわくわくしてしまう。


本屋大賞ができるまで(6)


 実行委員会を立ち上げ、会議を開くにあたって最初にぶち当たった壁は、会議をする場所がないということだった。

「本の雑誌社さんじゃ無理ですよね?」

 思い浮かんだ書店員さんに誘いの電話やメールを入れ、実際に会って相談しながら実行委員会のメンバーが決まってきた頃、博報堂の中野さんから会議をする場所について相談を受けた。

「本の雑誌社ですか...」

 流れ的に本の雑誌社でするのが一番無難だろうし、ぼくも会社にいればいいだけなのでたいそう便利なことだとは感じた。

 しかし問題は、本の雑誌社にそれだけの人数の人が入れるスペースがなかったのである。

 実行委員というのは、複数の書店員さんに中野さんやシステムの志藤さんは外せず、それに連なる別の人たちもやって来る予定だった。どう少なく見積もっても15人...いや20人は集まるかもしれなかった。

 ところが本の雑誌社にある共有スペースはアルバイトが使うテーブルしかないのだった。それは120センチ×210センチで、本の雑誌社では「大机」と呼んでいたけれど、丸椅子を8つ並べたら目一杯で、ここにどんなに詰め込んだとしても10人は座れないだろう。いやそもそも椅子が8つしかないのだった。

 ということは椅子からあぶれた人たちは立って会議に参加することになってしまうのだが、そもそも狭い会社にはその立っている場所すらないのだった。

「三密」も「ソーシャルディスタンス」もまだ叫ばれていない時代だったが、それでもさすがにそんな場所で会議をするなんてとても考えられない。中野さんの問いかけにぼくは即座に「NO」と答えていた。

 ではどこで集まるか。博報堂は田町と夜集まるには若干不便なところにあり、古幡さんのように迷う人が出てくるかもしれない。また不特定多数の人が入るにはセキュリティ上問題もあっただろう。いちばん簡単なのは居酒屋...ということになるだろうが、酒場でやっていたのでは議論は大いに盛り上がるものの、どこまで行っても酒飲み話の延長線を永遠に歩き続けることになるだろう。そこは一線を引いて真面目な打ち合わせにしなければならないと、ぼくも中野さんも気づいていた。

 ならば貸会議室というのが無難だろう。実際に当時、それほどホームページが普及していないなかで、ぼくは「御茶ノ水 会議室」なんてワードを並べて検索したような記憶が残っている。ほんのちょっとだけ検索結果が画面に並んだけれど、そこには当然ながら料金というのがあるのだった。

 第二の壁がここに立ちはだかることになる。

 いったい誰がその料金を払うのか、ということだ。

 まだその頃、名もない本屋大賞実行委員会は、有志の、というかよくわからぬ声かけに応じて、飲み会に集まるのとたいして変わらない心持ちで集まるような集団だったと思う。ぼくも中野さんもそれは同じだった。飲み会よりも少しだけ真剣に本や本屋さんや出版業界のことを語り合える。そんなワクワクする機会が得られる集まりであり、だからこれは本の雑誌社の仕事ではないし、博報堂の仕事でもない。個人的に面白そうと感じてるからやろうとしているだけだった。

 そしてそもそもここからお金が生まれるなんて考えてもみなかった。あまりに考えなさすぎて、のちに叱られたり苦笑されたりもするのだが、とにかく誰ひとりとして仕事=ビジネスだとは考えていなかった。

 貸会議室の料金が数千円だとしても、本の雑誌社がお金を出す、博報堂がお金を出すというのも何か違うように感じていた。

 ただしそれを集まってくる書店員さんに負担してもらうというのもお門違いだと思った。なぜなら書店員さんたちも職務ではなく、交通費も自ら払い、しかも仕事の後に集まるいわゆる余暇というか無駄骨というか、その頃は何かに役立つとも考えていなかったから思いもしなかったけど、いわゆる「ボランティア」なのだった。

 ぼくか中野さんのどちらかが負担するとしたらきっとぼくより給料を多くもらっているはずの中野さんになるだろうなあと検索結果の画面を見ていたところ、改めて中野さんから電話がかかってきた。

