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11月24日(金)うちの子

この4月に死んだ親父は僕が小学生のときに独立して町工場を経営していた。

その時の右腕というか、創業のお金も出してくれたのが前川さんで、前川さんは親父の中学からの親友なのだった。

そういう縁で興した会社というのはたいてい立ち行かなくなるか、仲間割れするもんだと思うけれど、親父と前川さんは70過ぎまで苦楽を共にして働き続けた。

その前川さんが若い頃、一時期、実家の近くで暮らしていた。前川さんちには子どもが居らず、前川さんちに家族で遊びにいくと、いつも帰り際になると「ツグは今日からうちの子だから帰ったらだめよ」と前川さんのおばさんに抱きしめられていた。

幼稚園児だった僕はそれが冗談だとわからず、本気で怯えていた。だからいつも前川さんちに遊びに行くというと母親の近くにまとわりついてしがみつくようにしていた。

大人になってから前川さんに会ったのは、僕の結婚パーティーと、父親の葬式だった。

葬式が始まるよりずっと早くに前川さんは式場にやってきた。挨拶に向かうと当然父親の話になり、前川さんは「あいつは見栄っ張りだから病気になってからまったく連絡をよこさなくなって」と言って、目を赤くした。僕も父親の見栄っ張りにはほとほと呆れ果てていたので、こうして共通の想いで父親のことを語れるがすごくうれしく、ずっと父親を肴に話したかったのだけれど、すぐに葬儀場の人に呼ばれて控室に行くことになってしまった。

その前川さんから一昨日電話があった。面会可能になった母親の病院のことを聞かれ、予約の仕方を伝えた。

電話を切ろうとすると、「おじさんは、ツグと会いたいんだよ」と言うのだった。なんだかわからないけれど、僕はすぐに承知して、今夜、前川さんの家に足を運んだ。

前川さんの家に行ったのは40年ぶりだろうか。この家の上棟式には高所恐怖症の前川さんが棟上げに上がれず、僕の父親が餅を撒いたのだった。

庭に大きな柿の木があり、真っ赤に実った柿がたわわになっていた。その庭先でおばさんが僕が来るのを待っていた。「いい男が歩いて来たと思ったら、ツグだったよ!」と抱きしめられる。

家にあがってお茶を飲んでいると、おじさんとおばさんがご飯食べに行こうと言い出して、二人が通っている地元のお寿司屋さんのカウンターに座った。

「ツグが好き嫌いがいっぱいあるのは知ってるから好きなものだけお腹いっぱい食べなさい」と言われ、僕は穴子やら煮はまぐりなんかをぱくぱく食べた。

おじさんとおばさんとは、うちの父親と母親の話を思う存分した。そこには僕の知らないエピソードがいっぱいあって、天井を指さしながら「親父が余計なこと話すなって怒ってるぞ」と笑い合った。

すると前川のおじさんが、僕の目を見てこんなことを言い出した。

「ツグ、君はすごい人間の匂いがするな」

散々食って飲んで、一緒にバスに乗って帰った。おじさんとおばさんは来週、母親に会いに行ってくれる。

別れ際、「ツグはうちの子なんだから、困り事があったらいつでも相談に来なさい」と言われる。もう、「うちの子」と言われてもまったく怖くなかった。

11月20日(月)本が売れるということ

9時出社。金曜日は静岡に行っていたので3日ぶりの会社。身体はすこぶる軽いが、仕事はたまっている。

まずは『おすすめ文庫王国2024』の事前注文〆切前の改めてのご案内を作成し、書店さんへFAXやメールを送信。

そうこうしているうちに浜田から確認を迫られた「本の雑誌」1月特大号の定期改正分の確認。それが済んだらすぐにデータ化し、搬入連絡表とともに取次店さんにメールを送る。

年末を感じているうちに14時となり、営業に出かける...も御茶ノ水駅に着いたところで、事務の浜田から「杉江さん、戻ってきてください」と連絡あり。

登った坂を下って会社に戻ると、「神保町 本の雑誌」の追加注文が立て続けに届いたので直納すべしとのこと。

3軒60冊。袋に詰め両手に20冊ずつで40冊。トートバックを肩にかけ15冊。リュックに5冊で合計60冊となる。約20キロ。久しぶりに足が地面に減り込む。163センチの身長が155センチくらいになっているだろう。

明大前の坂を一歩ずつ登っていく。すぐに汗が吹き出し、両腕と手のひらがじんわり痛くなってくる。

本が売れるということは、本を運ぶということだ。10冊売れたら10冊の、100冊売れたら100冊の重みがある。データや伝票では感じられないその重さを全身で感じることこそが、本を売るということだ。

