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4月12日(火)

  • 一軍監督の仕事 育った彼らを勝たせたい (光文社新書)
  • 『一軍監督の仕事 育った彼らを勝たせたい (光文社新書)』
    髙津臣吾
    光文社
    968円(税込)
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  • 二軍監督の仕事 育てるためなら負けてもいい (光文社新書)
  • 『二軍監督の仕事 育てるためなら負けてもいい (光文社新書)』
    高津臣吾
    光文社
    880円(税込)
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 9時45分出社。なんとなくまだ心に本屋大賞の疲れが残っている。

 午前中、各所にメールを送る。

 午後、「ミカン下北」という下北沢駅の京王線高架下にできた商業施設にオープンした「TSUTAYA BOOKSTORE 下北沢」さんを初訪問。本屋大賞も一緒にやっている担当のIさんにご挨拶。「なんかホッとします」と云われ、いつの間にか癒やし系になっていたことに気づく。それにしても下北沢は大変な人出だ。

 新宿に移動し、改装中の紀伊國屋書店さんを覗くと、二階の文芸書コーナーがリニューアルを終えており、綺麗な棚に本がぎっしり並んでいる。なんだか本も輝いているようでうれしくなる。特に詩歌のコーナーの充実ぶりにビリビリと感動す。

 高津臣吾『一軍監督の仕事 育った彼らを勝たせたい』(光文社新書)を購入しすぐに読み始める。

『二軍監督の仕事 育てるためなら負けてもいい』(光文社新書)に継いで出された新刊で、二年連続最下位から優勝を遂げた昨シーズンを振り返り、あの日本シリーズの一戦一戦が詳細に語られる。また、それぞれの選手への想いまで綴られており、そこかしこに野村監督への尊敬の念も見え隠れするのが、またうれしい。

 流行語にもなった「絶対大丈夫」についても、選手に語った内容が全文書き起こされており、この言葉が生まれた状況も描かれているので大満足の一冊だ。


(2)

 中野さんから電話をもらったその日、出社してきてすぐの浜本(43歳)に前夜の飲み会の内容を含め、「書店員さんが選ぶ賞みたいなものを作ろうと思うんですが」と報告した。

 当時は笹塚にあった本の雑誌社は2フロアから1フロアに縮小し、編集部も営業部も狭いフロアに机を並べていたのだが、編集部は各自がパーテンションで仕切り、迷路のような感じのその最奥に浜本の机があった。

 ぼくは本の雑誌社入社6年目の31歳だった。浜本は目黒さんから発行人の座を受け継ぎ2年目。うず高く書類が積まれたその中に座る浜本の反応は鈍く、特になんの言葉も返ってこなかった。

 今考えれば会社に来てすぐ興奮した部下が雲をつかむような話をしてきたところでどう対応していいのかわからなかったのかもしれないが、当時のぼくは「どうしてこんな面白そうなことが始まるかもしれないのにこの人は興奮しないんだろうか」と憤りを感じつつ自分の机に戻った。「まあいいや。これは会社と関係なく個人で取り組むプロジェクトにすればいいんだ」と思ったのだった。

 中野さんからは「まずは実行委員会みたいなものを作りましょう。杉江さんはこういうことに興味をもってくれる書店員さんに声をかけてくれませんか」と言われていたのだが、そうなると一週間前にあった飲み会の顔ぶれが思い浮かんだ。

 それは名古屋の丸善から御茶ノ水の丸善へ異動してくる藤坂さん(44歳)を歓迎する飲み会で、藤坂さんから「そっちの面白い書店員さん集めて紹介してよ」という無茶振りに当時日販から楽天ブックスに出向していた古幡さん(27歳)が幹事をし開催した飲み会だった。

 ちなみに古幡さんとぼくが出会ったのは、その少し前、飯田橋にあった深夜プラス1の店長浅沼さんを囲む飲み会で、そこに東京創元社の矢口さんが古幡さんを連れてきたのだ。元気の良い女性で、楽天ブックスに自身の言葉で本を紹介しているコーナーが作られており、それを毎日更新していた。毎日更新しているということは、毎日本を読んでいるということであり、要するに本が大好きな人だった。

 その古幡さんが声をかけ、御茶ノ水の駅前の居酒屋「福の家」に集まったのは25名を超える書店員・出版社の人間で、顔ぶれは多彩だった。あの頃、カリスマ書店員と呼ばれ注目を集めていた往来堂書店の安藤哲也さん(このときにはすでにbk1か別のところで活躍されていたような気がする)、「本の雑誌」でもおなじみだった茶木則雄さんはときわ書房で書店員に復帰した頃だったか。さらには都内各所の大型書店の文芸担当者が顔を並べていた。

 当時、まだそれほどお店を越えての書店員さんの横のつながりがなかったもので、いつも個別に会っている人たちが一つの机で向き合って、酒を飲んでいるのがとても不思議に思えたものだ。

 飲み会では今後互いに新刊や売れ筋などの情報交換をしていこうとメーリングリストの開設が提案され、それはそこに同席していた新潮社でネット書店担当だった大西さんが作成することになった。

 中野さんからまずなによりも一度ちょっと改めて話しましょうと言われていたので、ぼくはすぐに古幡さんに連絡を入れた。「これこれこうでこんなことを考えているんですが」と言うと古幡さんはすぐに興味を示してくれた。そして一週間後、当時田町にあった博報堂で待ち合わせすることになったのだった。

※記憶に基づいて書いているので結構な間違いがあるかもしれません。

 

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