「昔、博報堂が神保町にあった頃のビルがそのまんま空いてるんですよ。神保町だったらみなさん集まりやすいですよね。そこが無料で使えるかもしれないので確認してみます」

 それは神保町駅からほど近い神田錦町に建つ、博報堂第二別館と呼ばれる、後に建て替えの際には日本建築学会から「保存要望書」が出るような、アールデコ風な格調高い建物だった。

 2008年に博報堂が赤坂Bizタワーに移転するまで、ぼくたちは何度もこの博報堂第二別館に集まることなるのだ。

4月15日(金)

 相変わらずの雨降り。肌寒い一日。

 編集の松村から6月号特集用に書いた「北町貫多クロニクル」のゲラをもらう。ぐっと来る。ゲラを見て涙が出たのは初めてのことだ。

 午後、秋葉原の書泉ブックタワーさんを訪問。この濃さがたまらない。野球本、サッカー本、プロレス本の売れ行きなどを伺う。大変興味深い。

 いつもは22時には寝ているものの、本日よりACLのグループステージが始まるので、スリーピングラインを必死に押し上げ、23時のキックオフを待つ。2年ぶりにチャントを聴いて涙あふれる。今日は、泣いてばかりだ。


(5)

古幡瑞穂(楽天ブックス:当時、日本出版販売マーケティング本部アドバイザー:現在)の回想

 もともと、これまで年末の大きな山になっていた「このミス」が少し数字を下げてきていたということに危惧を持っていて、そこに来てあの「横山秀夫直木賞決別」に繋がる"直木賞受賞作なし"という事があって、「数字づくりを人任せにしたままでよいのか」という思いを持っていました。

 そもそも「このミス」が業界人たちの会で作られたものだという話も聞いていたので、じゃあ次の売上は次の世代でつくっていこうよ。今の技術を使えば出来る事が広がる!といったことをモヤモヤ胸に抱えていました。

 ただ、そうなると問題となるのは受け皿。単品の発掘を点でやっててもしょうがない、どうしたら出来るんだろうと考えていたときに杉江さんから電話がかかってきて、「博報堂に行きましょう!」と。

 博報堂!? え、あの電通とか博報堂とかの博報堂!? かっけー!! いくいく、絶対いく。なんか面白そうだから行く。という正直、単なるミーハー気分で、きっとキラキラしたお姉さんとか島耕作みたいな人とかいっぱいいるんだろうな♪

 って考えながらの0回目ミーティング。島は島でも耕作っぽくない嶋さんとか、それまでの広告代理店イメージを壊してくれる、本好きとワクワクのカタマリみたいな人たちに出会えて「とにかくワクワクするから、絶対やってやる!」って思ったのが第0回でした。

 いい話どこにもなくてすみません。

4月14日(木)

 昨日の夏ような陽気から一転、しとしとと雨が降り出し肌寒い。

 Twitterのトレンドワードに「気圧のせい」と出ており、私も加齢とともに気圧の変化に弱くなっているようで、猛烈に頭が痛くなり、心も鬱々としてくる。

 湯島の「出発点」さんに「本の雑誌」を納品した後、息も絶え絶えで営業。ふらふらとなって帰宅する。ご飯も食べず本も読まずに寝込む。こんな日もあるのか...。

(4)

中野雄一(博報堂)の回想

 あの頃の自分は出版プロモーションの仕事について15年くらいたってて、だんだん既存の本の売り方に限界を感じ始めてました。もう、告知すれば本が売れる時代ではなくなってきてて。だんだん自分が出版界に貢献している実感が薄れてきている危機感もありました。まだSNSは拡がっていなかったですしね。

 それで、「WEB本の雑誌」の運営に関わったりいろいろするなかで、この業界は実は書店員さんの持つポテンシャリティがすごいし、もっともっと活かせるんじゃないかと気が付き始めたんです。こんなに、店員さんが商品に対して愛着があったり、自由裁量がある業種はなかなかないと思いました。

 なにか良い方法はないのかと思って、当時bk1の安藤さんとも親しくしてたので、話を聞いてもらったり、全米図書賞など調べてみたり、そうしたなかで、一つの本をいろんな書店員さんたちのPOPで取り囲むことができたら、それを見るだけで楽しいし、絶対買う気になると。現場ひとりひとりの力を全部集めたらとんでもないパワーになるのでは?と思いはじめてました。そんなことができないかと、杉江さん、内田さん、志藤さんに飲み会の席で話したんでした。

