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6月28日(火)

  • ドリフターズとその時代 (文春新書 1364)
  • 『ドリフターズとその時代 (文春新書 1364)』
    笹山 敬輔
    文藝春秋
    968円(税込)
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 たかだか1時間、2時間早く出社したところで猛暑なのは変わりないことに気づいたので、独自サマータイムは一日にて終了。本日は9時半に出社。やはり会社にたどり着くまでに体力を使い果たしてしまう。

 できあがったばかりの内澤旬子さんの新刊『カヨと私』の見本と短冊を持って、地方小出版流通センターを訪問。

 コロナ前の新刊見本出しといえば、日販、トーハン、楽天BNと廻って地方小に辿りたどり着くというコースであり、その中でもトーハンは飯田橋からかなりの距離を歩くロングトレイルだったわけで、そういう意味では出版営業はコロナの恩恵を受けたのかもしれない。

 そのロングトレイルと同じくらい距離がある市ヶ谷から地方小への道を、一歩一歩踏みしめながら見本出しを完了する。

 その後、とある書店さんに直納で伺うと、「雨の日よりも売上が悪い」と嘆きの声が聞こえてくる。かつては暑くなるとお客さんが本屋さんに涼みに来て忙しくなるなんて言われていたけれど、この暑さでは土砂降りの雨なみに外出を控えるであろう。

 最猛暑時間帯は命を守るために会社でデスクワーク。

 6時半終業。知人のFacebookでの書き込みで知った笹山敬輔『ドリフターズとその時代』(文春新書)を購入し、喜び勇んで電車の中で読み進み帰宅していると、なんと京浜東北線が人身事故の影響で運転見合わせに。

 本を読んでいればいいかと思ったものの、復旧見込みが50分後とのことで、さすがにそれは待っていられない。

 止まったのが運良く西日暮里だったので、千代田線に乗り換え、北千住へ、そこから東武伊勢崎線に乗って、新越谷駅を目指し、武蔵野線に乗車し、無事帰宅。帰宅したのは8時30分。我が判断は間違っていなかったと思われる。

 ただしヘロヘロとなってしまい食欲もなく、エネルギーチャージを吸って寝る。51歳の夏を果たして乗り越えられるのだろうか。

6月27日(月)

 まさかの梅雨明け。朝早くから体温を超えるような暑さ。会社にたどり着くまでに体力を使い果たす。あとは帰宅するための余力しか残っていない。

 独自サマータイム導入により8時に出社。それでも暑さに変わりなく、冷房を入れる。

 事務仕事を片付け、10時に外出。都内某所にて高野秀行さんと打ち合わせ。SF連載の今後の方向性について議論していくうちに突拍子もないことを思いつき、そちらのことで爆裂的に盛り上がってしまう。どう考えても素晴らしいアイデアだと思うのだけど、その時すでに打ち合わせという名の雑談を2時間もしていたところなので、これはもしかすると徹夜で麻雀しているときになんでもないことで爆笑が起きる徹マン現象かもしれず。

 外気同様茹る頭を抱えつつ、一旦帰社。戻る途中の古本屋さんの均一台にて、『トゥワー民族』鴨川和子(晩聲社)、『幻の民トゥパリ』フランツ・カスパール(集英社)を購入。

 会社でほんの少し身体と頭を冷やした後、丸善丸の内本店さんに『マルジナリアでつかまえて』『マルジナリアでつかまえて2』を、八重洲ブックセンター八重洲本店さんに『誰もいない文学館』の追加注文分をお届けする。営業たるものどんなに暑くても店頭在庫を切らしてはならず。

 その後、営業、帰宅。帰宅途中のビッグ・エーにて「チョコモナカジャンボ」を買い求め、自転車に乗りながらかじりつく。

6月21日(火)

 西村賢太さんに初めて相対したのは「苦役列車」が「新潮」に掲載された頃でした。おそらく2010年の11月か12月で、場所は西村さんご指定の四谷三丁目の焼肉屋でした。

 その前年の『おすすめ文庫王国2009』で西村さんのデビュー作『どうで死ぬ身の一踊り』を文庫の1位に選んでおり、その後、ファクシミリの原稿依頼でもって、「本の雑誌」2010年8月号で「私のオールタイムベストテン」の原稿を頂いておりました。

 初めてお会いする西村さんは噂通りの大きな身体で迫力がありました。小説の通りであれば、余計なことを言ったら一気にプチ切れられるのではなかろうかと僕はたいへん緊張し、美味しいはずの肉もあまり喉を通りませんでした。

 ただ読んだばかりの「苦役列車」の素晴らしい出来に「この作品で芥川賞を獲れるんじゃないですか」などと軽口を叩くと、単行本で同時掲載になる予定の「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」のほうが自分は気に入っており、こちらのタイトルで単行本にしてほしいと新潮社に言っているがダメらしいと憤りを口にしていたのを覚えております。

