第1回 銭湯ハンコ作家誕生の巻(その1)

「ナンシー関 大ハンコ展」でハンコ彫りにはまる

 「銭湯ハンコ作家のとしぞーです」
 初対面でこう名乗ると、ハテナマークに満ちた怪訝な顔をされる。それは当然だ。そんな職業、私以外に聞いたこともない。そんな聞いたこともない「銭湯ハンコ作家」になりたかったわけでもないが、それでも気が付いたら10年も続けていて、今はまあ悪くないかな、と思う。

 東京都浴場組合に属する銭湯(2026年現在400余軒)にはすべてハンコが配布されており、銭湯ファンたちは「お遍路スタンプノート」という88個の印影を押せるノートを持って、各銭湯をめぐる。もちろん88個では足りなくて、これを何冊も達成し、全軒達成したら2周目3周目......などというどうかしてる人たちも存在する。そこで使用されるハンコをデザインし、納品するのが私のオシゴトという訳だ。
 東京のみならず、このシステムを取り入れようとするところが現れ、鹿児島県や福岡県からも依頼を受けるようになり、10年で300軒ほどになった。まとめて制作したところは以下の通り。
 港区、渋谷区、中央区、世田谷区、文京区、荒川区、江東区、八南支部、鹿児島県、福岡県、千葉県松戸市ほか。

これまで納品してきた銭湯ハンコの一部

 普通の会社員だった私がなぜこんなことになったのか、書けば長くなりそうだが自己紹介をかねてあえて書こう。
 きっかけは、2008年6月に渋谷のパルコPart1で開催されていた「ナンシー関 大ハンコ展」に足を運んだことだった。
 もともと彼女のファンであったし、2002年に急逝されてから最初の展示会でもあり、これは見に行くしかないだろうと会場に入った瞬間、圧倒された。
 5,000個もの消しゴムハンコに彫られた芸能人、そこに添えられた一言、文章、もう電気が走ったというか、背中の大きなスイッチがどーんと入った。
 たとえば、古谷一行さんの似顔絵に「ナイスミドル」という一言、そして『ドラマ「失楽園」、古谷一行は川島なお美に乳首を出させるための装置』などという、大御所俳優を装置扱いかよ、という一文に吹き出した。確かに1997年頃はTVで女性の裸は一部の深夜お色気番組くらいしか拝めなかった。それでもこのドラマでは乳首まで出しますぜ、という意気込みというか業界タブーに挑戦的な空気があふれていた。そのためには古谷一行氏が必要だったのだろうという考察は実に的を射ていると感心、いや感動した。

「消しゴム彫りたい、似顔絵彫りたい、やり方などわからないけどとにかく彫りたい」

最初のハンコは銭湯界の有名人・町田忍さん

 今にしてみると、そのツボのはまり方は尋常ではないし、どうかしてたのかもしれないが、わからないなりに文房具屋とか百均で道具を揃えてみた。
 しかし、ここで悩む。誰を彫ればいいのか。今更芸能人を彫っても意味がない。そこで閃いたのが、銭湯界の有名人・町田忍さんだった。
 銭湯文化協会理事である町田さんは芸能人ではないものの、メディアへも頻繁に顔を出されていたし、銭湯ファンには知名度は抜群だ。また、ナンシーさんのハンコ・コレクションにも入っていない。
 当時、足立区千住のタウン誌を作るグループに所属していた私は、グループ主催で銭湯イベントを行う際に町田さんを講師としてお招きしたり、世田谷美術館の町歩きイベントに頻繁に参加していた際の講師が町田さんだったりと、そこそこの面識があったので、まあ怒られないだろう、と甘えさせてもらったというところだ。
 添える一言はどうしよう、そうだ、町田さんの大好きな「唐破風」、そしてハートマークを入れてしまおう。デザインを決めて消しゴムと格闘した。彫り方がわからないから相当時間がかかった。
 悪戦苦闘の末なんとか完成したものの、これでいいのかおもしろいのか、ダメなのか、自信が無くてしばらくは引き出しの中にしまっておいた。
 3か月ほど経った、町田さんを含めた飲みの場で意を決してハンコを取り出した。

「こんなものを彫ってみたんですけど......」

 その時の町田さんの驚きと喜びの顔は今も忘れない。同席の仲間たちにも絶賛された。

初めて彫ったハンコ、銭湯界の有名人・町田忍さん

楽しくて銭湯仲間の似顔絵ハンコを彫りまくる日々

 この一件で調子に乗った私は、仲の良い銭湯のご主人や女将さん、ペンキ絵師さん、銭友(銭湯友達)など、手当たり次第に彫った。勝手に彫ってはサプライズプレゼントするなんてことが楽しくて楽しくて、そして腕も上がっていくので、下駄箱の鍵だとか脱衣かごだとか、あるいは昭和のホーロー看板など細かいものを見つけては彫った。

彫りまくった仲の良い銭湯のご主人や女将さん、ペンキ絵師さん、銭友(銭湯友達)

 町田さんの第二弾はかなりレベルが上がったと思うし、町田さんからのご紹介で毒蝮三太夫さんのハンコも彫った。毒蝮さんのサイン色紙にお使いいただいてるのを見たときには、ニヤニヤが止められなかった。

サイン色紙にハンコを使ってくださった毒蝮三太夫さん

 作品(と呼べるのかどうか)が相当な数になって来た頃、地元のタカラ湯さんから、ウチのロビーで展示してみない?と言われ、初めての展示を行ったところ、たまたま別件で来店されていた新聞社さんに取り上げられた。そんな偶然とか口コミで、ウチでもやらないかという銭湯さんからのお話があり、両手では数えられないくらいの展示をさせていただいた。
 幸せな日々を送っていたわけだが、その幸せは長くは続かなかった。(つづく)