 そうしたら、杉江さんから「実は書店員たちで決めるような賞ができたらね、なんて話があるんですよ」とその場で言われて、それまでぼんやりと考えていたこととピッタリイメージが重なった。

 普通はそういうのって酒飲み話で終わっちゃうんだけど、なぜかこれだけは「これは絶対できるるし、自分たちがやらなくても、いずれ誰かがやりそうだな、だったらさっさと始めよう」と思って翌日杉江さんに電話しました。

 その後、目黒(考二)さんにも相談したら、「君たちこれはぜったいやったほうがいいよ」と、言ってくれたのがとても励みになりました。あの、憧れの目黒さんが認めてくれるなら間違がってないんだろうなと。

4月13日(水)

  • 三十の反撃
  • 『三十の反撃』
    ソン・ウォンピョン,矢島暁子訳
    祥伝社
    1,760円(税込)
  • 商品を購入する
    Amazon
    HonyaClub
    HMV&BOOKS
    honto
  • アーモンド
  • 『アーモンド』
    ソン・ウォンピョン,矢島暁子
    祥伝社
    1,707円(税込)
  • 商品を購入する
    Amazon
    HonyaClub
    HMV&BOOKS
    honto

 春も初夏も通り過ぎて夏のような暑さとなる。

 午前中、祥伝社さんへ発表会の展示用でお借りしていた本屋大賞翻訳小説部門第一位のソン・ウォンピョン『三十の反撃』を返却しにいく。

 編集の方から、この本の、というかソン・ウォンピョンさんの前作『アーモンド』を出版する経緯や韓国文学への想いなど伺っていると胸が熱くなる。

 午後は会社を出たり入ったりしつつ、夕方資料を届けにいらした荻原魚雷さんに既刊本にサインをしていただく。


(3)

 約束の時間が近づいても博報堂のある田町のグランパークタワーに古幡さんはやってこなかった。博報堂を訪れるのは初めてのことで、ぼくはえらく緊張し、ドキドキしていた。

 このグランパークタワーの一階には流水書房田町店があり、ここの店長さんは高津淳のペンネームで業界紙などで本屋エッセイを執筆し、『明けても暮れても本屋のホンネ』(トゥーヴァージンズ)を出版する名物書店員だった。

 ひとりでエントランスに立っているのが耐えきれず、外に出てきょろきょろしてしていると古幡さんから携帯に電話が届いた。

 迷っているという。田町駅芝浦口から徒歩5分程度のところなのだが、どうしてここで迷うのだろうか。古幡さんも浮き足立っているということだろうか。浮き足立つのは私も一緒なのだが、遅刻して博報堂の人たちを腹立てるのは非常にまずいので、古幡さんを走って迎えに行き、どうにか約束の時間ギリギリで博報堂の中に入って行った。

 黒歴史というのはそのときには「黒」になるなんてまったく考えていない。何気なく発した言葉やとった行動が、後から考えると恥ずかしいものとなり、黒歴史と呼ばれるのである。

 指定されたフロアに向かうエレベーターのなかでぼくが放った一言は、今では恥ずかしいかぎりの黒歴史だ。消しゴムでその発言と記憶を真っ白に消してしまいたいし、ここで書き記すのも穴があったら飛び込んでしまいたいほど恥ずかしい。ぼくは乗り込んだエレベータの中で古幡さんにこう言ったのだった。

「ぼくは出版界の坂本龍馬になりますよ」

 なんでそんなことを当然言い出してしまったのかというと、当時ぼくは今更ながら読み出した司馬遼太郎の著作にどっぷりハマっていたのだ。『竜馬がゆく』『燃えよ剣』『峠』『世に棲む日日』『花神』と幕末ものを続けて読んでいたところだった。

 一番憧れたのは「おもしろきこともなき世をおもしろく」と辞世の句を詠んだ高杉晋作だったのだが、このシチュエーションは高杉晋作ではない。敵対していた薩長に同盟をむすばせた龍馬ように、書店や版元や取次の垣根を超えた販促を作る...そんなことから思わず恥ずかしい宣言をしてしまったのだ。

