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7月22日(土)母親の涙

 トミナガのおじさんが亡くなったのは先週の土曜日のことで、その日は父親の百箇日だった。そもそもはトミナガのおばさんと母親が高校の同級生で、それ以来親交を重ね、60歳を過ぎてからは夫婦連れ立って年に二度、三度と旅行に行っていたのだ。

 入院している母親の代理でおじさんの葬儀に列席すると、喪主であるおばさんから「わたしの親友の息子なの」と喪服姿の親族の間で紹介された。

 親友。

 目黒さんが死んでその追悼号を作ろうと企だてたとき、椎名さんから「さらば友よ」だな、と言われ、それがそのまま特集タイトルとなった。その時、80歳近くになって、「友」と呼べる人がいることを、友と素直に言葉にできることを、心底羨ましく思った。また僕たちの椎名誠はいつまで経っても椎名誠なんだと誇らしく思った。そして自分にはそんな人がいるだろうかと悲しくなった。

 83歳の母親には、「親友」と呼んでくれる友がいた。

 そのことだけでもう母親の人生はよきものなのではなかろうかと思いつつ、告別式を終えるとすぐに帰宅した。車を飛ばして母親の入院している病院に向かった。

 ベットに横たわる母親に、写真と会葬礼状を見せながら「告別式に行ってきたよ。母ちゃんの代わりにお焼香してお礼言っておいたよ」と報告した。

 母親はトミナガのおじさんの祭壇を見ながら、「優しくていい人だったのに。トミさんつらかっただろうね」と涙をこぼした。

 僕は母親が泣くのを初めてみた。僕がどれだけ問題を起こして学校から呼び出された時も、浦和レッズが優勝したときも、そして夫が死んだときも母親は泣かなかった。その母親が今、ポロポロと涙をこぼしている。自由になる右手で何度も涙をぬぐったけれど、真っ白なシーツに小さなシミを作った。

 母親の涙をハンカチで拭うと目を細めた。母親は4日後にリハビリ病院に転院することが決まっている。麻痺している左半身を動くようにし、歩く訓練をするらしい。

 歩けるようになったら、トミナガのおばさんと旅行に行くのが、今、一番の目標なのだった。その時は僕が運転手になることを約束した。

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