【今週はこれを読め! エンタメ編】死の近くにいる主人公の心の変化〜八幡橙『いつかたどりつく空の下』

文=松井ゆかり

 「湯灌」という言葉を知っているのは、確か祖母に教えてもらったからだと思う。その祖母は遠方で亡くなり、私は死に顔も見られなかった。私の父は職場で、母は家で亡くなったため、遺体はいったん警察に引き取られた。家に戻ってきたときには身を清められた後だったので、実際に湯灌というものが行われているところを目にしたことはない。

 本書の主人公は、「せせらぎ典礼」という葬儀社に勤める睦綾乃。肩書としては「湯灌・納棺師」となるが、人手不足によりそれ以外の業務を担当することも。仕事は主に、この道30年のベテランである川瀬民代と二人一組で行う。「せせらぎ典礼」の所在地は埼玉県の中でも特に新しいマンションの立ち並ぶ地域だが、一方で旧家も多く、「湯灌」の需要も小さくない。冒頭部分でも、5人ほどの家族が見守る中で老女の遺体を湯で清めたり、顔に化粧を施したりしていく様子が描かれている。おそらく大往生だったであろう彼女に、家族の温かい目が注がれる神々しささえ感じられるシーンだ。

 一転して、翌日の現場の描写は緊張感に満ちている。亡くなったのは26歳の青年で、自ら首を吊ったのだという。「遺体は青とも緑ともつかない色に変色し、白目を剥き、舌をだらりと伸ばしていた」という状態。それ以上に強烈なのが遺体の発する「臭い」という事実に、読んでいるこちらも怯みそうになる。命の輝きが失われた体はもはや"もの"であり、いつか自分もそうなるのだと思うと、冷水を浴びせられたような気分だ。

 綾乃は死というものの近くにいる。職業柄というだけでなく、子どもの頃からだ。祖母が亡くなって以来、綾乃は祖父と母と3人で暮らしていたが、シングルマザーの母が2万円を置いて1か月家を空けたりするような不安定さを抱えた家庭だった(母はギャンブル好きの男を連れて帰宅した)。祖父が亡くなっているのを発見したのも綾乃で、小4のときのこと。「憧れたんです。その時、死んだ祖父に、強烈に」「いいなぁ、おじいちゃんは。もう、悲しいことも、大変なことも、苦しいこともなんにもない、雲を突き抜けた広いところにいけたんだなぁ」と思ったのだという。

 小学生が死に憧れを抱く状態というのは、他に例がないわけではないが、健全とも言い難い。綾乃はそのまま大きくなって、30代後半の現在に至っている。そんな人材が葬儀社で働いているのは、壮大な皮肉か、究極の適材適所か。6年前の夏、直前に勤めていた運送会社をクビになり失業手当を受けるためにハローワークに出向いた綾乃の携帯に、母から金を無心する電話がかかってきたのだった。気づいたら駅のホームに立って、近づいてくる電車に一歩踏み出そうとしたところに、若い男がえらい勢いでぶつかってきた。電車は走り去り、ホームで尻もちをついたまま残された綾乃の目に入ったのが、「まごころのおみおくり せせらぎ典礼」と書かれた看板。そして、その隅の「正社員随時募集中」という文字だった...。

 これまでの人生においては、人間関係での苦労がつきものだった綾乃(あまりの無表情さが4本の直線で表現できるということで、「ヨコヨコタテヨコ」なるあだ名がついている)。それでも民代をはじめ、自分の祖父が亡くなったときに遺族の心に寄り添ってくれた葬儀社の仕事に魅力を感じて就職した間々田などの同僚にも恵まれ、「せせらぎ典礼」での勤続年数を重ねている。個人的には、間々田のひたむきさに胸を打たれた。プロとしてはまだまだ至らない部分もあるのだろうけれど、熱意はやはりあるに超したことはない。

 そういった周囲の人々にも支えられて最終的に綾乃が到達した心境に、私自身も安堵したし励まされた。まだがんばれる。いつかたどりつく、その日まで。

 八幡橙さんは、本書が第2作。デビュー作『ランドルトの環』は、年上の女性との恋愛にのめり込んでいく高校生を描いた作品だった。周囲には理解されないながらも甘やかな関係を描いた前作と本書では、かなりテイストが違うと感じられる読者も多いかもしれない。死というものの無慈悲さや遺体の生々しさをつぶさに表現するのは、作家として大きな挑戦だったであろう。とはいえ、ままならない感情を丁寧にすくい取る文章は、2作に共通するものだと思った。次の作品ではどのような世界を見せていただけるのか、楽しみに待ちたい。

(松井ゆかり)

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