【今週はこれを読め! SF編】メタフィジカルSF寓話『宇宙創世記ロボットの旅』増補版〜スタニスワフ・レム『電脳の歌』

文=牧眞司

  • 電脳の歌 (スタニスワフ・レム・コレクション)
  • 『電脳の歌 (スタニスワフ・レム・コレクション)』
    スタニスワフ・レム,芝田文乃,沼野充義
    国書刊行会
    3,190円(税込)
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 本書『電脳の歌』は、トルルルとクラパウツィウスのふたり組が活躍するメタフィジカルでユーモラスなSF連作集。従来『宇宙創世記ロボットの旅』として邦訳のあった九篇に、新しく五篇を加えた増補版である。ちなみに『宇宙創世記ロボットの旅』の部分は、ポーランド原書では1965年刊行のCyberiadaにまとめられている。

 65年版Cyberiadaよりも前に、別の短篇集に収められた《トルルルとクラパウツィウス》ものが三篇あり、また65年以降もポツポツとこのシリーズが書きつづけられた。また、ポーランドでのレムの著作はいろいろな編集版があって、Cyberiadaというタイトルでも《トルルルとクラパウツィウス》シリーズ以外を含むものも刊行されている。そのへんのややこしい事情は、本書の芝田文乃「ロボットの旅、言葉の冒険----『電脳の歌』訳者あとがき」、および沼野充義「解説 トランスヒューマンが人間を逆照射する----『電脳の歌』の詩学と記憶の考古学」で詳しく説明されている。

 さて、本書『電脳の歌』は旧訳があった作品も含め、すべて新訳を起こしている。レムが捻りだした言語遊戯----ルイス・キャロルもしくはジェイムズ・ジョイス的な----を、訳者の芝田文乃さんがどのように日本語化したか、そのみごとな表現も含めて味わいたい。

 トルルルとクラパウツィウスはロボットであるが、誰かにつくられたものではなく、自由意志を備え、さまざまなものを作成・建造する知識と技量を有している。彼らが登場する連作のストーリーは寓話調だが、レムならではの科学・数学・哲学的洞察(もしくは冗談)が盛りこまれているところが独特だ。「宇宙がまだ今日ほど乱れていなかった頃......」という懐かしいような途方もないような設定と語り口は、イタロ・カルヴィーノ『レ・コスミコミケ』とも共通する。

 まず、冒頭に収録された三篇は、前述した65年版Cyberiada以前に別の短篇集に収められたもの。いずれも小品ながらレムの奇想が燦めいている。

「いかにして世界は助かったか」は、トルルルがナ行の音で始まるものなら何でも作れる機械をこしらえる。その機械に向かって、友人のクラパウツィウスが「〈無し〉を作れ」と命じた結果、とんだ騒動が起こってしまう。ジョルジュ・ペレック『煙滅』や筒井康隆『残像に口紅を』的な状況を、スマートに仕上げたとでも言えばいいか。

「トルルルの機械」でも、おかしな機械が登場する。九階建ての思考機械だが、「二掛ける二は?」という問いに「七」と答え、どのように説得してもその誤答を正しいと言いはる。とんだ駄々っ子で、しかも乱暴者なのだ。ドタバタ快作。

「大いなる殴打」は、クラパウツィウスの元へ、トルルルからの贈り物だといって自称〈望みをかなえる機械〉が訪ねてくる。クラパウツィウスはどうせトルルルの悪戯だろうと、その裏をかこうとするが......。クラパウツィウス対トルルルの化かしあいというコントのなかに、真と偽がくるくる反転する論理パズルが組みこまれている。

 つづいて収録されている《トルルルとクラパウツィウスの七つの旅》は、旧訳『宇宙創世記ロボットの旅』に相当するパートだ。《七つの旅》と銘打ちながら九つのエピソードがあるというあたり人を食っているが、この七というのはマジックナンバーというか語呂のようなものであって、本所七不思議と称しながら七つより多い怪異があるのと同様だ。

《七つの旅》作品のタイトルを列挙しておこう。

「探検旅行その一、あるいはガルガンツィヤンの罠」
「探検旅行その一A、あるいはトルルルの電遊詩人」
「探検旅行その二、あるいはムジヒウス王のオファー」
「探検旅行その三、あるいは確率の竜」
「探検旅行その四、あるいは、トルルルがパンタークティク王子を愛の苦悩から救わんがため、いかにオンナトロンを使用したか、そしてその後いかに子供砲を使うようになったか」
「探検旅行その五、あるいはバレリヨン王のおふざけについて」
「探検旅行その五A、あるいはトルルルの助言」
「探検旅行その六、あるいは、トルルルとクラパウツィウス、第二種悪魔を作りて盗賊大面を打ち破りし事」
「探検旅行その七、あるいは、己の完璧さがいかにしてトルルルを悪へと導いたか」

