【今週はこれを読め! ミステリー編】2023年を代表する満点の短編集〜森川智喜『動くはずのない死体 森川智喜短編集』

文=杉江松恋

  • 動くはずのない死体 森川智喜短編集
  • 『動くはずのない死体 森川智喜短編集』
    森川 智喜
    光文社
    1,980円(税込)
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 ご注進、ご注進。2023年を代表するミステリー短篇集の一つが出たよ。

 代表する短篇集になるはずだ。たぶん。いや、きっと。絶対。

 森川智喜『動くはずのない死体 森川智喜短編集』(光文社)がその本である。五篇が収められた作品集で、最後の「ロックトルーム・ブギーマン」だけが書き下ろしだ。

 共通の設定があったり、同一キャラクターが登場したりする連作集でも、そうではないものでも、短篇集には大事な要素がある。内容の重なりがないことだ。悪い言い方をすると、使い回しだと感じられただけで一冊の価値は落ちてしまう。どの作品も粒ぞろいであれば申し分ないが、若干落ちると感じられるものがあっても、趣向がそれぞれ異なっていれば私などはかなり点が甘くなる。その意味で『動くはずのない死体』は満点だ。短篇集として満点。

 表題作は発作的に夫・克則を刺殺してしまった信原沙耶夏が主人公だ。冒頭で死の事実が明らかにされるから、犯人側の視点から描かれた、いわゆる倒叙ものである。殺してしまった、というどうにもならない事実を突きつけられた彼女は、思い切ってある行動をとる。克則の死体を残してコンビニに栄養ドリンクを買いに出かけたのだ。何をするにしても眠くて仕方なかったから。大胆すぎる外出から帰ってきた沙耶夏は仰天する。克則が生きているとしか思えない変化が起きていたからだ。まさか、と包丁でつついて確認してみるが、やはり死んでいる。怯える沙耶夏を嘲笑うように、その後も死者が蘇生したような現象が続く。

 不可能状況ミステリーと呼ぶべき一篇で、混乱した沙耶夏は必死に頭を働かせる。消去法によるその思考過程もおもしろいのだが、私がぐっと来たのは、事件とはまったく関係のない些細な手がかりと思われる事実に気づいたことで沙耶夏が真相にたどり着く点だ。ものすごく曲がるカーブというか、無関係な領域から切り込んでくるときの勢いがすごい。

 同じように状況を巡る話が「幸せという小鳥たち、希望という鳴き声」である。洋菓子メーカーを創設した鵜川二咲は、創設二周年のパーティーで着ようとしてドレスを手配したが、控室から外している間にそれを何者かに切り刻まれてしまった。誰が犯人で、どうやって部屋に出入りしたのか、というのが本篇で行われる推理の焦点である。「動くはずのない死体」ほど不可能ではないので、不可解ぐらいの謎なのだが、地に足のついた設定ながら、なかなかに難度は高い。これも意外なことから解ける。わかってしまえばなんということのない真相なのだが、それを示唆する手がかりの埋め込み方が見事なのである。正攻法の謎解き小説というべきか。

 ミステリーファンの心を捉えて離さないはずなのが「フーダニット・リセプション 名探偵耗島桁郎、虫に食われる」だ。高校生の佐野雅次には探偵小説作家の雅一という兄がいる。いまどきワープロではなく手書きという絶滅危惧種のような小説家だ。ある日雅次は、同級生の何村ゆみ子を伴って雅一不在の間に彼の仕事場を訪ねた。ところがゆみ子が中身の入ったコーヒーメイカーを引っくり返し、完成原稿を一部判読不能にしてしまったのだ。手書きだからもちろんデータは保存されていないし、写しがあるわけもない。激怒する兄を想像して絶望する雅次にゆみ子はとんでもないことを提案するのである。虫食い状態になった原稿を、推理によって復元しようというのだ。

 短篇の題名はここに由来している。読めなくなった文章を復元することなど土台無理ではないかと思うのだが、そこに挑むというのがまずおもしろい。純粋な論理で失われた言葉が戻されていく過程はスリリングであり、エドガー・アラン・ポー「黄金虫」などの暗号小説に通じる味がある。真相に行き着くまでが単純な一本道にせず、読者の思わぬところにひねりを加えた形にしてあるのが工夫で、仮定に基づいて一つひとつ推論を積み上げる形のロジックなのに、どこに落とし穴があったのか、と二人の高校生と一緒に首をひねりたくなる。

 もう一作の雑誌掲載作「悪運が来たりて笛を吹く」は、いわゆる悪魔との契約パターンのプロットだ。ある犯罪に手を染めてしまった男が、偶然にも絶対に露見しない悪運を手に入れる、ということから始まるクライム・コメディで、今度こそ、というような危機に陥ってもするりと切り抜けてしまう。どういう終わり方をするのか、と思って読んでいたら、まったく予想もしないところに着地した。物語の形としてはこれがもっとも意外だと思う。

 最後の「ロックトルーム・ブギーマン」がいちばんの実験作だろう。ブギーマンというのは住人の知らない間にベッド下などに潜んでいる都市伝説の怪人だ。ブギーマンには瞬間移動能力があるので密室も意味がない、というのが本篇の設定である。どこであろうと頭に思い浮かべるだけでバウウウウウグイイイイイとブギーマン移動できてしまう。視点人物の柿田正義は普通の人間とブギーマンの間に生まれた警察官だ。ある日彼はブギーマンの一人から瞬間移動能力を用いて人を殺したと聞かされた。その言葉通りに死体が発見され、柿田も現場を訪れる。密室状態なので、常識的な判断として自殺として処理されることになるのだが、ブギーマンである彼は現場にある異常な点を発見するのである。

 密室状態だろうがなんだろうが部屋に出入りしてしまうブギーマンが犯人なのだから、そもそも謎が成立する余地はあるのか、という疑問に駆られる。でもあるのである。そして、柿田の発見した何かに着目すれば、犯人を指摘することも可能になる。本編には「読者への挑戦状」が含まれており、純粋な論理思考を堪能できる。何もなかった場所に魔法のように仕掛けが出現する謎解きが実に魅力的だ。他の作品も楽しいが、本篇がなければ画竜点睛を欠くことになっただろう。これが入って完全体。短篇集として完璧である。世界各地にブギーマン移動をしながらその素晴らしさを知らしめたいと思う。

 バウウウウウグイイイイイイ。

(杉江松恋)

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