【今週はこれを読め! エンタメ編】チェロとスパイと深海生物の見事な調和〜安壇美緒『ラブカは静かに弓を持つ』

文=松井ゆかり

 先ほど読み終わったばかりなのだが、本書の素晴らしさをどのように伝えたらいいのかわからない。「チェロ」「スパイ」「ラブカ(深海生物の名前)」という一見つながりを見出しづらいキーワードが、見事な調和をみせたこの作品の魅力を。

 主人公の橘樹は、全日本音楽著作権連盟(全著連)の若手社員。その日、橘は上司の塩坪から地下資料室に呼び出されていた。春まで広報部にいた橘は、資料部の新しい上司の人となりをまだよく知らない。書架の整理でも命じられるのかと思いきや、塩坪が発したのは「君、チェロが弾けるんだってね?」との言葉。

 国内の音楽著作権を管理する全著連は、数か月前に"大手の音楽教室からも著作権使用料の徴収を開始する"旨を発表していた。それに対し、世界最大の楽器メーカーであり音楽教室の運営でも有名なミカサ株式会社が中心となって結成された『音楽教室の会』が、来月全著連を提訴する見込みだという。塩坪が橘を呼び出したのは、ミカサ音楽教室への潜入調査を命じるためだった。しかも2年間。

 全著連における潜入調査は、それ自体は珍しいものではないとのこと。管轄地域のバーや喫茶店に客として訪れ、店内にて管理楽曲が不正に使用されていないかを調査することは、橘も経験したことのある業務だった。しかし今回の任務は、塩坪が所属する実地調査委員会直轄となる特別業務。楽器経験者は他にいくらでもいる中でなぜ自分が選ばれたのかと疑問を口にする橘に、「君を推薦したのは僕なんだ」と塩坪は答える。

 ここまでで冒頭の20ページほど。読者の心をぐっとつかみ、物語へ引き込む導入部だと思う。

 橘のとまどいの理由は、潜入調査そのものよりも、12年ぶりにチェロを弾くことを求められたためだった。彼がチェロを習っていたのは5歳から13歳まで。ある事件がきっかけとなって、橘がその後チェロに触れたことは一度もなかった。彼が痛手を負ったことは、チェロだけでなく人間との関わりをも拒みがちな人生を送ってきたという描写からも察せられる。それでも結局、橘は週に1回、二子玉川にあるミカサ音楽教室の旗艦店に通うことに。二子玉川店で教えているチェロの講師はひとりだけ、ミカサのWebページでもひときわ簡素な経歴しか載せていない浅葉桜太郎だった...。

 読者の興味をそらすことなく、緊迫感を保ったまま物語は進んでいく。果たして潜入調査はうまく運ぶのか。橘が遭遇した事件は彼の心にどのような影響を及ぼしたのか。「ラブカ」が暗示するものとは。

 緻密に計算されたストーリーであるのは間違いない。ただ一方で、とてもシンプルな内容であるともいえるだろう。本書は突き詰めれば、信頼というものを描いた小説だと思う。「情に流されるようなタイプでは務まらない」という理由で白羽の矢が立てられた橘だったが、浅葉や彼にチェロを習っている生徒たちで構成された「浅葉先生を囲む会」のメンバーとの交流によって少しずつ変わっていく。他者とのふれあいは胸を温める経験ではあるが、同時に橘の心に常に影を落とす要因ともなった。自分が抱えている秘密や罪悪感に押しつぶされそうになりながら、橘が最終的にどのような道を選択したのか、ぜひお読みになってみていただきたい。

 著者の安壇美緒さんは、本書が3作目。「3作目でこんなすごい本を書いてしまったらこの先どうなっちゃうの!」とビビるくらいの傑作だが、思い返してみれば1作めの『天龍院亜希子の日記』(集英社文庫)のときも2作目の『金木犀とメテオラ』(同)のときも、「こんなすごい本を書いて(以下略)」という感想を抱いたのだった。音楽や潜入活動や深海魚に関心のある方、いや、なんならまったくそそられないという方にとっても必読図書だと思います!

(松井ゆかり)

  • 天龍院亜希子の日記 (集英社文庫)
  • 『天龍院亜希子の日記 (集英社文庫)』
    安壇 美緒
    集英社
    594円(税込)
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