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12月17日(日)古甲州道を歩く(府中〜小宮)

5時起床。前日から用意していた服を着て5時半に家を出る。真っ暗。ライトをつけて自転車で駅へ向かう。5時59分発の武蔵野線に乗って府中本町へ。

西国分寺駅でお客様救護のため若干遅延したものの無事府中本町に到着。

駅すぐのファミリーマートでコロッケパンとカフェオレを購入し、大國魂神社の参道で食べていると、待ち合わせの相手である高野秀行さんからLINEが届く。

電車を乗り間違えて6分ほど遅刻するという。しばらくするとまたLINEが届き、さらに乗り越して11分遅刻になるという。初めて訪れる海外ならまだしもここは高野さんもよく来ている府中なのだった。

約束の時間から15分遅れて全員集合となる。本日は高野さん、小林渡さん、私の辺境チャンネル軍団で、古甲州道を歩くのだった。大國魂神社にお賽銭を投げ入れ、旅の無事を祈って、甲府に向けて歩き始める。

と、早速、渡さんが武蔵国の国府について語り出す。渡さんは知らない土地に行ったら必ず図書館に行き、郷土史を読み漁る蘊蓄好きで、歴史、地理、地形各方面から様々なことを教えてくれるのだった。

そうすると高野さんがその話を受け、世界との比較で、別の国の様子を話だす。ブラタモリどころでない「ブラワタカ」の話に無知無教養の私は思わず次から次へと質問をすると、それにさらに明確な答えが返ってきて、いやはやこれはまさしくシニア向けの散歩大学なのではなかろうか。

それにしてもワタカの二人はどうしてこんなに物事を知っているのだろうか。それはきっと子どもの頃から「どうして?」という問いを立てて、それを知るために本を開いたり、人に聞いたりしてきたからだろう。勉強ということを記憶することと勘違いしていた私とはまったく違うのだった。

ほとんど休憩も取らずてくてく歩き、尽きぬ会話をしているうちに11時過ぎに、八王子の小宮に到着。山田うどんがあったのですき焼き風うどんを頼む。予定では拝島まで歩くつもりだったのだけれど、ビールの誘惑に勝てず、本日はここで終了となる。

小宮駅より電車に乗って、2時に帰宅。

12月7日(木)高野秀行さんから教わったこと

9時半出社。昼までデスクワークをして、午後はリハビリ病院に入院している母親のお見舞いへ。

土日に行ければいいのだが、病院の面会が平日に限られ、しかも予約制の30分のみなのだった。それでも10月まではコロナの影響で面会もできなかったわけで、母親の顔が見られるようになっただけマシなのだ。

というわけで春日部の病院に向かったわけだが、その病院の入り口でケアマネジャーさんと待ち合わせる。1月中にこの病院を出なければならず、その後のことを母親とともに話し合うのだった。本来は兄貴が母親の介護を検討するはずだったのだけれどその方針で噛み合わず、急遽、私がすべてとりおこなうことになったのだった。

受付を済ませ、病棟に向かうと母親はちょうどリハビリをしているところだった。私の息子のような胸板の厚く肩幅のある若くてハキハキとした理学療法士さんと立ったり、杖をついて歩く訓練をしていた。

母親は私の顔を見ると、「あんたどうしたの? わざわざ休んできてくれたの?」と笑みを浮かべる。

私も52歳で、考えてみれば仕事ができる年月はもう限られたものなのだった。だからその残りの年月は子育てもひと段落したものだから、これまでの集大成というか、これまで成し遂げることのできなかったことに邁進しようと考えていた。たとえば10万部を越える単行本を作るとか、「本の雑誌」の部数を倍増させるとかだ。

しかし実際にこうして50を過ぎ、子育てはほぼ終了となってみると、突然親の介護が始まったり、父親の相続やら実家をどうするのかなど、仕事以上にシリアスな問題に囲まれ、邁進するどころか後退の一手なのだった。このままいくと、いつか仕事で本気出すと思っていたものが、本気を出さないまま定年を迎えそうだ。

母親に今後の希望を聞くと、できることなら自宅に帰りたいという。そりゃあそうだ。誰だって住み慣れた環境で暮らしたいし、隣近所には友達がたくさんいるのだ。しかしそうは言っても左半身に麻痺が残り、現状車椅子と掴まり歩きの母親をひとり住まわせることもできない。

ついに私は覚悟を決めなければならない。10万部も「本の雑誌」倍増の夢も捨てなければならないかもしれない。あるいはプロフェッショナルな仕事師にいつかなりたいという目標も捨てなければならない。

いや本当のことをいえばそもそもそんなものになれるほど夢中で仕事をしていたわけではないのだった。浦和レッズやその他諸々のその日楽しいことに心奪われながら日々暮らしていたのであって、100%仕事に精力を注ぎ24時間戦っているプロフェッショナルなんて憧れでしかなかったのだ。私は勤務時間の8時間すら戦えず、ドトールでやたらハーフタイムを過ごし、それでいてロスタイムは0分のしがないサラリーマンなのだった。

病室に戻り、ベッドに腰掛ける母親を中心に、ケアマネジャーさんと理学療法士さんと話す。

ケアマネージャーさんからは、これだけ回復しているならばヘルパーさんやデイサービスを利用して自宅で暮らすこともできるだろうとアドバイスいただき、また理学療法士さんからは自宅や通院してリハビリを続けることも可能だと言われる。

ずっと前から僕の中では出ていた答えを初めて母親に伝える。

「母ちゃん、おれが一緒に住むから、家に帰ろう」

こうして私は来年から実家に単身赴任することが決まったのだった。

「実家に単身赴任」というとなんだか愉快な気持ちが湧いてきて、さまざまな不安が消えていく。こうしてユーモアを携えてピンチを乗り越えることを、私は高野秀行さんから教わったのだった。

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