【今週はこれを読め! エンタメ編】すべての人たちへのエール〜吉川トリコ『余命一年、男をかう』

文=松井ゆかり

 徹底した節約生活。修行僧のように禁欲的な暮らしぶり。やりくり下手で給料日前にはいつも財布の軽さに青ざめる私と、主人公・片倉唯との間に共通点などあろうはずがない。なのに、私は唯に対して「おまおれ」(「お前は俺か」の略。自分にも該当する感情や事例への共感とツッコミを表現するインターネットスラング)と共感してしまったのだった。唯と同じように、私も「他人に頼るぐらいなら死んだほうがマシ」というタイプだったから(あ、でも唯と違って、「男をかう」なんて行為とは無縁ですけど! お金があったとしても!)。

 唯は40歳、節約とキルト作りが趣味の地方都市の会社に勤める事務職のOL。徹底した節約ぶりを知る同僚の丸山さんからは「二十歳でマンションを買った女」と称される(尊敬半分、揶揄半分?)。「恋愛はコスパが悪いからしたくない」「結婚も出産も同様の理由でパス」という唯は、「楽しくなくちゃ、生きてちゃいけないんですか?」と丸山さんに問う。

 満40歳になった女性に市から配られる無料クーポンを使ってがん検診に申し込んだことが、そんな唯の運命を大きく変えた。忘れた頃に届いた所見は、「要精密検査」。安心を買うつもりで受けた精密検査の結果は、子宮がん。呆然としつつも、「これでやっと死ねるんだと安堵」する気持ちもあった。「女一人で生きていけるようには設定されていない」社会で生きることから降りられるのだと。

 そんな唯の前に現れたのが、サバのように青光りするスーツを着たピンク色の髪の男。病院のロビーとエントランスをせかせかと行き来していたホスト風の男は、会計を待つ患者が何人もいる中で唯を選んで近づいてきた。入院費が払えないために長期入院している父親が今日にも病院を追い出されるかもしれないのだと金を無心する男に、唯は「いいですよ」とクレジットカードを差し出す。驚く男。しかしおかまいなしに自分と彼の父親の会計を済ませ、「じゃあ、ホテル行こう」と唯はタクシーに乗り込む。さらにあわてる男。事に及んだ後にシーツには血のしみが。いよいようろたえる男。

 男性経験がない相手だったのだと早合点して土下座するリューマと名乗るホストに、唯は「私、子宮頸がんなの。出血は気のせい。だから、あなたが心配することじゃないのよ」と語る。返済も期待していなかった唯だったが、数日後、リューマ(本名:瀬名吉高)は退勤時間を見計らって会社の前で彼女を待ちぶせして...。

 本書を一種のファンタジーと捉えるのも、それはそれでありだろう。死の間際にたいへんなイケメンが目の前に現れ、いままで知らなかった楽しみを味わわせてくれる。たとえ対価を払ったうえでのことだとしても、自分の望み通りそばにいてくれるのだ。それに死んでしまえば、本人はもはや何も思い煩ったりせずにすむ。けれども、残される者にとってはどうだろう? そのことに気づいてしまった本人も平静でいられるだろうか? 唯の行く手に待ち受ける未来とは。

 ラストは、私が「こうなるといい」と思っていた展開と概ね一致していた。本書は恋愛小説であり、家族小説であり、唯と瀬名が全編を通じて多くのことを学ぶ成長物語だ。お互いの意見をぶつけ合うことで、また家族や同僚といった周囲の人々の影響を受けて(私は丸山さんが気に入っているが、唯の継母もなかなかいい)、自分たちがどうしたいかという意思をくっきりとさせていくのが素晴らしい。実際にはがんに限らず、苦しんでいる人の前に瀬名のような存在が現れるとは限らない(というか、現れることはほぼない)。それでも、悲しみの底にいる人がその先どうしていきたいかを考えるときに、唯と彼女を支える瀬名の発言や行動から得るものは大きいはずだ。

 『余命一年、男をかう』は、働く女子たちへのエールだとまず思った。給料格差やセクハラなどいまだあちこちにある男女間の不平等に対し、時にはチクリとやらずにいられない唯のような女子たちへの。一方で、現状を見直す姿勢を持とうとする瀬名のような男子も、増えつつあると感じる。だからやっぱりこの作品は、すべての人たちへのエールでもあると言おう。みんなひとりだ。でもみんなひとりではない。それぞれが自分の足で立ちながら、少しずつでも誰かとつながっている。「他人に頼るぐらいなら死んだほうがマシ」と思っていたって、唯だって私だって誰だって、他の誰かに助けられて生きているのだから。

(松井ゆかり)

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