【今週はこれを読め! SF編】形而上学的アンチミステリと異色の不条理SF~スタニスワフ・レム『捜査・浴槽で発見された手記』

文=牧眞司

  • 捜査・浴槽で発見された手記 (スタニスワフ・レム・コレクション)
  • 『捜査・浴槽で発見された手記 (スタニスワフ・レム・コレクション)』
    スタニスワフ・レム,久山宏一,芝田文乃,沼野充義
    国書刊行会
    3,190円(税込)
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《スタニスワフ・レム・コレクション》の最新巻。代表作『ソラリス』(1961年)と前後して発表された、ふたつの長篇を新訳で収録している。どちらも長らく旧訳が入手しにくくなっていて、読者が待望していた作品である。

『捜査』(1959年)は、事件解明が霧のなかへと紛れこみ、世界全体の謎が深まるアンチミステリだ。南イギリスの海峡沿岸の地域で、不可解な遺体消滅事件が連続する。ロンドン警視庁のグレゴリー警部補が捜査に取り組むが、いっこうに犯人の目星もつかず、動機はおろか、各事件のつながりもわからない。いっぽう、統計学者のシスは、ある法則性が生じていることに気づく。遺体消滅が起こった時刻と時刻の隔たり、場所と場所の距離、それらの積に、それぞれの時刻での気温差を乗じると一定数になるのだ。さらに、遺体が消失した場所は、イギリスのなかでも癌の罹患率が有意に低い。

 その法則性と遺体消失とのあいだに因果はあるのか? シスは自分の興味は仮説を立てることなどではなく、あくまで統計的結果だと主張する。新しい痕跡や証言、付随する事件の発生はあるものの、捜査は袋小路に入りこむばかりだ。やがてグレゴリーは〔もし世界が、私の前にばら撒かれた謎々ではなく、スープであって、そのなかでは欠片が秩序も構成もなく漂い、ときに偶然によって接着されて、何かの全体になるのだとしたら?〕と考えるようにさえなる。それに対して、彼の上司にあたるシェパード主任警部は〔もしかして、神もまた折に触れて存在するだけだと?〕と口走る。

 そんなふうにして地を這う捜査が、形而上学へと接近するのだ。この作品の魅力は、レム一流の洞察だけではない。グレゴリー警部補がめぐる街の景観、あるいはふと見かけた人物の素性についての思惟、また眠りと目覚めの不明瞭な領域での感覚......そうしたディテールの描写が、世界をモノトーンに沈みこませていく。

『浴槽で発見された手記』(1961年)は、未来社会を舞台にしている点でSFに分類できるものの、全篇に立ちこめる空気は不条理であり、小説表現においてはきわめて前衛的な作品だ。まず、物語に先立つ「まえがき」では、人類史が一度分断されたことが明かされる。世界は紙を分解する疫禍に見舞われ、あえなく文明が崩壊したのだ。それから千年以上が経過した遙かな未来、地中に埋もれた廃墟、第三ペンタゴンが発掘され、そこからひとつの手記が発見される。

 第一章から最終章までは、その手記の再録である。手記は一人称で綴られ、召喚状を受けた私が〈庁舎〉の一室へ面会に行く(行こうとする)ところからはじまる。しかし、目ざす部屋は見つからず、いきあたりばったりに彷徨う。迷宮のごとき〈庁舎〉が、この物語におけるすべての世界だ。この建物の外部でいかなる社会が営まれているか、産業や文化がどうなっているか、そもそも私はどのように生まれ育ってきたか、家族や友人はどうなのかということはいっさい語られない。

 私は偶然に入った部屋で、自分を知っているらしい素振りを見せる金縁眼鏡の老人と出会う。老人は盗聴官バッセンナックと名乗った。噛みあわない会話がつづいたのち、私はただ指示書を取りにきただけだとバッセンナックに詰めよる。すると相手はなぜか狼狽しはじめ、突如、服毒自殺をしてしまう。私は途方に暮れるばかりだ。

〈庁舎〉のなかで私が行きあたるのは、真偽の知れぬ情報、陰謀の断片的な噂、解きようのない暗号、カメラで文書を撮影するスパイ、謎めいた権限、理由のない指令、部署丸ごとの入れ替わり、ファイルを抱えて行き交う人々、銃声と静寂、集まったり分岐したりする窓のない無数の通路、夜とも昼ともつかない麻痺したような時間(腕時計はいつのまにか止まってしまった)、外科室のような部屋のなかの浴槽(そこで私は眠った)......。

〈庁舎〉のありさまはカフカ的と表現してもよいが、ひたすらノイズが増大しナンセンスなやりとりがつづくところはむしろ(レムとおなじポーランドの作家である)ヴィトルド・ゴンブローヴィッチのほうに近い。ただし、表現面にだけ着目して、作品の深層にある時代性を見すごしてはならない。ここで言う時代性とは、けっして一過的な状況ではなく、作者を含むそこに生きた当事者にとってのどうしようもないリアルということだ。訳者の芝田文乃さんは「すべては暗号だ、暗号を解読せよ」と題した訳者あとがきで、ヤン・ポトツキ『サラゴサ手稿』の影響を指摘したうえで、さらに〔レムは本作で、ポトツキとカフカとゴンブローヴィッチを隠れ蓑に、東西冷戦と諜報戦、そしてそれに先立つ第二次世界大戦とホロコーストの不条理を静かに糾弾しつづける〕と結んでいる。

 アンチミステリとしての『捜査』、混沌的不条理としての『浴槽で発見された手記』、それぞれ作品単体として傑出しているが、他のレム作品と対照して読むことで、この作者が深思していたところがより浮き彫りになる。新しい読者はもちろんのこと、旧訳でお読みになっている方にもあらためて推奨したい。

(牧眞司)

  • サラゴサ手稿 (上) (岩波文庫 赤N519-1)
  • 『サラゴサ手稿 (上) (岩波文庫 赤N519-1)』
    ヤン・ポトツキ,畑 浩一郎
    岩波書店
    1,254円(税込)
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