 ところがそれを聞いた古幡さんもやはりどうかしていた。古幡さんはどんどん数字が増えていく回数表示を見つめながら、「私たちが何年後かに『プロジェクトX』に出るときは、このエレベーターのシーンが必ず入りますね。『杉江は言った。オレは出版界の坂本龍馬になる』とね」と返したのだった。

 黒歴史を背負ったふたりだったが、自分たちがこれから大それたことをしようとしているという確信だけはあった。

 緊張して博報堂のあるフロアーに着くと、そこには中野さんが待っており、すぐにもうひとり人がやってきた。それが嶋浩一郎さん(34歳)だった。

 嶋さんは今では博報堂ケトルの代表として活躍し、著作も多数ある有名クリエイティブディレクターだが、当時は博報堂が出している「広告」の編集長で、売り出し中の社員だった。俯き加減でもごもごとまるで独り言のように話しつつも、博識で説得力があり、議論の問題点がどこにあるか見極め解決策を考えるのがとても上手な人だった。

 ちなみに本の雑誌社と博報堂の結びつきは、その3年前に開設したホームページ「WEB本の雑誌」に始まる。当時、徐々にネットのコンテンツが普及し始めた中で、出版関係で何かネット展開できるものはないか考えていた博報堂(中野さんなど)が、地方小出版流通センターの川上さんに相談に行ったところ、「本の雑誌」と組めばいいのではとアドバイスを受け、本の雑誌社にやってきたのだった。

 ぼくはその頃入社3年目で営業で本屋さんを廻るので精一杯であり、そこで目黒さんや浜本とどんな打ち合わせがあったのかわからない。ただこの日記を書くようにという厳命がくだされ、それ以来これを綴っているわけだが、要するに「WEB本の雑誌」はコンテンツは本の雑誌社が提供し、運営を博報堂がするという関係が続いているのだった。そしてその「WEB本の雑誌」の初期の方向性にアドバイスをしていたのが嶋浩一郎さんだった。

 緊張するぼくと古幡さんは会議室に通され、誰の耳も気にする必要もないはずなのに、みんなが小さな声で話をした。それは言わばキックオフミーティングのその前の、プレ会議というか第0回の本屋大賞実行委員会の打ち合わせということになるのだが、そこで決まったことは以下のことだった。

「我々はあくまで裏方、サポートである。余計な口出しはせず、書店員さんの必要とするものを作る」

 そうしてはじめてみんなが顔を合わせる準備が整ったのだった。海のものとも山のものともわからない、その時には本屋大賞なんて名称はもちろんなく、何をするのかすらもまったく決まっていない会議が開かれようとしていた。

4月12日(火)

  • 一軍監督の仕事 育った彼らを勝たせたい (光文社新書)
  • 『一軍監督の仕事 育った彼らを勝たせたい (光文社新書)』
    髙津臣吾
    光文社
    968円(税込)
  • 商品を購入する
    Amazon
    HonyaClub
    HMV&BOOKS
    honto
  • 二軍監督の仕事 育てるためなら負けてもいい (光文社新書)
  • 『二軍監督の仕事 育てるためなら負けてもいい (光文社新書)』
    高津臣吾
    光文社
    880円(税込)
  • 商品を購入する
    Amazon
    HonyaClub
    HMV&BOOKS
    honto

 9時45分出社。なんとなくまだ心に本屋大賞の疲れが残っている。

 午前中、各所にメールを送る。

 午後、「ミカン下北」という下北沢駅の京王線高架下にできた商業施設にオープンした「TSUTAYA BOOKSTORE 下北沢」さんを初訪問。本屋大賞も一緒にやっている担当のIさんにご挨拶。「なんかホッとします」と云われ、いつの間にか癒やし系になっていたことに気づく。それにしても下北沢は大変な人出だ。

 新宿に移動し、改装中の紀伊國屋書店さんを覗くと、二階の文芸書コーナーがリニューアルを終えており、綺麗な棚に本がぎっしり並んでいる。なんだか本も輝いているようでうれしくなる。特に詩歌のコーナーの充実ぶりにビリビリと感動す。

