2月13日(火)古甲州道その3
6時15分の武蔵野線に乗り、西国分寺、立川と乗り換え、7時53分に武蔵五日市駅に降り立つ。立川で待ち合わせしたにも関わらずなぜか先に着いていた高野秀行さんと合流し、先月ここで終了した古甲州道歩きを再開する。
本日は武蔵五日市駅から途中山道を歩き、檜原村の数馬というところまで歩く予定だそうだ。その工程はすべてAISAの小林渡さんに絶大な信頼を寄せてお任せしているので詳細はわからない。しかし一週間ほど前に「雪が残ってるかもなので軽アイゼンを持ってきてください」とLINEが届き、慌ててモンベルに行き購入したのだ。
驚くほどの晴天に恵まれ、快調にスタートしたのだけれど、檜原街道には歩道の設置されていないところが多く、しかも思ったよりも交通量がある。トラックがびゅんびゅん脇を通り越していき、恐ろしいのだった。さすがにこれは「軽アイゼン」では対応できないらしく、私が先頭を歩くことで対応するらしい。真正面からやってくるトラックに対して全身で存在感を示しつつも身を縮めるようにしてやり過ごしていく。
そういえば先日、あれは確か古書会館での即売会で、瓜生卓造『檜原村紀聞 その風土と人間』(平凡社ライブラリー)という本を買い求めていたのだ。積読になってしまっているけれど、これは帰宅したら紐解かなくてはならないなんて考えているうちに山歩きの入り口である払沢の滝に辿り着く、と書きたいところだが、ここに着くまでにすでに3時間近く歩いており、そらそろ一杯やってもよい頃合いかと思うが、渡さんは目を合わせてくれない。
さて、山である。山を歩くのは父親に連れられて日光の鳴虫山を登った小学校一年生以来46年ぶりである。となると心配されるのはすっかり中年となってしまった体力なのだが、体力に関してはもう10年以上毎週40キロはランニングしているので問題なしであろう。
しかしそんなことより明確でくっきり大きな問題が聳え立つのである。
私は高所恐怖症なのだ。
おそらく後天的なものだとおもうのだけれど、宮田珠己さんとの旅行先で訪れた妙義山でそれは発症したのだった。
ヘンテコなかたちの妙義山をするする登っていく宮田さんの後を追いかけていたのだが、見晴らしのよいところに出た瞬間、肛門がぎゅーと引き締められ、膝が震え、腰も抜けてしまい、その場に座り込んでしまった。もちろん目はつぶるか上を見るかしかできない。
これはどうしたことかと思ったら、宮田さんは大笑いしてこちらにカメラを向けているのだった。
あれ以来、私は高所恐怖症なのである。
で、今回の山歩きである。ガイドをつとめる渡さん曰く「最高で1000メートルくらい」とのことで、それは本の雑誌社のある五階ですら肛門がぎゅっとする私にとって立派な高所である。しかも渡さんは「尾根道です」というのであった。山に登らない私でも尾根道というのは両側が切り立った道であることはわかる。ということは右を見ても左を見てもそこは崖。果たして私はそんなところを歩けるのだろうか。
結果的にいうと積雪のせいか道は尾根から若干下にできており、常に左には微動だにしない壁があり、私の高所恐怖症が発症したのは頂上のようなところに出た一度きりだった。その時は写真撮影をする高野さんと渡さんを放っておき、私はまるで宅急便のお兄さんのように先を急いだ。
それにしてもである。歩いても歩いてもゴールに辿り着けない。渡さんは「あと30分くらいですねー」というのを2時間前から繰り返している。
遭難するような道行きでもなく、そこかしこに立っている標識も間違いなくこの道を指している。おかしいのは渡さんの言動だけだった。
どうやらわれわれ(高野さんと私)は、たぬきでなく、渡さんに騙されていたらしい。あとから聞けば、先の旅程を考えるとどうしても数馬まで行きたかったらしい。しかしその距離を伝えると私と高野さんから埼スタゴール裏なみのブーイングを浴びること必至で、そのために「数馬のバス停の前に酒屋があります」と桃源郷かの如く飴をぶら下げ誘導したのであった。
その結果、われわれは8時間、4万歩、約30キロ歩き数馬に到着。第三回古甲州道歩きは無事終了したのであった。
家に帰ると娘から「仕事しろ」と叱られた。