3月28日(木)その人間以上の本は作れない
休みをとって、母親の特別障害者手当の申請のための診断書をお願いしに病院へいく。
当初、往診をお願いしている病院で書いてもらえるはずだったのだけれど、病院と市役所の意見が二転三転し、結局、半年ほどリハビリをしていた病院で書いてもらうことになったのだった。今日は市役所で渡された特製の診断書を持ってお願いにあがる。
いったいどれほど時間を浪費しているのだろうと思わないわけではない。この診断書の件だけでも、すでに市役所と病院を二度ずつ訪れているのだ。その度に、半日、あるいは一日仕事となり、時間とともにメンタルも削られていく。
こうした手続きはもちろん、私が週末のたびに母親を介護施設に迎えにいき、土曜日曜をともに実家で過ごすことを無駄に感じる人もいるだろう。
もう数年もしたら死ぬ人のために、50代の働き盛りの、あるいは子育てのひと段落した大切な時間を費やすことを、なんてもったいないと思うのも無理はない。私自身も時にそう思わないわけではないのだから。
しかし、私が作って売っているのは、「本」なのだ。
本とは何かといえば、人が発した言葉の集積である。では、言葉とは何かといえば人の考え、想いである。ならば間違いなく、本にはその人自身のすべてが宿ると思うのだ。
別にそれは本に限ったことではない。ラーメン屋さんだって、それを作っている料理人のこれまで歩んだ人生が、その店、その味につまっているのだ。
きっと私が足繁く通っているラーメン屋の店主は、家族や友達を大切にしているはずだ。そうでなければ、あんな味は出せないし、居心地のよさは生まれない。
ならば、「本の雑誌」や私が作る本に、私の人生が反映されてもおかしくない。なにせ料理以上に人というものがダイレクトに反映される商品なのだから。いや、本とは人そのものなのだから。
その人間以上の本は作れない。その人間以上の雑誌はつくれない。その人間以上の営業はできない。
おれはいったいなにをしてるんだろうなあと、担当者不在で午後まで待たされた待合室で、そんなことを考えていた。
いつか、この日を過ごしたことが、本として、雑誌として、営業として、そして、人として、どこかにあらわれるはずと信じている。
小川祥平『ラーメン記者 九州をすする! 替え玉編』(西日本新聞社)を読了。