【今週はこれを読め! ミステリー編】恐怖の館にまっしぐら〜蔡駿『幽霊ホテルからの手紙』

文=杉江松恋

  • 幽霊ホテルからの手紙
  • 『幽霊ホテルからの手紙』
    蔡駿,舩山 むつみ
    文藝春秋
    2,145円(税込)
  • 商品を購入する
    Amazon
    HonyaClub
    HMV&BOOKS
    honto

 主人公が恐怖の館にまっしぐら。

 蔡駿『幽霊ホテルからの手紙』は古典的なプロットを使いながらも予定調和を巧みに避け、読者を未知の領域へと連れ去ってくれる圧巻のホラーだ。三部構成で書かれていて、最も分量のある第二部の主舞台となるのは幽霊客桟と呼ばれるホテルである。客桟とは日本の読者に耳慣れない言葉だが、中国の伝統的な様式を用いた宿泊施設のことだ。一時期は寂れていたが、21世紀になって再び人気が出てきた、と版元の説明が入っている。1970年代にディスカバー・ジャパンで日本の伝統的な観光地が見直されたようなものなのだろうか。

 警察官の葉蕭を、ある日おさななじみで小説家の周旋が突然訪ねてくる。彼はひどく気が昂った様子で、一つの木匣を手にしていた。その木匣に関して語るのも奇妙な話である。周旋はある日、バスの中で彼の注意を惹こうとしてくる一人の女性と出会った。木匣はその田園という女性から預かったものなのである。初対面の周旋に彼女はそれを預け、自分がいいと言うまで絶対に開けないでくれ、と釘を刺した。数日後、再び田園に会いに行った周旋は田園が急死したことを知らされる。呆然として帰宅すると、留守番電話が入っていることに気が付いた。残されていたのは田園からの伝言である。「周旋、あの木匣だけど、幽霊客桟に持っていってほしいの。場所は......」とそこで録音は切れてしまう。

 古い新聞に幽霊客桟についた記事が見つかる。1933年だから相当前のものだ。さらに調べることで、浙江省東部の西冷鎮という海辺の町にそれが存在することがわかった。木匣を届けるために幽霊客桟に行くという周旋を見送る葉蕭の胸に不安が浮かんでくる。自分は再び親友に会うことができるのだろうか、と。

 周旋が西冷鎮に到着し、実際に幽霊客桟を訪ねる場面で第一部「謎の木匣」は終わる。建物の名前を出しただけで町の人々は怯え、周旋を追い返そうとする。なんらかの理由で幽霊客桟は禁忌の対象になっているのだ。何故かを知るすべもなく周旋は現地を訪れ、その扉を開いてしまう。ここでぎょっとする展開があるのだが、いざ中に入ってみると拍子抜けさせられる。なんと幽霊客桟は今でも宿泊施設として営業していたのである。他にも滞在客がいる。投宿した周旋は、そこで起きた出来事を手紙に綴って葉蕭に送り始める。全部で十二通、書簡小説の形式で第二部は綴られていくのである。手紙が届く合間に葉蕭の視点が挿入され、彼が友を案じる気持ちや、幽霊客桟についての追加情報などが記されていく。

 幽霊客桟を舞台にした凄惨な事件が過去に起きたことが早々に明かされる。呪われた建物なのである。それ以外にもいくつかの事件が重層的に語られていく。どういうものかを明かさずにおこう。過去には複数の死者がいて、それらには共通点がある。幽霊客桟という恐怖の中心地にいる周旋よりも、外にいる葉蕭のほうが、そして手紙で連絡し合う彼らの姿を眺めている読者のほうが、現在の視点で綴られる事態と過去の事件が重なり合う部分については見通しがいいのである。物語がどういう構造かということが意味を持つ種類のホラーであり、作者は読者をある方向へと意図的に誘導している。

 第二部「幽霊客桟からの手紙」の中盤までは何が起きているのかがわからない。そのために不穏な雰囲気が徐々に高まっていくのである。周旋も傍観者に徹するしかなく、友のそうした姿を手紙を通じて葉蕭も見守ることになる。崩壊、と言ってもいい出来事が折り返し点を少し過ぎたところで起き、そこからは事態が示す様相が一変する。それまでを貫く感情が不安だとすれば、以降のそれは妄執である。ある人間が示す妄執のため、喩えるならば世界の磁場が歪み、不幸な結末に向けて配置されていた物語の諸要素が引き寄せられ始める。そうなれば加速する一方で、最後は轟然と破滅が進んでいく。作者は〈中国のスティーヴン・キング〉と呼ばれることもあるらしいが、なるほどそれを思わせる書きぶりである。

 物語の構造を積極的に開示し、読者に先を読ませることでイメージを醸成させる。それを逆用する形で蔡駿は罠を仕掛けてくるのだ。だから、読むのが好き、物語にのめりこむのが楽しい、という人ほどこの小説を楽しめるだろうと思う。びっくりの度合いも大きいはずだ。先に書いたように小説は三部構成になっていて、第三部は「恐怖小説」と題されている。そこには凝った仕掛けが準備されており、それまでとは違った興趣が込み上げてくる。つくづく構造美が好きな作者だと思う。読み終えた後に小説を思い返すと、全体はこういう形だった、あそこはそういう意味のある部品だったのか、と構造のことばかりが浮かんでくるのだ。

 蔡駿は中国を代表するスリラー作家の一人であるという。これまで邦訳がされてこなかったのが不思議なくらいで、ミステリー的な仕掛けを施した作風は日本の読者にも喜ばれるはずである。おもしろいのは読書好きを表明するような一面があることで、作中にも先行作についての言及が多い。中盤まで読んで驚いた。突如、森村誠一『野性の証明』について作中人物が滔々と語り始めたのである。なぜそういうことになるのかは伏せておくが、『野性の証明』も全体を構成する要素の一つになっているのである。そういう作家だということである。

 余談ながら『野性の証明』は高倉健主演で映画化された。薬師丸ひろ子の映画デビュー作である。当時のCMでは薬師丸の台詞「お父さん、怖いよ。何か来るよ。大勢でお父さんを殺しに来るよ」が流され、おおいに視聴者の興味を引いたものである。じわじわ怖くなるあの台詞が小説を読みながら何度も頭をよぎるので参った。『野性の証明』の恐怖がなんだか知らないものがやってくるものだとすれば、『幽霊ホテルからの手紙』はなんだか知らないものに主人公がまっしぐらに向かっていってしまう話で、ベクトルは正反対なのだけど。

(杉江松恋)

« 前の記事杉江松恋TOPバックナンバー次の記事 »