森博嗣の新書でうねうねしよう

文=杉江松恋

  • 自分探しと楽しさについて (集英社新書)
  • 『自分探しと楽しさについて (集英社新書)』
    森 博嗣
    集英社
    858円(税込)
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 森博嗣が『自分探しと楽しさについて』(集英社新書)という題名の本を出したと知って、いささか不思議に感じた。自分の知っている中では、森ほど「自分探し」に関心がない人はいなかったからであり、「自分探し」をしている人は森が日々の生活の中で「楽しさ」を味わっているであろうことに関心がないか、もしくは妬ましく感じているだろうと思ったからである。
 本書は森が集英社新書から2009年に上梓した三冊『自由をつくる 自在に生きる』『創るセンス 工作の思考』『小説家という職業』に関して、「沢山の人からいただいた相談メールに対して、あまり黙ったままでも失礼だろうか、多少はなにか返事を書くべきか、という気持ちで執筆したもの」だという。三部作に対して寄せられた質問を分析した結果、「自分とは何か」「楽しく生きられていないのは何か」という悩みの共通項を発見したので、それについて考えてみた、ということだろう。
 「楽しさ」について書かれた第2章の冒頭で、最初に掲げられた二つの疑問について、森は決定的な答えを出している。少し引用する。

 ──誰でもが思い描くあるべき「自分」というのは、普通は「楽しい自分」なのである。悲しいヒロインになりたい、といったやや屈折した願望は例外として、ほとんどの人は楽しい状態を望んでいる。というよりも、そういう望ましい状態を「楽しい」というのだ。「悲しいヒロイン」になりたいと願っている人にとっては、つまりそれが「楽しみ」なのである。


 この一文と、同じ章のもう少し後に出てくる次の文章が、題名に引かれてこの本を手に取った人への、「とりあえずの解答」になっている。

 ──自分が目指しているものを具体的な「言葉」や「名前」で認識しているうちは、「点」を見ているようなものだ。ものには大きさ、広がりがあり、立体的で別の面があるし、そもそも変化し続けている。その対象のどこに惹かれるのか、どうしてそうなりたいのかをもっとよく考えよう。そうすれば、自分の手が届く範囲で、それを実現するものが見つかる可能性がずっと高くなる。


 このあと森は第3章で「自分の中の排除すべきではない要素」第4章で「自分の中にある自分ではない要素」について、それぞれ別の「言葉」を媒介に使って語っているが、引用はこのくらいに留めておこう。関心を惹かれた方は、手にとってみることをお薦めする。
 まえがきに書かれているように、本書は単純な解決策を呈示する本ではない。本の中には少しばかり入り組んだ順路が用意されていて、読者はそこを通過することを求められる。それは決して無駄な作業ではなく、その順路を経由すること自体に一定の効用があるのである。やや迂遠に感じる箇所があるかもしれないが、森はつとめて平易な表現を用いて語っており、理解しにくいことはないはずだ。一緒にうねうねしてみよう。

 以下は本の内容と直接関係のない雑感である。前出した集英社新書の三部作を刊行した2009年か、もう少し前の時期から、森は著書に近影を入れないようになった。ウェブ上に日記を公開することも止め、少しずつ「作家・森博嗣」という存在を読者の前から消すようにしている。そうした「文章以外の部分」を、森は「販促品」と考えていたということなのだろう。もう十分に本が売れてしまった(売れる状態になった)から販促活動は不要になったということである。本書のあとがきにも、必要に迫られなくなったので執筆時間を削減しつつある、と表明されている。
 そうした販促活動は終了したが、逆に森は営業とは関係ない形で自身を表現しつつあるように私は思う。本書などはその好例で、大袈裟な言い方をすれば森博嗣という名前が売れたことの社会的な責任を果たすために書かれたような本である。前述したように難しい本ではなく、親切といってもいいほどのわかりやすさで書かれた本だが、中には作者らしいな、と感じる箇所が多々あって、私はちょっと嬉しかった。たとえば、こんなところ。

 ──また、「こう考えてみてはどうか」ということをここに書いていても、僕がそう考えているかといえば、必ずしもそうではない。これもまた思考の自由性である。もちろん、まるで考えてもいないことは書けないが、僕がここに書いていることは、自分に対する姿勢とは微妙に異なっている。もっと平均的な一般の人に役立ちそうな部分を、さらに一般的に展開して欠いている。僕は、どちらかというと少し変わった部類の人間だから、書いたことのなかには自分には当てはまらないことが幾つかあるのだ(後略)。


 ああそうだ。こういうのが森博嗣の自己主張だった。この箇所を読んで、なんだか懐かしい気持ちになったのである。ファンサービスに余念がない作家もいいが、一歩引いて文章のみを通じて読者と関わろうとする作家を私は好ましく思う。森博嗣の今後の活動が、またちょっと楽しみになってきた。

(杉江松恋)

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  • 『自由をつくる 自在に生きる (集英社新書)』
    森 博嗣
    集英社
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  • 『創るセンス 工作の思考 (集英社新書)』
    森 博嗣
    集英社
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