 高津臣吾『一軍監督の仕事 育った彼らを勝たせたい』(光文社新書)を購入しすぐに読み始める。

『二軍監督の仕事 育てるためなら負けてもいい』(光文社新書)に継いで出された新刊で、二年連続最下位から優勝を遂げた昨シーズンを振り返り、あの日本シリーズの一戦一戦が詳細に語られる。また、それぞれの選手への想いまで綴られており、そこかしこに野村監督への尊敬の念も見え隠れするのが、またうれしい。

 流行語にもなった「絶対大丈夫」についても、選手に語った内容が全文書き起こされており、この言葉が生まれた状況も描かれているので大満足の一冊だ。


(2)

 中野さんから電話をもらったその日、出社してきてすぐの浜本(43歳)に前夜の飲み会の内容を含め、「書店員さんが選ぶ賞みたいなものを作ろうと思うんですが」と報告した。

 当時は笹塚にあった本の雑誌社は2フロアから1フロアに縮小し、編集部も営業部も狭いフロアに机を並べていたのだが、編集部は各自がパーテンションで仕切り、迷路のような感じのその最奥に浜本の机があった。

 ぼくは本の雑誌社入社6年目の31歳だった。浜本は目黒さんから発行人の座を受け継ぎ2年目。うず高く書類が積まれたその中に座る浜本の反応は鈍く、特になんの言葉も返ってこなかった。

 今考えれば会社に来てすぐ興奮した部下が雲をつかむような話をしてきたところでどう対応していいのかわからなかったのかもしれないが、当時のぼくは「どうしてこんな面白そうなことが始まるかもしれないのにこの人は興奮しないんだろうか」と憤りを感じつつ自分の机に戻った。「まあいいや。これは会社と関係なく個人で取り組むプロジェクトにすればいいんだ」と思ったのだった。

 中野さんからは「まずは実行委員会みたいなものを作りましょう。杉江さんはこういうことに興味をもってくれる書店員さんに声をかけてくれませんか」と言われていたのだが、そうなると一週間前にあった飲み会の顔ぶれが思い浮かんだ。

 それは名古屋の丸善から御茶ノ水の丸善へ異動してくる藤坂さん(44歳)を歓迎する飲み会で、藤坂さんから「そっちの面白い書店員さん集めて紹介してよ」という無茶振りに当時日販から楽天ブックスに出向していた古幡さん(27歳)が幹事をし開催した飲み会だった。

 ちなみに古幡さんとぼくが出会ったのは、その少し前、飯田橋にあった深夜プラス1の店長浅沼さんを囲む飲み会で、そこに東京創元社の矢口さんが古幡さんを連れてきたのだ。元気の良い女性で、楽天ブックスに自身の言葉で本を紹介しているコーナーが作られており、それを毎日更新していた。毎日更新しているということは、毎日本を読んでいるということであり、要するに本が大好きな人だった。

 その古幡さんが声をかけ、御茶ノ水の駅前の居酒屋「福の家」に集まったのは25名を超える書店員・出版社の人間で、顔ぶれは多彩だった。あの頃、カリスマ書店員と呼ばれ注目を集めていた往来堂書店の安藤哲也さん(このときにはすでにbk1か別のところで活躍されていたような気がする)、「本の雑誌」でもおなじみだった茶木則雄さんはときわ書房で書店員に復帰した頃だったか。さらには都内各所の大型書店の文芸担当者が顔を並べていた。

 当時、まだそれほどお店を越えての書店員さんの横のつながりがなかったもので、いつも個別に会っている人たちが一つの机で向き合って、酒を飲んでいるのがとても不思議に思えたものだ。

 飲み会では今後互いに新刊や売れ筋などの情報交換をしていこうとメーリングリストの開設が提案され、それはそこに同席していた新潮社でネット書店担当だった大西さんが作成することになった。

 中野さんからまずなによりも一度ちょっと改めて話しましょうと言われていたので、ぼくはすぐに古幡さんに連絡を入れた。「これこれこうでこんなことを考えているんですが」と言うと古幡さんはすぐに興味を示してくれた。そして一週間後、当時田町にあった博報堂で待ち合わせすることになったのだった。

※記憶に基づいて書いているので結構な間違いがあるかもしれません。

 

4月11日(月)

  • 本の雑誌467号2022年5月号
  • 『本の雑誌467号2022年5月号』
    本の雑誌編集部
    本の雑誌社
    825円(税込)
  • 商品を購入する
    Amazon
    HonyaClub
    HMV&BOOKS
    honto