赤信号でいったん本を置く。着ていたセーターを脱ぎ、両手をグーパーし、両腕を回す。青信号になると、また本を肩にかけ、両手に持ち、一歩ずつ歩む。

その先に待っているのは本屋さんであり、読者である。

11月17日(金)「いらっしゃいませ」ではなく「いらっしゃい」

 5時起床。妻を起こさぬよう支度して、雨降る中カッパを着て自転車を走らせ、武蔵野線、京浜東北線を乗り継ぎ、8時57分東京駅発こだま711号に乗車。こだまなど空いているかと思ったものの、指定席はほぼ埋まっており、旅行に行く人多し。実際、熱海でたくさんの人が降りていた。

 10時34分掛川着。本日第一の目的地はここから天竜浜名湖鉄道に乗り換えねばならぬが、その駅がわからず右往左往する。後々考えるとJRからの乗り換え口があったものの、それを確かめずに改札を出てしまったのが間違いだった。そして駅舎も電車も想像しているよりずっと小ぶりで、見つけるのに苦労したのだった。

 自販機で280円の切符を買ってホームに入ると1時間に2本の電車が10分後に発車するところだった。一両編成の電車に乗り込むも、帰りのことが心配になる。

 一駅、二駅はまるでバス停のように近くに停まったので、これは歩いて掛川に戻れるのではと思ったところで、三駅目の目的地・桜木駅まではぐっと距離が開き、歩いて帰るのをあきらめる。

 桜木駅下車。旅情あふれる無人駅。わが営業史上初、かも。まずは時刻表にて帰りの電車を確かめる。

 地図を見て、てくてくと歩き出す。県道をびゅんびゅん車が追い越していく。10分ほど歩いて脇道へ。すぐそこに「本と、珈琲と、ときどきバイク。」の暖簾を掲げた本屋さんがある。

 お店は店主の自宅の庭先にあり、2棟の間に中庭のような空間があり、そこにはバイクが停められていた。1棟がお会計スペースに、もう1棟が本屋スペースとなっている。

 まずはレジに座っている店主の庄田さんに、『本屋、ひらく』の執筆のお礼をしてから、本屋スペースへ。約10畳ほどの建物に本がぎっしり並べられている。その店名からバイク専門の本屋さんかと思われるがそうではなく、『続・窓ぎわのトットちゃん』も並ぶふつうの本屋さんなのだった。

 なぜ『続・窓ぎらのトットちゃん』や雑誌が棚に並べられるかというとこちらのお店は日販の番線を持ったお店で、いわゆる通常の出版流通の中にある本屋さんなのだ。

 店主の庄田さんも日販と取引できたのは「奇跡」と何度もおっしゃっていたが、そのためにたくさんの人のご尽力があったのだろう。おかげで近所の人からの客注も多いらしい。

 井川 直子、 長野 陽一『東京で十年。 店をもつこと、つづけること』(プレジデント社)と稲田豊史『ポテトチップスと日本人』(朝日新書)を購入して、丁寧にスタンプを押されたブックカバーを付けてもらいお店を後にする。ふたたび桜木駅で天竜浜名湖鉄道に乗って、掛川に戻る。

 続いて、わが心の故郷というか、心の礎というか、心がぶれそうになった時に必ずその顔が思い浮かぶ高木久直さんのお店、走る本屋さん高久書店を訪問する。

 引き戸を開けると高木さんの「いらっしゃい」の声。「ませ」がないのがお客さんとの距離感をものがたる。まるでご近所さんか友達の家に来たかのような挨拶で、心がするするとほぐれていく。

 高久書店を訪れたのは開店の2020年2月以来。ということは高久書店の歴史はコロナ騒動とともに始まったのだ。ただでさえ書店開業など困難な道しか想像できないところへのさらなるコロナの追い打ちの中、高久書店は船出したのである。

 しかし船長である店主の高木さんは、人と人との距離感が広がる中、地元に根付いて、いや根付くどころか地元の中心となり、高久書店を立派に営んでいるのだった。

 この日も来るお客さん来るお客さん、親しみを込めて名前を呼んで応対し、またお客さんの方もすっかり高木さんを信頼して本の問い合わせをしたり、あるいは畑の収穫物を手渡したりしている。

