【今週はこれを読め! ミステリー編】今すぐ絶対読むべき短篇集〜近藤史恵『ホテル・カイザリン』

文=杉江松恋

 小説が放つほのかな光が、作者の影を浮かび上がらせている。

『ホテル・カイザリン』(光文社)は、近藤史恵がさまざまなアンソロジーなどに発表した作品を集めた個人短篇集である。『タルト・タタンの夢』(創元推理文庫)に始まる人気のグルメ・ミステリー〈ビストロ・パ・マル〉シリーズや、女性を主人公にした職業小説と謎解き小説が理想的な結合を果たした『天使はモップを持って』(実業之日本社文庫)他の〈清掃員キリコ〉シリーズなど、同一の登場人物を配した連作のイメージが強い作者だが、実はノン・シリーズ短篇の名手なのである。近藤の短篇がアンソロジーに入っていると本自体がぴしっと締まる。そういう書き手だと私は思っている。その近藤だが、シリーズものではない短篇集が出るのはひさしぶりで、二〇一二年年の『ダークルーム』(角川文庫)以来だという。ちょっと意外な気がした。

 ページを開いて読み始めたら、いきなり懐かしい感覚に包まれた。巻頭の「降霊会」という短篇である。語り手の〈ぼく〉こと南田は高校二年生、学園祭の実行委員になっているのだが家でごたごたがあったため、開催当日までの一週間は登校ができなかった。申し訳ない気持ちを抱えながらひさしぶりの校舎に足を運び、意外なものを発見する。「降霊会、行います」というポスターだ。見るからに胡散臭いが、なんと責任者は南田の幼馴染である宮迫砂美なのだという。聞けば、学園祭開催直前のごたごたの中で申請が出て、うっかり通ってしまったのだそうだ。見せかけだけの正義感を憎む南田は、自ら降霊会に参加して、何が行われているのか見届けようと考える。案の定、そこで繰り広げられていたのは、鼻白むような茶番劇だったのである。

 鳥肌が立つような感覚があり、ページを繰り続けた。短篇の切れ味というものは何か。もちろん一種類ではないだろうし、それに使われる技巧もさまざまだろうと思う。この短篇にはそれがある。よく言われるどんでん返しという構造だけでは説明がつかない。ある物事の見え方が覆される箇所があり、そこがミステリーのプロットとしては最も重要である。だが、小説が読者の心に取り憑き、寒気を催させるのはそこではないのだ。引っくり返しの後に連なる文章がそれを起こさせる。最終ページの、文章が読者の眼前に浮かび上がってくるような錯覚を覚える迫力たるや。そして最後の一行。声にならない声が喉元まで込み上げてくるような一行。これはなんだ。小説でしかありえない見事な感情の芸術だ。十分に味わった後で冒頭に戻ってみると、衝撃の効果を上げるために作者が周到な準備をしていたことがわかる。二度読むと別の驚きがある。物事の見え方がまったく違ってくるからだ。凄い凄い。凄い短篇なのだ、これは。

 冒頭で懐かしい感覚に包まれたと書いたのは、私が以前にもこの短篇を読んだことがあったからだ。本篇の初出は二〇一〇年に刊行された『青春ミステリーアンソロジー 学園祭前夜』(MF文庫ダ・ヴィンチ)である。題名通りの内容で、近藤の他には五十嵐貴久、はやみねかおる、三羽省吾、村崎友が参加した。現在は文庫だが、単行本で刊行されたときに私は読んだ。そして打ちのめされたのである。「青春ミステリー」「学園祭前夜」という題名から想像するような浮き浮きと楽しい感じや甘酸っぱさみたいなものとは正反対の世界を垣間見せられたからである。なんだこれは。こういうものを書けてしまう作家なのか、と驚いた記憶がある。近藤史恵がこれまでに発表した短篇のベストを一作選べと言われたら、私は「降霊会」を挙げるだろう。

 思わず一篇だけに肩入れしてしまった。しかしそれほどの作品なのである。「降霊会」を読むためだけに本書を買っても損はしないはずだ。もちろんそれ以外も素晴らしく、他人のものならなんでも欲しくなってしまう女性が主人公の「甘い生活」、念願の一人暮らしを始めた女性が早朝から洗濯機を回す上階の住人に悩まされる「未事故物件」など、設定を書くだけで不穏さが漂ってくる短篇が並んでいる。表題作は、不本意な結婚をしてしまい、とあるホテルに月一回泊まりに行くことだけが生きがいだった女性が主人公だ。彼女が警察から取調べを受けている場面から話は始まる。なぜ彼女は、自分の人生そのものだったホテルに火を放ったのか。その動機を問う小説で、読み進めていくと語り手の心情に胸をかきむしられるような思いがしてくる。他の人には理解できなくても、それだけが自分の生きる道だと信じて選んでしまうことがある。そうした必死さを描いた短篇だ。

 もう一篇お薦めを挙げるなら「孤独の谷」だろう。大学で風土病を専門として文化人類学を教えている主人公を、学生が訪ねてくる。その学生の育った村ではある噂が流布しているというのだ。曰く、纏谷に棲むものは、たったひとりで死ぬのだ、と。死ぬときはみなひとりだろう。しかし、たったひとりで死ぬのだ、と他人に決めつける言説には悪意がある。その言葉通り、学生の一族は彼女の父が急死した途端に離散し、散り散りばらばらになってしまった。

 この謎を解き明かすという内容で、ごく短いのに物語には相当な奥行きがある。世界の秘密を告げる扉をうっかり開けてしまったような気分になって、くらくらと眩暈がした。そしてこの小説も、どんでん返しの後の文章がいいのである。ああもう、朗読したいくらい、いい。

 なんという短篇集であろうか。なんという作家であろうか。『ホテル・カイザリン』、今すぐ絶対読むべきだとう思う。もっとノンシリーズ短篇をいっぱい書いてくれないかな、近藤さん。

(杉江松恋)

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