【今週はこれを読め! エンタメ編】超弩級のデビュー長編〜逢坂冬馬『同志少女よ、敵を撃て』

文=松井ゆかり

 気を抜くとすぐに表現が大げさになってしまう私にとって、"超弩級の"という言葉はほんとうに"超弩級の"ものにしか使わないようにしようと心がけてきたのだけれど、今こそそのときが来た。第11回アガサ・クリスティー賞受賞作となった、新人作家・逢坂冬馬による超弩級のデビュー長編を、ここにご紹介したい。

 物語の始まりとなった1940年5月、主人公である16歳のセラフィマ(フィーマ)は、モスクワに近い故郷のイワノフスカヤ村で、母・エカチェリーナとふたりで暮らしていた。母娘は狩りで生計を立てている。近所のボルコフ家のミハイル(ミーシカ)とは同い年で、周囲からは将来結婚するものと思われていた。セラフィマは、「きっとこんな日が、いつまでも続くのだろう」と信じて疑うこともなかった。その約2年後の1942年2月、小さな村にも戦争の影が忍び寄っていた。それでも、村ぐるみの疎開までは必要ないという判断がなされたことで、村人たちもひとまずの安心を得る状況に。高等教育課程において優秀な成績をおさめたセラフィマは、村で初めて大学への入学を控えていた。自分が村を離れた後、ひとりになる母を気遣う娘に、心配ないと笑ってみせるエカチェリーナ。写真でしか顔を知らないセラフィマの父は、ドイツとの戦争から戻った後は内戦に身を投じ、帰還したものの肺を患い命を落としていた。

 狩りを終えて帰宅しようとしたセラフィマたちは、村の異変に気づく。村が見渡せる山道から母娘が見たものは、広場に集められた村人たち。彼らの目の前には、ドイツ軍兵士たちの姿が。「この村落に、ボリシェヴィキのパルチザンがいるとの情報を得た」「大人しく奴らの居場所を言え!」との問いに反論しようとした隣人は、銃であっけなく殺された。向こうからは気づかれない位置で銃を構えながら、エカチェリーナはなかなか撃てずにいたが、セラフィマは母の射撃の腕に絶大な信頼を寄せていた。そこへ鳴り響く銃声。母がやっと撃ってくれたと歓喜したセラフィマはしかし、一瞬遅れてエカチェリーナが頭から血を流して亡くなっているのを目にする。そこへ現れたドイツ軍兵士たちに、ドイツ語を聞き取れていることがばれて絶体絶命の危機に。

 死を覚悟したセラフィマに、すんでのところで救いの手が差しのべられる。駆けつけた赤軍にひとりの士官が撃たれると、残りのドイツ軍は彼女をその場に残してすぐさま撤収していった。赤軍兵士に保護されて助かりはしたものの、何を聞かれても答えられないセラフィマの前に、美貌の女性兵士が現れる。彼女はセラフィマにこう問うた、「戦いたいか、死にたいか」と。一度は「死にたい」と答えたセラフィマ。しかし、目の前で次々と自分の家の食器を壊し、そればかりか父と母の写真までも処分しようとし、さらにはエカチェリーナの遺体を焼却した女性兵士に対して怒りを爆発させた。難なく取り押さえられてしまった後、セラフィマは女性兵士・イリーナが教官を務める中央女性狙撃兵訓練校の分校に連れてこられる。そこでは、セラフィマと同じような境遇の女子たちが生活していた。イリーナを崇拝する人形のように美しいシャルロッタ、誰にでも好かれるコサック出身のオリガ、モスクワ空襲で娘たちを亡くした年長のヤーナ(ママ)、卓越した射撃の腕を持つが人づきあいが苦手なカザフ人のマヤ...。翌日から開始された過酷な訓練を経て、残った生徒はこの5人。

 村を襲撃したイェーガーというドイツ兵と、イリーナ教官への憎しみを胸に秘め、セラフィマは訓練校での日々を乗り切った。一年にも満たない期間でめきめきと技術を身につけた彼女たちは卒業試験もクリアし、イリーナを隊長とする「最高司令部予備軍所属、狙撃兵旅団、第三九独立小隊」に配属された。「どの歩兵旅団にも属すことなく、いずれの指揮下にも入らず、狙撃手専門の特殊部隊として」戦うことになった彼女たちの最初の任務は、スターリングラードを奪還するための攻防戦への参加。女子だけで組織された狙撃兵隊として快進撃を続けるようになるセラフィマたちの、最初の戦いとなった...。

 自分の国や大切な人々を守るために集められた者たちの中にも、差別や序列は存在する。男性は女性を差別し、同性同士でも出身地や階級による差別がある。男性兵士は同じ軍隊の中でも女性兵士を中傷し、敵の女性たちに暴行を働く。戦争がなければ、農村の少女が狙撃兵になることも、敵軍兵士を抵抗なく撃てるようになることもなかった。家庭ではよき夫・父・息子であった男性兵士たちが、敵側の女性たちへの乱暴を働いたりすることもなかった。どのような悲惨な状況においても自らを律し、何一つ後ろ指を指されるようなことをせずにいられる人もいるだろう。しかし、戦争は簡単に人を変えてしまうのだと、本書を読んで痛切に感じた。

 タイトルになっている「同志少女よ、敵を撃て」は、本文中にも出てくる。ああ、この場面で、こんな思いで語られた言葉だったのか。

 戦いにおいて功を立てる者や華々しく散る者は、ある種の美しさとともに語られる。だが、戦争は決して美しいものなどではない。現実の世界に登場人物たちの残酷な体験が持ち出されてはならない。セラフィマの怒り、イリーナの諦念、マヤの皮肉、シャルロッタの直情、ママの温情、オリガの反骨。実際に彼女たちのように苦しむ人々がいなくなるよう、読者がそれらから学びを得られるといいと思う。

 エピローグでは、1978年を生きる登場人物たちが描かれる。生き延びた者たちが平穏な日々を送れていることに安堵するけれども、世界のどこかではいまでもリアルに別の戦争が続いている。自分や大切な人々を守るために命をやりとりする必要のない世の中が、いつの日か実現することを願う。

(松井ゆかり)

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