 人間関係の先に商いがある、という様子をまざまざと見せられ、こんな商売ならば私もやってみたいと思ったのだった。

 1時間ほど話し込み、田尻久子『橙書店にて』(ちくま文庫)を購入して、限定の牛乳石鹸のカバーをしてもらいお店をあとにする。

 駅に戻り、ちょうどすぐきた東海道本線に乗り込み、次なる目的地、静岡を目指したのだった。

11月15日(水)母親とじゃりン子チエ

  • じゃりン子チエ(34) (双葉文庫 は 04-92)
  • 『じゃりン子チエ(34) (双葉文庫 は 04-92)』
    はるき 悦巳
    双葉社
    792円(税込)
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子どもの頃、本は読んでなかったけれどマンガはたくさん読んでいた。

世代的にジャンプが大変な部数に向かっていくところだったか。「キン肉マン」「北斗の拳」「こち亀」などなど毎週その話の行方が気になるマンガが掲載されており、月曜日には家から歩いて30秒のところにあった10坪もない本屋さんに駆けていっていた。

マンガ週刊誌を買うだけでなく、もちろん単行本も買っていた。初めて覚えた掛け算は360の段かもしれない。360円、720円、1080......。その月のジャンプコミックスの新刊の欲しい点数によって、握りしめていく金額が違った。

そうやってマンガを買いに行く時にいつも母親に言われていたのが、「『じゃりン子チエ』が出てるか見てきて」だった。

母親も本は読まないけれどマンガを読む人だった。僕が買ってきたマンガの中で気にいるマンガがあると僕が読んだ後に持っていき、枕元にはいつもマンガ本が詰んであった。

あの世代の人がどこでマンガを知ったのだろうか。いやもっと不思議なのはどこで「じゃりん子チエ」の存在を知ったのか。そして東京生まれ東京育ちの母親がなぜにあんなに「じゃりン子チエ」が好きだったのか。

「じゃりン子チエ」の最終巻が出たのが何年だか覚えてないけれど、僕が家を出ても「じゃりン子チエ」の新刊が出たら買って実家に届けるということが続いていた気がする。そして母親は「じゃりン子チエ」を何度も何度も読み直しながら歳を重ねていった。

そんな母親が5月に倒れ、長期入院になった時、僕が初めてお見舞いに持っていったのは「じゃりン子チエ」だった。

きっと暇を持て余すだろう。そんな時にいつも読んでいた「じゃりン子チエ」があればいい暇つぶしになるだろうと思ったのだった。

ひとつだけ懸念したのは、脳梗塞の影響で左手が動かないということだった。片手でマンガを読むことができるのか。できなかったとき母親はもう「じゃりン子チエ」も読めないのかと落ち込んでしまうのではないかと思ったのだった。

そんな心配は意味がなかった。そもそもマンガを読む気力が湧いて来なかったのだ。持って行った「じゃりン子チエ」は、ロッカーに入れられたまま転院するまで取り出されることがなかったのだ。

リハビリ病院に移り、三ヶ月が過ぎて、やっと面会が可能になった。これまでコロナの影響で、一切面会を受け付けてくれなかったのだ。

面会可能になって、僕はすぐに予約の電話を入れた。三ヶ月ぶりの母親の様子を心配しながら病院に向かうと、母親はとても元気になっていた。車椅子を右足で操作して、ツツツーと廊下を移動すると、自分の部屋に案内してくれたのだった。

陽の差し込む窓際のベッドの枕元に「じゃりン子チエ」があった。転院する時にその一冊だけ鞄に詰めて持っていったのだった。

「あれ? じゃりン子チエ読んでるの?」と訊ねると、「これ一冊しかないから何度も何度も読んで覚えちゃった」と母親は笑った。

車椅子を動かせるようになったこと、トイレを一人でできるようになったこと、病院で友達ができて楽しそうにしていること、そんなことより僕には母親が「じゃりン子チエ」を読めるようになったことが一番うれしかった。なせならそれは僕が小学生のときの母親の姿だからだ。

11月14日(火)邪念や感情を捨てて目指すこと

 9時半に出社。

 急いで11月刊行の新刊、北村薫『神様のお父さん』の新刊〆作業。今回はトーハンの「en CONTACT」の事前注文を忘れずに吸い上げることに成功する。いつも注文データをアップロードするときに気づき、データを作り直すという二度手間をしていたのだ。大いなる進歩。

 午後、矢部潤子さんが出版流通学院で講演されるということで、その司会進行のため日販のイベントスペース「オチャノバ」へ。

「誰が本を売るのか」と題して、矢部さんの本を売るということの具体的な方法やスタッフ教育についてお話いただくが、矢部さんの話は、とにかくお客様に本を買ってもらう、という目標・目的に収束するのだった。

 ふと思い出したのは先日訪問した日本橋のタロー書房で、大ベテランの店長Sさんからお話を伺った際に、書店の厳しい現状について話された後に、私に向かって「売れる本を作ってくださいね」と頭を下げられたのだった。

