第4話 寅雄との距離
どういう登場の仕方なの?? すごい顔で唸るように鳴いている。でもでも来てくれたのは、とっても嬉しいよ。もうキジトラのことは忘れようって誓ったばかりだというのに、火を止め唐揚げを放置して、チュール片手に外に飛び出す私なのであった。
キジトラは窓から降りてガツガツとチュールを食べ、こんなんじゃ足りねえんだよと目を光らせ、にゃああと凄むように鳴く。
うんうんわかったよ。ゴン子用のフードを上げるとガツガツ食べる。触らせてはくれないが手の届く範囲には来てくれる。それにしても今までどこにいたのだろう。本命飼い主は別にいる可能性も、ある。
ヤギ舎の大家さんに聞いてみたのだが、納屋には来ていないとのこと。納屋で野良猫に死なれて以降、フードを置くのもやめているそうだ。お向かいさんならすぐに話してくださるし、斜向かいのお宅は猫嫌いだと思う。それじゃあもっと遠くのどこかに行っているのだろうか。まだ子猫なのに??
できれば色々な病気に感染する前に保護して獣医に連れて行きたいんだけど、なあ。キジトラ猫、オスであることがわかったので、寅雄と名付けてみる。また早いかもしれないけど、名付けたら居着いてくれるかもしれないし。 寅雄はそれから夜八時前後に台所の網戸に張り付くようになった。随分変わった登場の仕方だけど、私が台所のテーブルでご飯を食べたりパソコンを開いたりしているのを知っているのだろう。半月も来なかったくせに、毎晩来るようになった。
最初は外であげていたフードだが、少しずつ上げる場所を玄関に近づけていき、玄関ドア前、玄関三和土、そして廊下と毎日少しずつじわじわと家の中に誘導していく。ドアは全て開け放しにしていつでも逃げられるのだと安心させている。
寅雄はとうとう台所でチュールを食べるようになり、チュールの後にフード食べて、そしておっかなびっくり家の中を探検するようになった。なかなか落ち着いてくれない。ふんふんふんふんと匂いを嗅ぎながら恐る恐る家の中を歩き回り、あちこち興味津々といった風貌で眺め回す。
うっわ、きったねー家。なんだこりゃ。このたくさん詰まってる紙?の束はなんなんだろう。変てこなもんばっかりだなあ、この家......などと言っているような気がしてならない。そういえば黒猫のノアールも、家に来るようになった最初は家中を嗅ぎ回って探検していた。猫の習性なのだろうか。
あんまり見ないで欲しいなあ。飼い主としてふさわしいのかどうかをチェックされているような気にもなる。そうしてひと通り探検が終わると、ふいっと出ていくのだった。
寅雄と私の距離は一進一退。指先で顔を撫でるくらいなら触らせてくれるようになったので、我慢できなくなり抱き上げたらパニックを起こして逃げ出して行ってしまった。大反省だ。急いではいけない。
もう来てくれないかも、と心配したけれども寅雄はまたやってきてくれた。二日後には床にこてんと寝転がってくれた。ほんの一瞬だけど、一歩前進だ。嬉しい。もっと家の中でくつろいで欲しい。ここは安心できる場所なのだよ、寅雄。
季節はずんずん進んで暖かくなり、だんだんと蚊が出てきた。蚊取り線香を焚いたら出て行ってしまったので、嫌なのだろう。寅雄を家に入れてドアを閉めてみた。大丈夫。落ち着いている。出て行きたくなったら開けてあげるからねと話しかける。ご飯を食べた後、しばらくすると出て行きたそうにドア近くをうろつくので開けてやるとしばらく逡巡した後で、出ていく。そろそろ猫ドアも覚えてもらった方がいいだろうか。
黒猫のノアールが出入りするようになった時に、寝室の窓に猫ドアを取り付けた。
ネットショップでたくさん出てくる猫ドアは、基本的に屋内の部屋と部屋を行き来するためのもので、屋外と屋内を繋げることを想定したドアは売っていないのか、見つけることができなかった。しかし私の家は家と呼べるような代物ではなく小屋に近く、あちこち隙間もあるのでどうでもいいのだった。
猫ドアを窓に挟み置いて、できた隙間にウレタンボードを養生テープで貼って塞いだだけ。見てくれは最悪だし隙間風が吹き込んでくるのだが、ノアールが好きな時に来てくれるようになるならそんなことはなんでもなかったのだ。一応開いて通過したら自重でパタンと落ちてくれるので、虫が入り放題ということは、ない。
ノアールが死んでからもずっと猫ドアをそのままにしていたのは、もう一度猫に出入りしてもらいたいという確固たる意志があったわけではなく、ノアールを偲んで取り外せなかっただけだ。カタンと猫ドアが鳴ると、ああ来てくれたねと嬉しくなってトストス歩いてくるノアールを抱き上げるあの瞬間。
猫ドアから出入りができるようになったら、獣医さんのところに連れて行こうか。寅雄はいまだに台所の換気扇の隣の窓に張り付いて鳴いて来訪を知らせる。たまたま仕事で手が離せなくてもたもたしていたら、なんと自分で網戸を開けて入ってきた。
えええ??
