東野圭吾堂々の最新刊『麒麟の翼』

文=杉江松恋

 2011年1月3日夜に放映された東野圭吾『赤い指』のドラマ化作品で、番組の途中にテロップが流された。東野圭吾の〈加賀恭一郎シリーズ〉最新刊のタイトルを、最後に告知するというものだ。それを見て、大きな感銘を受けた。
 これはつまり「お知らせはCMのあとで」とか「応募方法は番組の最後に」とかの方式だろう。大事な情報を最後までひっぱって、視聴率を稼ごうというわけだ。いや、それ自体はTVでは普通のことなのだろうけど、その最後までひっぱっておく「ご褒美」が、「小説の題名」だったということが、意外だったのである。番組の制作者が「小説の題名」をここまで重視したというのは、ひょっとすると日本TV業界では初めてなのではないだろうか。
 その『麒麟の翼』が3月3日に発売された。前作『新参者』で日本橋署に異動になったことが明かされた加賀が、その所轄のまん真ん中、日本橋の上で起きた事件の謎を追うことになるのである。

 発端の状況を少し詳しく書いておこう。日本橋の欄干にもたれた男を発見した巡査は、はじめ彼を泥酔者と見間違えた。だが、その胸に突き立てられたナイフの柄、ワイシャツの胸に広がった赤黒い染みを認め、容易ならない事態だと知ったのである。男はただちに病院に搬送されたが、まもなく死亡が確認された。その事件発生から二時間後、日本橋浜町で不審人物に緊急配備で付近をパトロール中の警官が職務質問のために声をかけたところ、逃走。車道に飛び出してトラックに接触、頭部を打って意識不明の重体となった。この男が所持していた財布の中から、被害者のものと見られる免許証が発見されたのである。
 死亡した男は青柳武明、五十五歳。建築部品メーカー「カネセキ金属」の製造本部長の肩書きを持つ男だった。そして意識不明となった男は二十六歳、やはり所持していた原付免許証から、八島冬樹という氏名と住所が判明した。
 一見、単純な強盗殺人のようである。被害者から財布を奪おうとして抵抗され、ナイフで刺した。しかし、被疑者が昏睡状態にあって自白をとれない以上、容疑を確定するだけの決定的な状況証拠が必要になる。そのために集められた刑事たちの中に、警視庁捜査一課の松宮脩平と、日本橋署に属する加賀恭一郎がいた。二人は、約二年前に練馬署の管轄で起きた少女殺人事件でペアを組んだ間柄でもあった。

 加賀と松宮はいとこ同士の関係なのだが、松宮が加賀に対して一方的に悪感情を抱いていた時期もあった。元・刑事である加賀の父は、松宮にとっても実の父のような存在だった。その父親に対して、なぜか加賀は冷淡に接しているように見えたからだ。その父親もすでにこの世を去り、三回忌がまもなく来ようとしている。以上のような前々作『赤い指』で語られたエピソードが、本書の中でもサブストーリーとして語られ、真相追究の主筋をさりげなく補強している。もちろん前作を読んでいなくても楽しむのにはなんの支障もないので、本書を読んでおもしろかった人は、ここから逆にたどってシリーズを読んでいってもいい。前作『新参者』では、加賀が人形町界隈の町を歩いて丹念に聞き込みを行うさまが小説の一つの読みどころだったが、風情ある下町の情景は本書でも健在だ。その描写の中に真相へと続く手がかりが置かれており、文章に無駄なところがないのが好ましい。
 さまざまな社会問題が顔を覗かせている作品でもある。容疑者と見做される、八島冬樹が事件当時置かれていた状況に関する問題。彼は大企業から派遣切りに遭い、生活苦に喘いでいたのだ。また、マスメディアの報道によって事件の関係者の生活が脅かされるという場面もある。殺人という深刻な事態が、そこに関わった者の人生に予期せぬ形で影響を与えていく。だからこそ捜査陣は、犯人を早く挙げ、真相を究明して事件に終止符を打ちたいと願うのだ。しかし加賀は、拙速に結論を出すことを是としない。
 松宮が加賀の実力を再確認する場面がある。
 ──松宮は従兄でもある先輩刑事を見つめた。日本橋署の加賀は切れ者だという評判は捜査一課でも定着している。たしかに切れるが、最大の武器は気味が悪いほどの粘り強さだ。改めて、思い知らされた。

『麒麟の翼』は、混沌とした状況の中から不確かなものを取り除いていく過程を読む小説だ。加賀恭一郎は、一足飛びに結論に飛びつくことをしない、つじつまの合わないことを放置しない、そして可能性がある限り途中で投げ出すことをしない。努力の仕方は地道だが、細かいピースが一つずつはめこまれることによって、ジグソーパズルの図が徐々に完成していくのを見ているような、じわじわと高まる興趣がある。作者が奇手を用いることはなく、常に風は真正面から吹いてくる。つまり力強く、堂々とした小説なのである。
 
(杉江松恋)

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