 先週は本屋大賞の発表もあり、精神的な負担大きく日記の更新が滞ってしまった。

「本の雑誌」5月号搬入となる。今月は「出版業界で働こう!」という就活特集なのだが、はたして若い人が手にとってくれるだろうか。

 それに合わせてというわけではないが、なんと双葉社の運営するサイト「COLORFUL」にて、『社史本の雑誌』(『本の雑誌風雲録』と『本の雑誌血風録』)を下敷きとした『黒と誠〜本の雑誌を造った男たち〜』が連載開始となる。最初にマンガ化の話があったとき、まさかそんなことができるのか?と思ったけれど、すっかりしっかりマンガになっていて慄く。今後が非常に楽しみ。

 来月の特集(結句、西村賢太。)のために、ひと月ほどかけ調べてきた西村賢太さんの私小説を時系列に並べ替える「北町貫多クロニクル」の原稿を編集部に入れる。〆切ギリギリなのでここでフィニッシュとしたけれど、時間があればまだまだ調べ続けたいという欲求にかられる。

 午前中はオンラインで座談会収録。

(1)

 午後は本屋大賞実行委員会の中野さんと内田さんがやってきて、20周年に向けての打ち合わせ。思い返せば20年前、この二人(+志藤さん)と新宿の陶玄房で飲んでいたところから本屋大賞は始まったのだった。

 あのとき(2003年1月下旬)はこの「WEB本の雑誌」でPOP王の連載を始めるにあたって運営の博報堂の中野さん(43歳)とシステムのユーピー(当時はBDI)の志藤さん(30歳)にPOP王こと三省堂書店・内田さん(33歳)を紹介する飲み会だったのだが、いつしかすっかり打ち解け、数週間前に受賞作なしで終わった直木賞(第128回)の話題となり、だったら自分たち(書店員)が選ぶ賞を作ればいいんじゃないの?なんて話になり、当時普及し始めたインターネットやプログラムを組めば投票も集計も簡単にできますよなんて現実的な話も出て、その夜は大いに盛り上がり、終電間際にお開きになったのだった。

 そんな酒場の戯言などきれいさっぱり忘れていた僕の携帯に翌朝中野さんが電話してきて、「昨日の話、ちょっと具体的にできないか検討してみませんか」と言ってきたのだ。それが本屋大賞の始まりだった。

 あれから20年。すべてが「まさか」の連続だったといっても過言ではない。


 帰宅後『人でなしの櫻』遠田潤子(講談社)読了。強烈なる遠田トルネードにやられる。

4月4日(月)


 愛媛県伊予市に暮らす女の子の話から始まる早見和真『八月の母』(KADOKAWA)は、もうページをめくったら最後、仕事も家事もいつも聴いてるラジオもプレミアリーグの配信も忘れて、没頭没入一心不乱で物語の中を息も絶え絶えになって駆け抜ける。

 年に一冊くらい「今年はこの小説を読むためにあった」と思うような本に出会うけど、『八月の母』はそのレベルを超え、10年後、20年後にも「あの本、凄かったよね」と語り合えるくらいの作品だ。

『八月の母』は三代に渡る女性の物語で、今でいう「親ガチャ」に血まみれになって挑んだ物語でもある。

「親ガチャ」って言葉を初めて聞いた時、なんか嫌な言葉だなあと感じたんだった。「スクールカースト」なんかもそうなんだけど、言葉が生まれることによってその世界が可視化される良さもあるけど、それと同時に言葉に引きずられて逃げられなくなっちゃうこともあるんじゃないかと思った。

「親ガチャ」って言いたくなる気持ちもわかる。それでも人生って本当にガチャガチャなのかな?とも感じたんだった。ガチャガチャはハンドルを回すことしかできないけれど、人生は手を伸ばしつかみ取ることもできるんじゃないかって。そう、人生はガチャじゃなくて、UFOキャッチャーなんじゃないかと思ったんだ。

 そんな「親ガチャ」に、おそらく著者も含めて血まみれになって挑んだ物語。それが早見和真『八月の母』(KADOKAWA)。とにかく読んでほしい。この叫び声と祈りを聞いてほしい。

3月31日(木)