 タイトルだけでも雰囲気が伝わってくる。「その四」とか「その六」とか、なんだかラブレー風ではないか。そもそも「その一」にある「ガルガンツィヤン」とはあきらかにラブレー由来である。諧謔と誇張表現、冒険や知略といった内容面でも、叡智に満ちた偉大なルネサンス作家に通じるものがある。

 どの作品も愉快だが、とりわけ「探検旅行その一A、あるいはトルルルの電遊詩人」の詩を書く機械を製造するために、宇宙開闢以来のあらゆる文明の生成全体をシミュレートするという発想がぶっ飛んでいる。宇宙的事象と言語表徴とを、演算という機序を介して結びつけるというのは、グレッグ・イーガンはだしの荒技だが、レムは軽々と扱ってみせる。

「探検旅行その三、あるいは確率の竜」は、確率的な存在----いわば量子状態----である竜をめぐる騒動を描き、ちょっとルーディ・ラッカーを思わせる。

「探検旅行その五、あるいはバレリヨン王のおふざけについて」は、人格交換を扱ったロバート・シェクリイ的なスラップスティック。

「探検旅行その六、あるいは、トルルルとクラパウツィウス、第二種悪魔を作りて盗賊大面を打ち破りし事」では、巨大な顔をした盗賊(名前は大面)が、トルルルとクラパウツィウスを窮地に陥れる。大面は異常なインテリで、モノではなく、価値のある情報をすべて手に入れようとしており、トルルルは彼との駆け引きする手だてとして、〈第二種悪魔〉を作成し、大面に提供する。熱力学の思考実験で〈マクスウェルの悪魔〉というのがあるが、この〈第二種悪魔〉はそれを遙かに上まわる性能を持つ。宇宙の全情報----開闢からまだ実現していない未来に至るまで----を取りだし、記述するのだ。つまり、ボルヘスが「アレフ」で描いた球体に、無尽蔵のテキスト化機能を加えたようなものだ。こうしたアイデアをさらりと出してくるのが(しかも1960年代に)、レムの怖いところである。

 巻末の二篇「ゲニアロン王の三つの物語る機械のおとぎ話」と「ツィフラーニョの教育」は、65年版Cyberiada以降に発表されたもの。両篇ともほかの収録作よりも分量が多く、物語構成の面でも少し凝っている。

「ゲニアロン王の三つの物語る機械のおとぎ話」は、遠い星に棲むゲニアロン王の依頼によって、トルルルが物語を語る機械を三台建造する。それぞれの機械が語るのは、トルルルが登場する物語であって、その物語に登場する別な人物がまた別の物語を語る......といったふうに、何層にもわたる入れ子構造になっている。各エピソードのなかに、自己とは何か、AIをめぐる問題、仮想現実と物理現実との関係など、現代において切実なテーマが扱われている。この作品は、もともと65年版Cyberiadaに収録されていたが、邦訳『宇宙創世記ロボットの旅』では省かれていた。65年にこれらのテーマを取りあげているのは、さすがレム、先見の明である。

「ツィフラーニョの教育」では、トルルルがとても賢いデジタルマシンを作り、自分の後継者として大切に教育を施している。このふたりのやり取り(理屈っぽさと言葉遊びのキャッチボール)がつづくかと思いきや、突如、家の近くに隕石がつづけて落下し、物語が転調する。隕石には氷詰めになった知性体が二体(別々の種族)いて、それらが解凍されて、自分の種族の歴史を語りはじめる。つまり、この作品も、枠物語に内側の物語が嵌めこまれている形式だ。破格なのは、最終的に外枠の物語に帰還することなく、内側の物語を語りっぱなしで途切れているところである。未完な印象を受けるのだが、レムにどういう意図があったのだろう。

 さて、「訳者あとがき」によれば、本書『電脳の歌』に収録された十四篇以外にも、《トルルルとクラパウツィウス》ものがあと三篇あるそうだ。これらも、いずれまとまったかたちで読めるようになることを期待したい。

(牧眞司)

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