 本屋さんが「お客様に本を買ってもらう」という一点に集中しているならば、出版社である私は「売れる本を作る」ということ一点に集中しなければならない。

 邪念や感情を捨て、そこのみを目指していこう。

 帰宅すると、今朝あげた図書カードで、娘がたくさん本を買ってきていた。

 その中に角田光代さんの『対岸の彼女』があったので、「父さん、その上から2番目に積んである作家さんと飲んだことがあって、「杉江さん、お寿司は無理して食べないでいいけれど、ピザは食べられるようになった方がいいと思う」って真顔で言われたんだよ」と自慢げに報告したところ、尊敬と侮蔑の半々の眼差しを向けられる。

11月13日(月)いつか新宿書房のような本を作りたい

  • 黒と誠 ~本の雑誌を創った男たち~(3)
  • 『黒と誠 ~本の雑誌を創った男たち~(3)』
    カミムラ 晋作
    双葉社
    1,430円(税込)
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 この間の日曜日にルヴァン・カップ決勝で負け、水曜日には予選突破をかけるACL予選で逆転負けを期し、念願のJリーグ制覇に向けた昨日の神戸戦では埼スタのコンクリを地団駄踏む敗戦となった。

 後世語り継がれる「最悪の8日間」を過ごしたのだが、今朝起きてみれば名将スコルジャ退任の報が飛び交い、「悪魔の9日間」になっていた。

 父親が死んだ翌週も会社に出て平然と仕事をしたのだが、今日はもう無理だった。私ももう50過ぎだ。ひとつやふたつの苦しみは乗り越えられる。しかしここまで立て続けに苦しみが押し寄せては、もう立ち上がることもできない。

 いくつか届いていた仕事のメールに返信する気力もわかず、スマホを放り投げ、薄明かりの差す天井を見上げる。

 会社に行きたくない。とても行けるメンタルではない。

 しかし先週木曜金曜と福岡へ出張に行っていたため仕事が溜まっており、行かないわけにはいかない。満身創痍の浦和レッズに今季まだ試合があるように、私にも仕事あるのだ。

 魂をかき集め9時に出社してみれば、やはり仕事は山盛りで、浦和レッズのことを忘れて、と言いたいところだけど、時折ため息とスコルジャの続報と誤審の確認をしつつ、バザバサと処理していく。

 2時頃どうにか目処が着いたので昼飯に出かける。あまりの寒さに光華飯店に飛び込み、ワンタンと半チャーハン。私にはもう麺は不要なのだ。

 3時にK出版社のYさんがやってくる。出版四方山話。

 そうこうしているうちに東京堂書店さんから『神保町 本の雑誌』の2度目の追加注文が届く。50冊を両手と肩にかけ、直納。累計250部。ご当地本の売れ方のすさまじさに慄く。

 17時デスクワークを終えたので、丸善御茶ノ水店さんを訪問。こちらでも『神保町 本の雑誌』がバカ売れ中。

 担当のSさんとフェアや売り場の話などしているうちにやっと気持ちも上がってきて、結局、私は本屋さんに救われているのだ。

 上野まで歩いて京浜東北線に乗って帰宅。群ようこ『こんな感じで書いてます』(新潮社)を読む。椎名さんのことを「編集長」、目黒さんのことを「社長」と書いているのに胸が熱くなる。

 胸が熱くなるといえば、完結となったカミムラ晋作さんの『黒と誠 〜本の雑誌を創った男たち〜』の第3巻である。この巻末についている元本の雑誌助っ人であり、『黒と誠』の担当編集者でもある山沢くんの「編集後記」は涙なくして読めない。

 彼はここにも書かれているとおり、アルバイトを始めるとともに自転車で日本縦断の旅に出てしまうような青年であり、雇う側の我々としたら「なんだ? なんだ?」であったのだけれど、まあ来るもの拒まず、去る者追わずの伝統なので、旅行を終えると平然とバイトにやってきたので、そのまま働いてもらっていたのである。

 ただしそれほどの本の雑誌社への熱さも感じず、ただ出版社志望の学生がたまたま本の雑誌社にやってきたのかと思って、こちらも変に熱くならずに、普通に接していたのだ。そしてその後、彼はしっかり出版社に就職し、雑誌編集者としてばりばり働いていた。

 おそらくこのままそれほど接点もなく過ごしていくことになるだろうと思っていたところ、3年ほど前に『社史・本の雑誌』(椎名誠『本の雑誌血風録』と目黒考二『本の雑誌風雲録』)を漫画化したいと言って来たから驚いたのだった。さらにそれを『黒と誠』として実現したのだから、これはそんじょそこらの驚きどころではない。

