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10月7日(金)

 朝、会社に行こうと準備をしていたところ、10分ほど前に家を出た息子から電話が入る。忘れものか? それとも事故にでもあったのだろうか? 心臓がぎゅっとなりつつ電話に出ると、「父ちゃん」と息子の声が聞こえてくる。

「自転車が壊れて動かなくなっちゃった」

 事故でなくほっとしたものの、それは大変だ。居場所を確認してすぐさま車で向かう。

 5分ほど車を走らせると、通学路の道端に雨に濡れる息子が立っていた。動かなくなった自転車を手で押さえている。反対車線にいたのでしばらく走って農道でUターンして向かう。

「どうしよう。直るかな......」

 呆然と立ち尽くした息子が呟く。

 この自転車は、息子が小6のときに買ったクロスバイクで、毎日玄関にしまって大切に乗っていたのだ。しかも自転車を買うならちゃんとした自転車屋さんで買えと言った私と一悶着あり、私にとっても息子にとっても思い出深い自転車なのだった。

 俯いてる息子に事情を聞きながら自転車を見れば、後輪を止めていた部品がなくなっており、よくこれで怪我をしなかったなと不思議に思うほどだった。雨に濡れながら車に積み込み、息子を学校に送ることにする。

 さて、どうしたものか。今日は「本の雑誌」11月号の定期購読者分が出来上がってくる日であり、昼には製本所のトラックが会社にやってくるだろう。雨の中、濡らさずに社内へ運び込むためには人員が必要だ。自転車屋さんには明日か明後日に行った方がいいだろう。

 それでも、この自転車をこのままにしておくことはできない。来週の息子の通学に支障がでるのもあるのだが、このままでは息子の心が晴れないだろう。家に向けていた車の方向指示器を出して右に曲がり、自転車屋さんに向かった。

「修理大好き」と看板を掲げた自転車屋さんに着くと、ちょうどおじさんがお店のシャッターを開けているところだった。

「すみません、息子の自転車の後輪が急に取れちゃって...」
「取れた? どういうことだ?」

 車から下ろした自転車を一目見るなりおじさんはとても悲しそうな顔になった。

「おいおい、こうなる前になんかあったと思うんだけど......こりゃあ大変だぞ......」

 外れた後輪をみればベアリングが中に食い込んでおり、40年以上自転車修理をしているおじさんも見たことがない状況だという。

「この部品がさ、いくら頼んでもコロナの影響で入ってこないんだよ。参ったなこりゃ。あの子、何年生だっけ?」
「高3です」
「あと半年か...」
「いやでも来年の春から新潟に行くんですけど、新潟にこの自転車持っていくって言ってて」
「あー言ってた言ってた。新潟に進学が決まったってうれしそうに話してた」

 2ヶ月に一度空気を入れに来ていた息子は、おじさんといろいろ話していたようだ。

「ちょっとさ、問屋さんと仲間の自転車屋に部品がないか聞いてみるよ。」そう言っておじさんはあちこちに電話をかけだした。

 なかなかすぐには見つからず、次々に電話をかけていると、別の電話が鳴った。おじさんが慌てて取るとそれは部品の在庫を確認した問屋さんではなくお客さんだった。

「あっ、一台ありますよ。色は黒しかないですけど。えっとね、諸々込みで12万円くらいかな。はい、ありがとうございます。明日は晴れみたいだから明日来れば? うん、はい」

 おじさんは電話を切ると私の方を向いてにやりと笑った。

「すごいよね。電話一本で電動自転車売れちゃった。まあ、長い付き合いのお客さんなんだけど」

 私にはそのお客さんの気持ちがよくわかった。私もこの自転車屋さんで二台自転車を買っているのだ。なぜならいつもこうして嫌な顔ひとつせず、5年も10年も乗った自転車を一生懸命修理してくれるからだった。

「そりゃあ信頼されてるからですよ」と私が答えると、「40年だからね、この土地で自転車売って」とおじさんは誇らしげに笑った。

 結局、私が待っている間には部品が見つからず、様子がわかったら電話をもらうことにして、出社することにした。

 店を出て、駅に向かって歩いていると息子からLINEが届いた。修理できないかもと報告すると息子は激しく落ち込んだ。同じメーカーの新しい自転車がお店に並んでいたと教えても、どうしても今の自転車を乗り続けたいらしい。

 あとはもう自転車屋さんのおじさんを信じるしかない。直るよう祈るしかないよとLINEを送ると、素直に「うん。祈っとく」と返事が届いた。

 自転車屋のおじさんから「部品が見つかった」と電話があったのは、それから3時間後のことだった。息子に報告すると、息子はすぐに自転車屋さんに電話をかけたらしい。

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