【今週はこれを読め! ミステリー編】ヒトラーはシャーロキアンだった!?
文=杉江松恋
え、あのアドルフ・ヒトラーがシャーロキアンで推理マニアだったって!?
第三帝国の総統大本営である〈狼の巣〉で事件が起きた。その報告のために執務室へやってきた親衛隊少佐のフックスは、任務を終えると踵を返して立ち去ろうとする。それを呼び止めてヒトラーは言ったのである。
「出身はハンブルグかね」
と。見事に初めて見た部下の出身地を言い当てたことに賞賛の声が上がると、総統閣下は満足げな笑顔を浮かべてこうささやいた。
「初歩だよ、ワトスンくん」
田中啓文『シャーロック・ホームズたちの冒険』(東京創元社)は、SF作家として、また短篇ミステリーの名手として人気の高い作者の最新短篇集だ。収録作5作は名作のパスティーシュ(本家の構造をそのままに用いた贋作)もしくは実在する人物を登場させた歴史ミステリーで、すべて上質のパロディになっている。
冒頭に紹介した「名探偵ヒトラー」は、それを持つ者は世界を制するといわれる「ロンギヌスの槍」の盗難事件を題材としており、閉鎖的な状況にあった〈狼の巣〉でヒトラー自身がホームズ役を務める。相棒であるワトスン博士の地位に就くのがマルティン・ボルマン、というのも渋い。ボルマンは第三帝国崩壊後に一時消息不明となり、世界中に散らばったナチ戦犯たちの黒幕とも疑われた人物だ(後に死亡が確認された)。無邪気な謎解きミステリーと見せておいて、ナチスの狂気がさりげなく表現されているところも巧く、いかにも、と思わせる。あー、総統閣下はお怒りのようです!
本家シャーロック・ホームズ譚のパスティーシュは「「スマトラの大ネズミ」事件」で、ワトスン博士の失われた手稿が発見されたという趣向で物語が行われる。首切り死体が発見され、床に落下していた生首が目撃者の前で絶叫し始める、というありえない事件の謎にホームズが挑むという魅力的な内容だ。この作品もライヘンバッハ事件以降のホームズ譚の変質や、作者コナン・ドイルの作家的な資質などを重層的に組み入れた「さもありなん」とい構造を持っている。実に元手がかかった短篇なのである。
この他、吉良上野介の邸宅を襲撃した赤穂浪士がなぜか密室殺人に遭遇することになる「忠臣蔵の密室」、ラフカディオ・ハーンこと小泉八雲が『怪談』の世界さながらの不可解な事件の謎を解く「八雲が来た理由」、アルセーヌ・ルパンの老境を描く「mとd」など、収録作はどれも満足度が高い。
それらの作品に目を通した読者は、各話の掉尾に作者による「最後の一撃」が仕掛けられていることを知るだろう。それは田中啓文という作家をよく知らない人なら「なんで?」と訝しく思うはずのものである。だが、「そこがいいんじゃない!」とみうらじゅん描くギャルよろしく断言してしまおう。さすが、それでこそ田中啓文。フランス料理のデザートにあえて吉本興業作「面白い恋人」を出してしまう男だ。
(杉江松恋)