【今週はこれを読め! SF編】異なる認知、現実の外側へ~キム・チョヨプ『この世界からは出ていくけれど』
文=牧眞司
韓国SFの俊英キム・チョヨプの、『わたしたちが光の速さで進めないなら』につづく二冊目の短篇集で、七作品を収録。著者は「日本語版への序文」のなかで、つぎのように述べている。
わたしたちは、見て、聞いて、触ることのできるこの世界を現実だと思っているけれど、実際には"感覚バブル(sensory bubble)"に閉じこめられて生きています。
そのバブルが弾ける、あるいは別なだれかのバブルと触れあうとき、世界がゆらぐ。それをフィリップ・K・ディックは現実崩壊として描き、グレッグ・イーガンやテッド・チャンは認知科学のアイデアを介して哲学的なテーマへと接近する。キム・チョヨプは、ディックのように強迫神経症的ではないし、イーガンやチャンほどメタフィジカルな色合いではない。主人公の人生に寄りそうかたちで、感情に訴えかける物語を紡ぎだす。過度に感傷的ではない、抑制の効いた情緒が持ち味だ。
「マリのダンス」では、ダンス講師のわたしが語り手となる。かつてわたしは、マリという娘のレッスンを担当した。マリは薬品が原因で視知覚異常症を持って生まれた"モーグ"と呼ばれる子どもたちのひとりだ。"モーグ"は神経系インプラントを埋めこむことで、外界の位置計測をおこなっている。それで通常の生活はこなせるが、視覚芸術の美しさを感じることはできない。つまり、マリは自分が観賞できないダンスを、自分の身で演じようというのだ。彼女が何を考えているのか? その謎がストーリーを牽引する。視知覚異常症の子どもたちが健常者とは異なる世界認識や価値観に到達する展開は、ジョン・ヴァーリイ「残像」を髣髴とさせる。
「ローラ」でも、通常とは異なる認知がテーマになる。主人公のローラは十一歳のときに事故に遭って、三本目の腕に激しい痛みを覚えるようになる。しかし、三本目の腕など存在しないのだ。失った手脚がうずく幻肢痛とは逆で、過剰な腕が痛むのだ。思いあまったローラは、機械の腕を移植しようと決める。「マリのダンス」にわたしという語り手がいたように、この作品でもローラの友人であるジンの観点で進む(叙述は三人称)。ローラとジンのもつれた関係が物語の焦点だ。
ふたりの人物の近いような遠いような距離感は、「キャビン方程式」でも描かれる。こちらのふたりは姉妹だ。妹ヒョンジが語り手で、姉ヒョンファの謎をさぐっていく。その謎は二重である。ひとつは研究者だった姉が取り組んでいた時間バブル(極微空間に発生する宇宙論的現象)の実体、もうひとつは奇妙な疾病を発病したのちに失踪した姉自身の身の上だ。ヒョンジは姉との思い出がある観覧車を訪れ、その場所で現在と過去とをカットバックしながら物語が進む。観覧車の回転によって、どちらの謎もひとつのクライマックスへと向かっていく。
「最後のライオニ」「ブレスシャドー」「古(いにしえ)の協約」「認知空間」の四篇は、異星が舞台だ。いずれの作品でも人間が入植しているのだが、すでに歴史が失われ、経緯不明のまま異様な環境、社会システム、文化や常識が現実をおおっている。作者が序文で指摘した"感覚バブル"にほかならない。
「最後のライオニ」「ブレスシャドー」「古の協約」では、惑星の外から訪れた者によって"感覚バブル"が弾ける。非劇的結末に至る作品もあり、静謐に締めくくられる作品もある。
「認知空間」では、ハンディキャップを負って生まれた人物イヴによって(「マリのダンス」がそうだったように)、"感覚バブル"の外にある価値観へと接近する。この作品もまた、主人公のイヴとは別に語り手ジェナがいて、ふたりの交錯した結びつきが抑えた情感を醸しだす。
(牧眞司)