 その山沢くんがこんなにも「本の雑誌」を愛していたのか、そして私と同様、椎名誠、目黒考二ら「本の雑誌」によって人生を変えられていたのかということを、この「編集後記」を読むとわかった。

 これを同志と呼ばずになんといえばいいのか。山沢くんがたどり着いた「本の雑誌とは?」の答えに、私は号泣したのだった。

 憧れの出版社、新宿書房が出版活動を終えたらしく、今後その出版物を港の人が販売するとのことで、4冊ほど注文し、代金を振り込む。いつか新宿書房のような本を作りたい。

11月5日(日)健康の不思議

 ふて寝から6時に起床。大阪に何かのコンサートに行く娘を駅まで送っていく。その足で実家まで車を走らせる。

 一昨日も掃除にきたのだけれど、両親が健在なうちにこれくらいの頻繁で顔を出していればよかったのにと思うものの時すでに遅し。本日の実家訪問は年間ベスト本を選びにきたのだった。

 自宅の寝室が本で埋もれてしまい、せめてもの慰みで読み終えた本をせっせこ実家の本棚に運び込んでいる。だからここにきて背表紙を眺めないと読んだ本を思い出せないのだった。父親に線香をあげ、その香りで心を鎮め、本棚からベスト本を選りすぐる。

 9時に帰宅。本日は町内会のゴミ拾い。優勝はどこにも落ちてなかった。

 ゴミ拾いを終えたのち、再来週、出版流通学院で講師をされる矢部潤子さんのレジメ&資料作成に勤しむ。

 3連休最終日なので華やかな昼食にすべくヤオコーにお弁当を買いに行く。お弁当とともに資料作成終了を寿ぎ、「あずき香る 粒あんおはぎ」も購入する。ヤオコーのおはぎは日曜の午後を激烈に豊かにしてくれる。

 午後、ランニング10キロ。走りながら先日会った中学、高校の同級生を思い浮かべる。

 ほとんどみな、高校卒業時から10キロ、20キロ太っており、もはや走るどころか歩くことすら億劫がっていた。かつては野球部やバスケ部でバリバリ活躍していたというのに今では都内のたった一駅を歩いたことを自慢しているのだ。

 今、同級生の間でサッカーをやったり、10キロ、20キロ走れるのは私だけだ。中学生時代は持久走大会をボイコットし、高校はマラソンのないところ選んだ私が一番体力があるのだ。もしかしたら私はあのとき体力を温存していたのかもしれない。

 人生というのは不思議なものである。

 ここはひとつ同級生を見下し、サッカー部でレギュラーになれなかったコンプレックスを解放し、承認欲求を満たそうと考えたものの、その前にちょっと気になることがあったので、訊いてみることにした。

「ねえ、健康診断受けてる? どんな薬、服用されてる?」

 ところがである。誰もが健康診断を受けているものの、それほど悪い数字が出ているわけではないらしいのだ。

 コレステロールがちょっと高めとか、腹囲を注意されるだけとか。それどころか「痛風って痛いらしいねえ」と他人事のように宣っているのはどういうことだ。

 健康というものは不思議なものである。

 不健康なランニングを終え、シャワーを浴びたのち、ベッドに寝転がって読書。特には面白くなかったので書名は記さず。

 晩御飯はさつまいもの天ぷら。

11月1日(水)友達

 僕の部屋は溜まり場だった。小学校のときから僕が結婚して家を出ていくまで、毎日誰かが来ていた。夜遅くまで、いや朝まで部屋で大騒ぎしていたけれど、いまになって思えば、それを許してくれていたのは両親の優しさであり、どれだけ感謝してもしたりないのだった。

 その優しいひとりであった父親が死んで、誰にも伝えてなかったのにどこかから聞き及んだ友達から飲もうと連絡があった。

 8月の暑い最中に神宮球場の外野スタンドに集まり、中学、高校の同級生と酒を飲んだ。10年、20年ぶりに会った友達は何も変わらず、そして会って数秒で元の関係になっていた。

 それ以来、毎月集まるようになった。会いすぎのような気がするけれど、僕が結婚して家を出るまで毎日一緒にいたのだから、これでも寂しいくらいだ。

 今夜も森下のもつ焼き屋に集まり、アホな話ばかりして酒を飲んだ。そんな中、仲間のひとりがポツリと漏らした「俺たちみんな努力する才能がなかったよね」というのはまさしく的を得ていた。

 誰も出世もせず、一流にもなれなかった。でも、それでいい。それがいい。

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