【今週はこれを読め! ミステリー編】フレドリック・ブラウンのダメ男長編『ディープエンド』

文=杉江松恋

  • ディープエンド (論創海外ミステリ)
  • 『ディープエンド (論創海外ミステリ)』
    フレドリック ブラウン,Brown,Fredric,幸恵, 圭初
    論創社
    2,200円(税込)
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 本欄ではここのところ短編集を紹介することが多かった。商業出版では埋れがちなためにどうしても贔屓してしまいたくなるのだが、今回は「短篇は上手いが長篇はどうも」という評価をくだされることが多かった(日本では)作家に肩入れしてみたいと思う。

 フレドリック・ブラウンだ。

 新刊『ディープエンド』(論創社)は彼が1952年に発表した作品である。

 地方都市の夕刊紙〈ヘラルド〉の記者サム・エヴァンズは、ある土曜日に上司から死亡事故の取材をするように指示を受けた。犠牲者の名はヘンリー・O・ウェストファル、十七歳の高校生だ。市の郊外に設置されたジェットコースターの敷地内に侵入し、車両に轢かれて死んだという。〈ヘラルド〉紙はジェットコースターを所有する施設のオーナーとは対立関係にあり、これを機に仇敵を叩いてやれ、との腹積もりであった。

 エヴァンズはさっそく取材に赴き、死んだ少年の人となりを調べ上げた。単なるベタ記事にはしない。前途有望な少年がなぜ死ななければならなかったのか、責任の所在はどこにあるのか----そうやって施設の責任問題を煽りたてるのが真の狙いだからだ。

 首尾よく原稿を書き上げたところに続報が入った。犠牲者はヘンリーではなかった。彼の財布を掏った、別の不良少年だと判ったというのである。犠牲者が優等生ではなくて街のワルだというのでは読者の同情を引くことができない。記事はボツになり、エヴァンズは腐りつつも、かねてから予定していた一週間の休暇に入った。事故についての興味が捨てきれず、彼は余暇を利用して個人的にその背景を調べ始める。

 こんな具合に話は始まる。ブラウンは校正係として働いた経験があり、作品中ではよく新聞記者が語り手として登場する。本書の場合、主人公はスキャンダルにする意図十分で取材を始めたことから事件に関わり始めるのだが、長篇の出だしとしては実に自然である。〈ヘラルド〉紙の姿勢は、煽り記事ばかり載せたがる最近の日本のマスメディアの姿を見るようでもある。たまたま妻が家を出たばかりだったため、暇だけは売るほどあった、という主人公の人物設定も上手い。このにわかやもめの状況は、後段で彼を困った事態に巻き込む原因になるのだ。不安定な状態を作り出してから物語を始めるというのは1950〜60年代に書かれたサスペンス小説の定石である。贅肉なく引き締まった小説であり、重厚長大化の傾向が強い現代作品ばかり読んでいると、逆に新鮮に感じられる。

 エヴァンズの調査はやがて、ある人物の周囲で何人も変死者が出ている、という不審な事態に行き当たる。その「ある人物」の肖像を周囲から浮き彫りにしていくのが小説の狙いだ。

 長篇作家としてのブラウンがよく扱った主題が異常心理による犯罪である。『3、1、2とノックせよ』『通り魔』『手斧が首を切りにきた』(いずれも創元推理文庫)などの作品では、人間の営みが異常者によって突然切断される悲劇、普通に見えていた人間の中に怪物が巣食っていたという驚きが実に効果的に描かれていた。反面、そうした作品では「実は○○だった」という種明かしが一発ネタのように見えてしまうことも確かで、「ブラウンは長篇作家としては今一つ」という評価はその辺から来たものだと思われる。

 本書にもやはり異常者が登場する。その描き方が淡彩の風景画のようにさらりとしているのが印象的だ。もう一つの特徴は、にわかやもめになった男の鬱屈がよく描かれているところで、そのくだりはダメ男小説として読める。主人公は腰が引けた状態のまま調査に臨んでいるのだが、ある時点で自分が深みにはまってしまっていることを知る。その展開が『ディープエンド』というタイトルの由来なのである。ダメ男はそのときどう動くのか。

 ブラウンの長篇はあと一つ、看板であった私立探偵エド・ハンター・シリーズの作品が残っている。Compliments of a Fiendというのがそのタイトルなのだが、どこかの出版社で出してくれないものだろうか。

(杉江松恋)

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