【今週はこれを読め! ミステリー編】鮮やかな連作短編集〜長岡弘樹『交番相談員 百目鬼巴』
文=杉江松恋
あ、これそういう小説だったのか。
長岡弘樹『交番相談員 百目鬼巴』(文藝春秋)の収録作を順番に読んでいくと、軽い驚きを覚えるはずである。そう、そういう小説なのである。どういう小説かはここでは書かない。発見の喜びを奪わないようにしたいからだ。
主人公の百目鬼巴は、某県警を定年退職し、今は非常勤で交番相談員として働いている。雰囲気の穏やかな六十代の女性だが現役時代は県警幹部も一目置くほどの切れ者だったという。「地域、交通、生活安全、警備、総務、警務とひと通り渡り歩」き「科学捜査の知識も豊富に有している」ため、刑事部から「未解決事件の捜査にあたってほしいと熱烈なお呼びが掛かっていた」そうだが本人が辞退した。第一話「裏庭のある交番」の視点人物となる平本巡査がなぜ断ったのかを聞いたところ、返ってきた答えは「ものごとをほじくり返すと、ろくなことがないから」だった。なんとも意味深である。その百目鬼が、図らずも「ものごとをほくり返す」ことになってしまうというのが、本短篇集収録作の骨子である。
代表作の一つに『教場』(小学館文庫)があるように、長岡にとって警察小説は得意分野の一つと言っていい。警察学校の世界を描いた点も珍しく、同作は注目を集めた。本作に登場する警察官も刑事部ではなく、地域の治安を守る交番で働く人々である。巻頭の「裏庭がある交番」では、交番勤務だった新人の警察官が自ら命を絶ってしまうという痛ましい事件が起きる。先輩から彼はパワハラを受けていたようであり、それを苦にしての行為とも考えられた。やがてその先輩が交番内でやはり自殺と思われる形で死んでしまう。二つの死の背景にある事情を、百目鬼は見抜くのである。
次の「瞬刻の魔」は、鉄道駅近くにある交番で勤務する屋代が語り手だ。彼が踏切にいた自殺企図者と見られる男性に声をかけると、対象はいきなり逃走を開始した。それを追跡した屋代は思わぬ事態に巻き込まれることになる。彼と同世代の神多という警察官が登場する。彼は鉄道警察隊勤務で、チョウラと呼ばれる私服捜査員となることもある。痴漢や置き引きなどの犯罪者を取り締まるためだ。こうした形の捜査が描かれるのは珍しい。小さい伏線の積み重ねによって真相が示唆される内容になっており、種明かしをされたときに驚きがある。
こんな風に少しずつ設定を変えながら交番勤務員たちが遭遇する異常事態や犯罪が描かれ、それが百目鬼によって解決されるわけである。
いちばん設定が変わっているのは五話目の「噛みついた沼」だろう。主人公は警察官ではないのだが、広報課の臨時職員として働いている渋屋潤子だ。彼女の夫である雄吾は、留置場管理課二年目の巡査長で、将来は刑事を志している。その雄吾に内示が出た。異動先は滝場地区という山間部の駐在所だった。やはり警察官だった潤子の父が二十年前に勤務したことがある。父親の異動のため、当時小学生だった潤子は、転校を強いられた。駐在所勤務の警察官は単身赴任ではなく家族と住まなければならないという決まりがあるからだ。そんな僻地に飛ばされたにも拘わらず雄吾は焦る様子もなく、あっという間に滝場に慣れたものか、休日は沼にボートを繰り出してのんびりと水上を漂っている。潤子が夫の様子を訝っているうちに変事が起きるのである。
「噛みついた沼」という題名の由来は、冒頭にカミツキガメが用水路で見つかることから来ている。TV番組などでもおなじみの外来種で、発見した場合は市役所のしかるべき部署に連絡しなければいけないのである。このカメのエピソードが思わぬことと結びつく。長岡の短篇にはA・Bとまったく違う要素が描かれ、それが合わさることで意外な真相Cを生み出すという展開のものが多い。トリックメーカーとしての引き出しの多さが長岡の魅力なのだが、読者にそれを提示するやり方が手慣れていていつも感心させられる。凝ったアイデアが、滑らかな動作で示されるのである。Cという結果を見せられた後で、A+Bにあたる工程がどのへんに仕込まれていたかを確かめるために読み返すと発見が多いはずだ。「噛みついた沼」はその手順が最も鮮やかな一作である。
タイトルに名前が挙げられているが、百目鬼巴の出番は各話ともそれほど多くない。彼女は、背景に黒衣のように控えているのである。たとえば最後の「土中の座標」では、百目鬼がある人物と郵便碁を打っているという話題が序盤で語られたあと、彼女はいったん退場する。郵便碁というのは次の一手を葉書などで相手に告げることで続けられる対局だ。姿を消したかに見えた百目鬼が再び読者の前に姿を現わすのは終盤のことだ。そして彼女は「ものごとをほじくり返す」。
冒頭で「そういう小説だったのか」と書いたのは、本連作が実は〇〇ミステリーに近い構造を持っているからである。〇〇の部分は書かない。読んで、そういうことか、と納得してもらいたいからだ。物語の背景に潜んでいた探偵が突然姿を現わすミステリーと言ってもいい。本作を読んで似たような構造の作品を連想する人も多いと思うが、SNSなどに感想を書くときは、まだ手に取ってない人のためにちょっとぼかしておいたほうがいいのではないだろうか。読者の前から姿を消している時間が多い探偵は、その不在があるからこそ存在が光る。長岡弘樹、よい探偵を創造したものである。
(杉江松恋)