【今週はこれを読め! ミステリー編】魅力的な主人公コンビが誕生!〜マイケル・ロボサム『天使と嘘』

文=杉江松恋

  • 天使と嘘 上 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
  • 『天使と嘘 上 (ハヤカワ・ミステリ文庫)』
    マイケル ロボサム,越前 敏弥
    早川書房
    1,210円(税込)
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  • 天使と嘘 下 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
  • 『天使と嘘 下 (ハヤカワ・ミステリ文庫)』
    マイケル ロボサム,越前 敏弥
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 また一組の魅力的な主人公コンビが誕生した。

『天使と嘘』(ハヤカワ・ミステリ文庫)は、オーストラリア出身の作家マイケル・ロボサムが2019年に発表した作品だ。本作で2014年の『生か、死か』(ハヤカワ・ミステリ)に続き二度目のCWA(英国推理作家協会)の最優秀長篇賞にあたるゴールドダガーを獲得、さらにMWA(アメリカ探偵作家クラブ)のエドガー賞最優秀長篇賞最終候補作となった。

 原題はGood Girl,Bad Girlだが、邦題のほうが内容をよく表していると私は感じた。これは嘘に関する物語だからだ。二人の主人公が交替しながら視点人物を務める構成になっている。一人は臨床心理士のサイラス・ヘイヴンで、もう一人は児童養護施設から彼の里子として引き取られることになるイーヴィ・コーマックだ。二人は初めから打ち解けた間柄ではなく、はずみで里親と子という関係になったものの、互いの胸の内を探りながら相手を見極めようとしている。その緊張感が物語前半を牽引するのである。

 嘘で結びついた二人とも言える。サイラスがイーヴィを知ったのは、施設に他人の嘘を見破る特殊な能力の持ち主がいると聞かされたのがきっかけだ。その評判は偽りではなく、イーヴィは他人の心を見透かしてしまうために施設でたびたび揉め事を引き起こしていた。どうしようもなく持て余されていたところをサイラスが引き取ることになったのだ。サイラスはサイラスで、半ば崩れかけた陋屋に住み、いまだに携帯電話を持つことを拒否するという世捨て人のような暮らしを送っていた。他人に対して心を開くことが得意ではなく、率直すぎる物言いで相手を怒らせてしまうこともある。嘘を許せないイーヴィと本音でしか行動しないサイラスという組み合わせなのだ。

 サイラスはある事情からノッティンガムシャー警察のレノア・パーヴェル警部と親しく、捜査協力を求められることもある。ある日、十五歳のジョディ・シーアンが惨殺死体で発見されることから話は動き出す。ジョディがフィギュアスケートのチャンピオンだったために煽情的な報道がなされ、事件には注目が集まった。遺体には性交の痕跡があり、髪の毛には精液がかけられていた。その証拠から性犯罪の前科がある男が逮捕される。だがサイラスはその男が犯人だという確信を持てず、独自に関係者への聞き込みを続けるのである。

 前半で作者は主人公二人が同居に至る過程を描きながら、逮捕された容疑者の冤罪可能性について疑義を呈するサイラスに光を当てていく。物語の折り返し点で話の進め方に変化が生じる。サイラスを通じて事件について知ったイーヴィが独自に動き出すからだ。視点人物が二人いることの強みがここで発揮され、叙述が一時複線化する。すでに指摘する声も上がっているが、二人の関係はスティーグ・ラーソンが〈ミレニアム〉三部作で造形したミカエル・ブルムクヴィストとリスベット・サランデルのそれに似ている。二人の視点人物がそれぞれ意志を持って動くことで事件が立体的に見えてくるというのが〈ミレニアム〉シリーズの特徴だ。あれほど徹底はしていないが、イーヴィの向こうみずな行動にはらはらさせられるうちにページを繰ってしまうことになるので、この構成は成功していると言っていいだろう。

 もっともイーヴィはリスベットほどに芯の強い主人公ではない。心の中にまだ未成長の部分があるからだ。イーヴィ・コーマックという名前は便宜的に与えられたもので、本名も、年齢も実は不明である。彼女はある事件現場から発見された。男が拷問され、残酷なやり方で殺された。その家の隠し部屋に彼女は潜んでいたのである。性的虐待を受けた形跡があり、捜査陣は誘拐監禁の犠牲者だと判断して保護した。この体験で受けたと思われる心の傷を、イーヴィは露わにすることを拒む。他人に対して警戒の念を絶やさないのは、そうした過去があるからだろうと推測される。ただ、理解しようとして他人が自分の中に踏み込んでくることをイーヴィは許さないのである。心に本当の痛みを抱えた者は、傷に触れられること自体が耐えられない。

 彼女の過去に何があったのか、という謎は本書で明かされない。ようやくヒントのかけらが与えられたところで物語は終わる。2020年に発表された続篇のWhen She Was Goodが本年訳出される予定になっているが、おそらくその中ではもう少し情報が与えられることだろう。実は彼女とコンビを組むサイラスも、深い心の傷を抱えた人物である。少年時代、実の兄が自分以外の家族全員を殺害したという痛ましい過去が彼にはある。世捨て人のような生活を送っているのもおそらくはそれが原因の一つだ。主人公が唯一の肉親である兄との悲劇的な関係にある物語というとジャック・カーリイを思い出すが、あちらのシリーズでは兄弟が恩讐を超えた連携を見せる場面があった。ロボサムの意図はいかに。

 ジョディ・シーアン殺しの事件は、中途からヒラリー・ウォー『失踪当時の服装は』(創元推理文庫)を思わせる展開になっていく。感心したのは、犯人探しの興味が後半になるにしたがって強くなることだ。登場人物の限られた中で、これはなかなかできないことである。ある錯誤を使ったトリックが仕掛けられており、明かされる真相には驚きもあった。地方都市を舞台にした犯罪小説としては十分に満足できる内容である。

 上下巻だが、意外なほどに速く読めてしまう。かなりの分量を使って作者がイーヴィとサイラスの内面を描いているからで、二人の邂逅を描くこと自体が主題の小説なのである。心の痛みを知る二人はどのように互いを理解することになるのか。その興味だけで長い物語を読ませてしまう。ロボサムの手腕をお見事、とまずは称賛しておきたい。

(杉江松恋)

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