6月9日(日)週末実家介護生活21週目
午前中、父親の墓参りをして、1時間ほど車椅子を押しての散歩。すっかり土日の日課が決まり慣れてしまったものの、散歩を終えて昼飯を食べた後、母親とふたりきりで薄暗いリビングで過ごす午後の時間がたまらなく苦痛なのだった。
ただソファに寝転んで本を読み、ときおり庭を眺める母親の様子を伺うだけなのだが、なかなか時計は進まない。息苦しさのあまり二階にあるかつての自分の部屋でため息をついたりしている。
まったく50歳も過ぎて、母親ひとりの面倒も見れないのかと情けなく思いつつ、先週散歩の途中で会った母親の友達の言葉が頭をよぎる。
おばさんは、よちよち歩く母親を見て、「あらーそんなに歩けるようになったの? もうつぐちゃんを解放してあげなさいよ」と言ったのだった。
そして昨日来た母親の親友からは、「つぐちゃん大丈夫? 自由な時間ないんじゃない?」と心配されたのだった。
言われて見て改めて私は、囚われの身であり、自由でないのかと考えた。
たしかに週末の度に実家に来て、月曜日の朝まで過ごすのは自由ではないかもしれない。ただ、自宅に居たとしてもやることは変わりなく、ランニングをして、浦和レッズを応援して、本を読むだけだった。
自宅と実家の違いはWi-Fiが通っているか通っていないかぐらいで、だから実家ではYouTubeを見ることはない。その分、ネットから自由になれてたくさん本が読めるというわけだが、この暮らしは自由でないのだろうか。子供が小さいとき、あるいは猫がいたときもできないことはいろいろあった。そもそも自由であったときなんて私にあるのだろうか。
4時を過ぎたらシャワーを浴びて、洗濯機を回し、晩御飯の用意をする。掃除、洗濯、料理...家事は最高の暇つぶしだ。
もう少し時間をかけて凝った料理を拵えたり、ギターの練習でもしたら、私は自由になれるのだろうか。あるいは母親が死んだときに自由の意味を知るのか。
黄色い層が幾重にも重なる卵焼きが上手く焼けて私は笑う。