 朝、洗面台で並んで歯を磨いていた息子が、目の前の鏡を見ながら「俺、なんか背が伸びてない?」とポツリともらすのであった。

 言われてみれば鏡に映る息子と私にはずいぶんと差があり、それにしてもこれほどの差はおかしいだろうと、「これは遠近法だよ」と言いながら足元を見るも、二人の足の位置は横並びである。いや、どちらかというと私の方が前に出ているのだった。

 そこで歯を磨くのをやめ、しっかり横に並んで鏡を見つめると、息子は「父ちゃん、ちっちゃ!」と言いながら大笑い。「おい!」っと横を向けば、たしかに私の首は息子と視線を合わすために、だいぶ上を向いている。息子と顔を合わすのにこれほどまで見上げる必要があったとは。

 うううう。記憶にあるかぎりだと一年くらい前は、私が身長163センチに対して、息子が168センチくらいで、四捨五入して人に「身長170センチ」と言えるのを羨ましがっていたのだ。

 ところが今、隣に立ち、鏡に映る息子は自称170センチどころか、どう見ても175センチ近いのではなかろうか。こんなことがあっていいのだろうか。なんだか大地が割れ、その隙間から地底どこかに一気に墜落していく気分。

「父ちゃんも牛乳飲めば背が伸びるよ」と息子は私の肩を叩いて階段をあがっていく。

 いろんな意味で疲れを引きずったまま、9時半に出社。すぐに準備をして、市ヶ谷の地方小出版流通センターさんへ。市ヶ谷の土手は桜満開で多くの人がスマホ片手に桜を撮影している。担当のKさんと『本屋大賞2022』の初回搬入部数の打ち合わせ。

 昼過ぎに会社に戻り、6月刊行で進めている内澤旬子さんのヤギ飼い暮らしを描いた『カヨと私』の編集作業に没頭。

 夜は雨。私より背の低い娘を車で迎えにいく。

3月30日(水)

  • 日本の川を旅する―カヌー単独行 (新潮文庫)
  • 『日本の川を旅する―カヌー単独行 (新潮文庫)』
    野田 知佑
    新潮社
  • 商品を購入する
    Amazon
    HonyaClub
    HMV&BOOKS
    honto

 4時半起床。昨日の出張の疲れもあり、もう少し眠っていたかったのだが、二度寝できず。調べ物の続きをする。

 9時半に出社。野田知佑さん死去の報が届く。

 18歳のとき、とにかくこんなんじゃないという気持ちを抱えたまま毎日を過ごしていた頃、親友の薦めで読書という行為を知り、そしてすぐに野田知佑さんの『日本の川を旅する』と出会った。

 ああ、これだ。これが、いい大学に入るでもなく、いい会社に入るでもなく、真面目に生きるということだ、と確信し、僕はすぐに両親に頭を下げ、通っていた予備校をやめ、カヌーを買うためにアルバイトをはじめた。18歳の夏だった。

 最初は、一気に稼いでその夏にカヌーを買って、野田さんのように日本の川を旅しようと思ったのだけれど、給料の良さだけで選んだ仕事は、半日近く氷点下の中にいる精肉加工の工場で、あまりの過酷さに週払いの給料を一度もらったところで撤退したのだった。

 思えばあの時、僕の中にはふたつの目標があった。

 ひとつは野田さんのようにカヌーで日本の川を旅し、確固たる自分を築き、自由に生きる人間になること。もうひとつはこれほどまでに人の人生に影響を与える「本」を作る人になりたいというものだった。

 そのふたつに同時に近づく第一歩として兄貴の薦めもあって、僕は本屋さんでアルバイトをすることにした。そこは氷点下の精肉加工の工場よりもだいぶ時給が安く、結局カヌーを買うお金を貯めるのに半年近くの時間が必要だった。年をまたいだ正月明けに小さなアウトドアショップで、ついに折りたたみ式のカヌーを手に入れることができたのだ。

 その後僕は、仲間と連れ立って川下りを楽しみ、そして運良く出版社で働くことができるようになった。

 ずっと涙を堪えていたのだけれど、夜になって5つ歳の離れた兄貴からメールが届き、ついに我慢していた涙がこぼれ落ちた。

「お前にとって野田知佑さんは、人生変えられた恩人だものね」

« 2022年3月 | 2022年4月 | 2022年6月 »