 年が明けて「苦役列車」で第144回芥川賞を受賞しました。その晩、ファクシミリでお祝いメッセージを送りましたが特に返信はなかったものの、2011年7月号で、私小説の特集を組む(私小説が読みたい!)ので原稿を依頼すると快諾いただきました。しかし待てど暮らせど原稿は届かず、確か何か別の原稿で穴埋めしたのでありました。

 それから数年は年賀状のやり取りが続いていたものの、芥川賞を受賞されて西村さんはどんどんと忙しくなり、もはや「本の雑誌」が関われるような作家ではないだろうと原稿依頼することも連絡することも途絶えておりました。

 そうして5年の時が過ぎ、「本の雑誌」2015年12月号で「太宰治は本当に人間失格なのか?」というダメ作家の特集を組むこととなりました。その際、坪内祐三さんが対談相手として西村賢太さんを指定してきたのでした。

 自分としてはしばらく距離をおいてしまっていたのでいまさら会うのも気が引け、どうしたもんかと悩みましたが、坪内祐三さんのリクエストを聞かないわけにもいきません。

 また誌面としてはお二人がダメ作家について語り合うというのはたいへん面白い内容になること間違いなしでありますから、対談場所を坪内祐三さん御用達の神保町の「げんぱち」とし、二人の対談を収録することになりました。

 そこで僕は西村さんと5年ぶりの再会を果たし、ここのところのご無礼を謝り、西村さんからもそろそろ「本の雑誌」でなにか書こうかと声をかけていただき、後日、鶯谷の信濃路で打ち合わせすることになったのでした。その際、私を挟んで隣のお客さんと西村さんが喧嘩をはじめてしまい大変なことになったのですが、それは別の話なのでここでは割愛いたします。

 さて、どんな連載を始めるか──というところで、実は2011年に焼肉屋さんで相対したときに、僕は一本の企画を挙げておりました。それがこの『誰もいない文学館』(当時タイトルはありません)で、西村さんがこれまで大切に読んできた作品を一冊ずつ取り上げていく、ある種、村上龍の『料理小説集』のようなものというのを打診していたのでした。(もちろん西村さんには村上龍の話はしていません)

 信濃路のやたらに濃いチューハイを飲みながら、改めて西村さんにその企画の話をすると、実はそれは講談社の「小説現代」で始めることになっていて...と頭をかきかき言われました。

 企画に特許があるわけではありませんから仕方なかろうと、ならば書籍ではなく筆跡から作家について綴る「文豪ばかりが作家じゃないと、いつか教えてくれた人たち──幻の筆跡を通じて」を西村さんから提案され、連載スタートすることになったのでした。

 こちらの連載は結局、同時進行している「小説現代」の「誰もいない文学館」と内容がかぶることになり、やっぱり書き進めることができないと5回で終わってしまったのですが、「誰もいない文学館」は28回を書き切り、それは私が読みたかった西村さん以外に書けない、濃く、深く、熱い書評集になっておりました。

「誰もいない文学館」の連載を終えた頃「いつ本になるんですか?」と西村さんに尋ねると、まだ少し分量が足りないのであと4、5本足して本にしますよと答えていたのですが、それから3年半が過ぎた2022年2月5日に、西村賢太さんはこの世を去ってしまいました。

 西村さん急逝の報を受けて、一番最初に考えたのは「本の雑誌」で追悼号を作ろうということでした。その次に思ったのは、『誰もいない文学館』は本にならないのだろうか?でした。

 浜本を通じて連載元である講談社に確認すると、講談社では本にする予定はないということでしたので、すぐさま単行本化することに決めました。

 図書館に行き、掲載誌を全回分コピーすると、一文字一文字原稿を打ち込んでいきました。いつもなら助っ人アルバイトに作業させるのですが、こればかりは自分ですべて打ち込みました。

 それは実はこの間、自身の限界で西村さんと距離を置いてしまったダメ担当編集者としての償いの気持ちも大きかったのです。僕はあなたと上手くお付き合いすることはできませんでしたが、作品はいつも、いつまでも愛しておりました、と思いを込めながらコピーをめくり、指を動かしていきました。

 一人の作家の方から、自分が思い描いていた原稿を頂戴するのはとても大変なことであります。
 そしてそれを一冊の本にまとめあげるのは、さらに大変なことです。

 西村賢太といえば私小説!ですけれど、誰よりも書物を愛し、書物によって人生を切り拓いた人でありますから、この最愛の書を掲げた書評集は西村賢太さんのB面の代表作ともいえるでしょう。『誰もいない文学館』を刊行できて本当によかったです。

 賢太さん、不甲斐ない担当編集ですみませんでした。そして、ありがとうございました。

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