【今週はこれを読め! ミステリー編】心を掴んで離さないエドワード・ケアリー短編集『飢渇の人』

文=杉江松恋

  • 飢渇の人 エドワード・ケアリー短篇集
  • 『飢渇の人 エドワード・ケアリー短篇集』
    エドワード・ケアリー,古屋 美登里
    東京創元社
    2,310円(税込)
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 エドワード・ケアリーの短篇集が出た。

 この一言をもって本文を終わりにしてもいいくらいの大事件である。
 そう、エドワード・ケアリーの短篇集が出たのだ。
 しかも、一冊として編むには分量が足りないのだが、という翻訳者・古屋美登里の相談に応えてこの本のために六篇を書き下ろすというとてもとても贅沢な形で。

 エドワード・ケアリー『飢渇の人』(東京創元社)が出た。すごい、本当に出たんだ。

 収録作のうち今回書き下ろされた六篇は「吹溜り」「バートン夫人」「家庭で用いられる大黒椋鳥擬の歌――アネスト・アルバート・ラザフォード・ドッドが蒐集」「毛物」「パトリックおじさん」「グレート・グリート」の各作だ。このうち「バートン夫人」と「パトリックおじさん」が対のような形になっている。『堆塵館』『穢れの町』『肺都』の〈アイアマンガー三部作〉でケアリーを初めて読んだという方も多いかと思われるが、あの作品では小説の文章と作者自身が手掛けた登場人物の肖像画とが見事な呼吸で融合を果たしていた。本書収録作にもケアリーによる挿絵が入れられている。その入り方が最も効果的なのが「パトリックおじさん」である。私は全盛期の赤塚不二夫作品を連想した。

 書下ろし作品のうち「吹溜り」「毛物」といったなんだか綿埃を思わせる題名の短篇には、新型コロナ・ウイルス流行の時代だからこその空気感があり、いつの間にか身近なところに忍び寄ってきている不安、あまねく世界を覆い尽くす不快さの象徴とも読めるものが主題として描かれている。巻末近くに配された「グレート・グリート」も同様で、これはちょっとしたサプライズ・エンディングの短篇でもある。こうして書くと黒々とした印象を受けると思うのだが、極めて湿度が低い形で書かれているのがケアリー作品の特徴でもある。ここに前述の「バートン夫人」を足し、マザー・グースを黒い鳥のモチーフで上書きしたような「家庭で用いられる大黒椋鳥擬の歌――アネスト・アルバート・ラザフォード・ドッドが蒐集」と並べると、エドワード・リアのナンセンス詩を思わせる諧謔が浮かび上がってくるからおもしろい。

 荒涼としていて、でも可笑しい。

 同じ館内に住む者たちを扉の隙間から観察し続ける者の一人称で綴られる「私の仕事の邪魔をする隣人たちへ」は、かつて別題でアンソロジー『もっと厭な物語』に収められた。いわゆる〈奇妙な味〉に近い作品である。この短篇を好きな人なら「おれらの怪物」「名前のない男の肖像――わたしたちのそばにいて、たいていは地底に暮らす人たちによる伝承」の二作もお薦めだ。疎外の物語であり、「あいつら」に向ける「俺たち」の視線が描かれているのではないか、と考えると集団の閉鎖性や社会の息苦しさを描いた諷刺小説のようにも見えてくる。だが、ケアリーは読み方をこれと強制せずに開いた書き方をしているので、どのように受け止めることも可能である。

「おれらの怪物」のほうは、扉にも断られているとおり実話とされる伝承を元にしていて、突如姿を現したゴブリンを好奇心むきだしに眺める村人たちの語りで綴られる。「名前のない男の肖像」も形は似ているが、「老人が人々の写真を、名前のない人々の写真を大量に持っていたのは、それが同じように名前のない人たちがいたるところにいるという証になるからだ」という一文に私は胸を衝かれた。ケアリーの小説ではこういうことがあるからまったく油断がならない。ひとつらなりの文章の中に目を引き、心を掴んで離さない表現が隠れていて、そこに気が付いてしまうと足が止まり、何度も何度も反芻せずにはいられなくなってしまうのだ。ずっと同じところにいたくなってしまう。それがケアリー小説だ。

