【今週はこれを読め! ミステリー編】ヘニング・マンケル最後の長編『スウェーディッシュ・ブーツ』

文=杉江松恋

  • スウェーディッシュ・ブーツ
  • 『スウェーディッシュ・ブーツ』
    ヘニング・マンケル,柳沢 由実子
    東京創元社
    2,860円(税込)
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 そうか、手触りの実感があるような生命の形を書くと、こういう小説になるのだな。

『スウェーディッシュ・ブーツ』(柳沢由実子訳/東京創元社)は2015年に没した北欧ミステリーの大家、ヘニング・マンケルが最後に発表した長篇小説である。前年の2014年に生涯唯一のエッセイ『流砂』(東京創元社)を上梓し、その中で自らが末期のがんであることを告白した。本書が刊行されたのは2015年夏のことだが、それからほどなく10月にマンケルは亡くなっている。執筆に生きた人が最後に情熱を傾けた精華が本書なのである。

 題名から察せられる方も多いと思う。本書はマンケルが2006年に発表した長篇『イタリアン・シューズ』(創元推理文庫)の続篇である。そこから八年後の物語として書かれているが、主人公であるフレドリック・ヴェリーンの年齢に変更があるなど、続篇であると同時に独立した作品としても読めるように書かれている。内容の連続性よりは、フレドリック・ヴェリーンという男の内面をそれ自体で完結したものとして書きこむことを重視したためだろう。

 ヴェリーンは元医師だが、自分の起こした医療過誤が元で職を捨て、以降は世間に背を向けるようにして生きてきた。暮らしているのは作中で〈群島〉とだけ記される場所で、作者あとがきによればこれは架空の土地であるという。友人と呼べるような存在は無きに等しく、元郵便配達人のツーレ・ヤンソンが時折訪ねてくるだけだ。ヤンソンは自分が病気だと信じ込んで元医師のフレドリックに症状の相談をしては困らせるという奇癖を持っている。また、郵便配達の現役時代には絶対に他人の手紙を盗み見ていたはずだとフレドリックは考えている。

 フレドリックにはルイースという娘がいるが、彼女の母親であるハリエットとは正式に結婚していない。ハリエットはすでにこの世になく、自分と母親を放置したフレドリックをルイースは許していない。会えば必ず言い合いになるのである。本書でもひさしぶりの再会にもかかわらず喧嘩になり、フレドリックは「なぜ私たちはこんなにへそ曲がりなのだろう」「二人とも大人なのに」「普通の人間の普通の会話ができないということはどういうことなのか?」と自分自身に呆れかえる。ルイースはいつにもまして喧嘩腰で、フレドリックを訪ねて新聞記者のリーサ・モディーンという女性がやって来ると、突如「帰れ! こっちは新聞記者などに付き合っている暇はないんだ!」と怒鳴りつけて彼女を激怒させる。当たり前である。

 小説の半分は、このぎくしゃくした親子関係を描くことに割かれている。人生が終焉に近づいたからといって物分かりよくなりはしないのだ。老境に入った人間がみんな好々爺になるわけでもない。本書のフレドリックは読者が引いてしまうかもしれないほどに偏屈で、自己中心的である。前作『イタリアン・シューズ』ではジアコネッリという腕利きの職人に作ってもらった靴が彼のこだわりを表す品として描かれたが、本作でも同様の挿話がある。冒頭で自宅が火事になって何もかも失ってしまったフレドリックは、長靴さえも両方左足用しかないというありさまで、ヤンソンから半足借りる羽目になる。そのため町の雑貨屋に行って新しいのを買おうとするのだが、そこに当たり前のスウェーデン製、トレトン社の長靴がないことに怒り、それに固執するのである。取り寄せてまで買わないで外国製で間に合わせればいいのに、と読んでいる側は思うが、スウェーデン製の長靴は火事によって突如奪われた生活の象徴でもあるのだろう。そうした形で自らの欲求にこだわり続ける七十歳の男の物語である。

 今さらりと書いたが、フレドリックの自宅が火事になるというのが本書のミステリー的な仕掛けの始まりだ。自然発火ではなくそれは放火であることがわかる。しかもフレドリックは、警察から自分が犯人として疑われていると感じるのである。火災保険をかけていたためだ。無実の罪で疑われているという怒りが、もともと内向きな彼の心をさらに閉ざしていく。果たして火をつけたのは誰なのか、という犯人当ての興味を読者に与えながら物語は進んでいく。

 特筆すべきは、作中に無数の死が埋め込まれていることだ。元医師であったフレドリック自身が体験したことや、彼の祖父や父の見聞が回想として挿入され、死に関する省察が筋運びと不可分の形で綴られていく。それがあまりに多いので、死に関する断章を先に挙げて、そこに物語を絡めるという形で書かれたのではないかと思ったほどだ。先日刊行されたドイツ作家、フェルディナント・フォン・シーラッハの『珈琲と煙草』(東京創元社)はいくつもの断章が縒り合わされて一つの物語が形作られるという小説だったが、印象はかなりそれに近い。

 いくつかの死に関する挿話を紹介しておこう。興味深いものばかりで、この箇所だけを拾い読みしていくこともできる。作家が自身の死と向かい合っている心情を汲み取ることもできるはずだ。

――(前略)その浅瀬はなぜか"天皇"と呼ばれていた。氷が厚いときでも、一見浅く見える割れ目が、浅瀬に、あるいは浅くて長い海岸近くにできることがある。馬の名前はルンメルといい、その馬を引いていたのは二十歳の若者だった。馬と若者は浅いはずの氷の割れ目に呑み込まれてしまった。(中略)翌日、氷の割れ目は閉じてしまい、馬も御者の若者も、春がきて氷が溶けるまで見つからなかったという。

――(前略)それまで私は長い間闘病している人の唸り声、苦しみのうめきを何度も聞いてきたが、あのとき、あの若者に現れた変化に伍するものは見たことがなかった。彼は私の目の前で突然大きな口を開けてまさに絶叫したのだ。その口からガムが飛び出し、私の白衣に真っすぐ飛んできた。(後略)

――(前略)そのペンは父が働いていたレストランで、ある老紳士からもらったのだった。その客は食事が終わると、ここに来るのはこれが最後になると言った。その理由は何なのか、これからどこか別のところへ引っ越すのか、父はそれを訊きはしなかった。だが数日後、父はその老紳士が自殺したと新聞で知った。猟銃で自分の頭を撃っての即死だった。(後略)

 こうした多くの死の断片が埋め込まれた物語である。フレドリックは死について思いつつも生にしがみつき、時には自分より二十歳以上若い女性のベッドにもぐりこもうとまでする。作者は決して美化することなく、醜いところは醜く彼を描く。物語の中では新しい生命が一つ誕生し、フレドリックが死との長い対話を終えたところで最後のページになる。最終行にはこう記されている。

――そして冬がやってくる。だが私はもはや暗闇を怖れてはいない。

 死についての物語は裏返しに書かれた生命の物語でもあるだろう。フレドリックがどのような境地にたどり着いたのかを知りたいと感じられた方は、ぜひ本書をお読みいただきたい。炎は燃え尽きるその瞬間まで炎であり続ける。これはヘニング・マンケル最後の炎だ。

(杉江松恋)

  • 流砂
  • 『流砂』
    ヘニング・マンケル,柳沢 由実子
    東京創元社
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  • イタリアン・シューズ (創元推理文庫)
  • 『イタリアン・シューズ (創元推理文庫)』
    ヘニング・マンケル,柳沢 由実子
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  • 『珈琲と煙草』
    フェルディナント・フォン・シーラッハ,酒寄進一
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