そして私に向かって「ニャアー(流し台の上に着地したいからまな板とか片付けろよ)」と言う。いやーそこは出入り口じゃないんだけどなあ。
そして恐れていたことが発覚した。 流し台に降り立った寅雄を見ると、水色の蚤取り首輪をしているではないか。うわー、やっぱり。お前、やっぱり誰か他にいるんだ。いやなんとなくそうじゃないかとは思っていたけれど。うーん。どうしよう。
もう一人の飼い主候補は、しかし寅雄をリリースしていることから推測するに、私と同じように半野良状態で様子見しているのではないだろうか。若い世代の人なら家猫として屋内生活を徹底させるだろうから、私と同じくらいかもっと年配の方かもしれない。それと、蚤取り用の薬剤が練り込まれた首輪をつけたということは、ノミは困るけどフロントラインなどの市販駆虫薬を投与する気がない? いやでもフロントラインと両方している可能性もあるか。
実はすでに寅雄にはフロントラインをつけていた。重複してもいいのだろうか。あんまり良くないのではないか。うんうん考えて迷っていたが、翌々日に来た時にはもう首輪はなかった。外で暴れて取ってしまったのだろうか。首輪が嫌だったのかしら。はてさて、獣医に連れて行っていいものか。
私が迷っていると言うのに、寅雄はどんどん私の家に慣れていく。チュールを使って猫ドアの出入りを教えてみたところ、時々ではあるけれど、猫ドアから出ていくようになった。とはいえ登場は台所の窓に張り付きだ。自分で窓を開けて入ってくるようになったので、窓の下の着地点である流し台に物を置きっぱなしにしないようになった。そして開けた窓を閉めてくれないので虫が入り放題となる。猫ドアから入ってきてくれないかね、寅雄。
一応まだ子猫なのかもしれないと、チュールとフードの他に、人間用の粉ミルクをぬるま湯で溶いたものを少し上げてみた。よく飲んでいる。時々出汁をとった後の削り節をあげるとそれも食べる。
それからお刺身を一切れ刻んであげてみたところ、何やらご機嫌で喜び、私に親しげな態度を取るようになった。魚はなんでもいいわけではなく、カツオ一択である。マグロやタイは食べなかった。小豆島は高知が近いからなのか、カツオのたたきはほぼ通年安く手に入るし、鯛も安い。その代わりマグロは安くないし、あんまり美味しくないように思う。三崎マグロが懐かしくなる。ノアールは鯛のアラなどを煮たものも食べたが、寅雄はアラを煮たものも好きではないようだ。
これはしかし危険な兆候でもある。ノアールのようにどんどんお高い餌を要求するようになっては、こちらの財布が持たない。第一私は買い物に行くのが苦手でなるべく行きたくないのです。お刺身は私がスーパーに行く日、だいたい半月に一度くらいで勘弁してもらいますよ。
寅雄は、まっ黒猫のノアールと違って顔の表情が読み取りやすく、なかなか可愛らしい目つきなのだけど、警戒心は強めだ。家の中でくつろいで欲しくてフリースのお布団を用意して、またたびの粉を振りかけてみたりするのだけど、なかなか落ち着いてくれない。それでもだんだんとご飯を食べた後に、ぼんやりと座ったりしてくれるようになってきた。家の中、探検し尽くしたもんね......。
寅雄は慣れてきた分、部屋の中で戯れるようになって、猫パンチを繰り出してくる。目が爛々と光っている。びっくりだ。実はノアールからはただの一度も攻撃されたことがなかったからだ。家の中で眠るだけの、本当におとなしい猫だったのだ。
生まれて初めて猫からの引っ掻き攻撃をされているので、呆然とするしかない。とても痛いし、手や腕だけでなく顔も容赦なく爪を立ててくる。噛みついてもくる。両前脚で私の手を掴みかじりついて固定してから両後脚で思い切りキックしてくる合わせ技の破壊力といったらもう......。猫ってこんなに攻撃力がある動物なのか。とはいえ、おそらく寅雄的には戯れているだけで、本気で殺そうとしているわけではない。それはわかるのだが、めちゃくちゃ痛いんだが。
もう少し慣れてきたら、爪を切る方がいいのだろうか。ノアールは、筆頭飼い主であるヤギ舎の大家さんが野良猫との覇権争いに負けてしまうからと、爪を切ることをよしとしなかった。はてさて寅雄は、どうしたものか。家の中で飼うのなら爪は切りたいけれど、このまま外と行き来するなら、野良との戦いに負けない方がいいような気もする。しかし外で何を掴んだり引き裂いたりしたかわからん爪による流血は、私がやばい感染症になるリスクも大変大きいのだった。
こんなに戯れるならば、もしかして色んな人が遊ばせているようなおもちゃを試してみてもいいかもしれんと、ヒモにオマケでついてきて使っていないシュシュを結んで投げたり引いたりしてみたところ、大興奮してシュシュに飛びついたり全速力で走り回ったり。目をキラッキラに輝かせて滑り込んだりタックルしてくる。えええ、そんなに楽しいの......? これもまたノアールはほとんど遊んでくれなかったので、ものすごく新鮮。いやぁ、シュシュを捨てずにとっておいて良かったなあ。