 巨大船の建造で湧きたった町の様子を回顧譚のような形で描く「かつて、ぼくたちの町で」は、そうした意味ではもっとも視線を惹きつけて離してくれなかった作品だ。造船の仕事が始まるや、住民たちは総力戦のような形でそれにのめり込んでいく。語り手の父も例外ではなく、ある日彼は帰宅するとこう言うのである。「つまり、おれたちの想像力はいくらでも伸び広がって、もうおれたちは以前のような人間ではない」と。船の巨大さが想像をはるかに凌駕していて、魂をそこに呑み込まれてしまったのだ。「そして後になって、父は自らに問うた。その後で、どうやって元の大きさに戻るんだろうか、と」。もはや「以前のような人間ではない」ほどに広がってしまって「どうやって元の大きさに戻る」のかもわからないほどの想像力とは。建造中の船はあまりに巨大で、「一年後には、たとえばドレスデンとかスターリングラードといった、破壊された町の姿そっくりになった」。おお、なんたる規模か。

 果てしなく繰り広げられる狂騒曲もいつかは終わるときがくる。引き潮のように祭は去るが、そこから帰って来られなくなる者もいる。建造の模様を撮影していた写真家は「視力がどんどん落ちていて、目を閉じると彼女の姿が見えるという」。彼女とはもちろん船のことだ。船は女性名詞である。ケアリー作品には無機物に愛を注ぐ人物が登場することが多い。時にそれは人間と無機物の交換や融合にまで発展することさえある。その無機物愛が壮大な規模で描かれるのが「かつて、ぼくたちの町で」だが、くだんの写真家は「間もなく目に見えるものは彼女だけになる」が「そのときが来るのが待ち遠しくてたまらな」く、それこそが「なによりの望みなのだ」という。記憶の再話が実人生と同じ重みを持つ者はケアリーの初期作品『望楼館追想』や『アルヴァとイルヴァ』などでにも登場したが、それがさりげなくここにも顔を出している。

 ここまで触れなかった収録作では「おが屑」が最もケアリーらしさが集約された物語であり、〈アイアマンガー三部作〉にも通底する構造を持っている。巻末に配された表題作は、ケアリーがどの作品よりも長い時間をかけて完成させた歴史小説『おちび』から零れ落ちたのではないかと思われる。『おちび』はフランス革命の時代を生きたマダム・タッソーの物語だが、「飢渇の人」の主人公もまた同時代を生きた実在の人物である。とてつもない肥満ゆえに見せ物となって生活の糧を得ていたポール・バタープロットが、王に献上するためパリに連れてこられた犀のルイに愛情を注ぐという物語だ。人間と犀の間に感情の交流が成立するはずはないが、心が通い合うはずのないものに執着するという一方的な関係こそが、人間の孤独を描きつづけるケアリー作品の核となるものだ。目で見るものに我を投影し、そのものが自分の心の動きを表しているのだと考える。言うまでもなく錯覚、勘違いなのだが、ケアリーはそれを否定せずに優しく見守り続ける。心はどこにある。体の内。いやいや、そんなわけはない。目で見えるからこそそこにあると信じられるのではないか。

 全十六篇。いやそれ自体が物語の香気を放つ序文もケアリーの場合は作品と考えたい。いやいや、それならこの短篇集を成立させた最大の功労者による古屋のあとがきも。序文にはケアリーによる古屋の肖像が付されており、それがあとがきと合わさると物語性を帯びて見えるようになる。親しい友と呼びかけるケアリーだが、実は古屋とはまだ一度も会ったことがないのだという。文章を通じてのみ深くつながっている小説家と翻訳家。その関係もまたなんともエドワード・ケアリー的ではないか。

(杉江松恋)

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