【今週はこれを読め! ミステリー編】エリー・グリフィス『小路の奥の死』を読み逃すな!

文=杉江松恋

  • 小路の奥の死
  • 『小路の奥の死』
    エリー・グリフィス,上條ひろみ
    東京創元社
    1,320円(税込)
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 今年の、これは読み逃してもらいたくないな、という一冊である。

 エリー・グリフィスの長篇を読むと、こういう作品を求めているミステリー・ファンはたくさんいるだろうな、といつも感じる。特に派手なことをするわけではない、奇抜なトリックが用いられているということでもないのだけど、読むとしっかりおもしろいのだ。

 最新邦訳長篇『小路の奥の死』(上條ひろみ訳/創元推理文庫)もそういう作品だった。語りと騙りの両方で惹きつけられた。警察官らしからぬ警察官のハービンダー・カーが主役を務める連作の第三弾である。

 事件現場として描かれるのはロンドンのマナーパーク校だ。富裕層のこどもが入るパブリック・スクールではなく公立学校だが、高級住宅地であるチェルシーに住めるくらいの家庭ではないと授業料が払えないくらいには狭き門である。そこで開かれていた同窓会で、変死者が出た。死亡したのは下院議員のガーフィールド・ライスだ。遺体にはドラッグ吸引の痕跡があるので初めはその可能性も疑われるが、やがてインスリンの過剰投与が死亡であることが判明する。注射痕が臀部にあり、ドラッグ云々も偽装工作だとわかった。殺人だ。

 となれば第一に疑わしいのは同窓会の出席者である。その中には下院議員がもう一人、俳優やポップスターなどの著名人がいる中に、カーにとっては意外な人物がいた。ロンドン警察庁犯罪捜査課の部下、キャシー・フィッツハーバートだ。彼女もマナーパーク校の同窓生だったのである。

 キャシーの在学中、マナーパーク校には〈ザ・グループ〉とよばれる一派がいた。周りの人間からはお高く止まっていると言われるたぐいの集まりで、キャシーもその一人だったのである。カーの側からガーフィールド殺人の捜査が描かれるのと並行して、かつて〈ザ・グループ〉に所属していた女性たちの視点が配置され、過去についての回想とその結果としての現在の状況とが綴られていく。その中に、自身も関係者の一人であるために事件捜査からは外れているキャシーも含まれているのである。小説の冒頭に置かれているのはキャシーの視点で、彼女はこんなことを言っている。

----人を殺して忘れてしまうことは可能か? わたしに言わせればそれは可能だ。もちろん、完全に忘れることはできない。それでも、日に日に思い出さなくなっていく。

 なんとも意味深ではないか。〈ザ・グループ〉についてのキャシーの回想は、読者に意外な事実を突きつける。上司のハービンダーは知らずに捜査を続けているわけで、情報を与えられた読者は、そのことについては彼女に先んじた立場になる。この情報の先取り、登場人物であるカーからすれば遅延にあたる操作が、物語に緊張感を生み出している。

 ハービンダー・カーという女性は実家のあるサセックス警察に属していた。第一長篇『見知らぬ人』、第二長篇『窓辺の愛書家』(いずれも上條ひろみ訳。創元推理文庫)で描かれていた彼女の私生活は、警察官の主人公というイメージからは少し離れたものだったのである。ハービンダーはシーク教徒で、家には香辛料の匂いが強い料理を作って待っている両親がいる。勤務中ではないカーは携帯電話のゲームくらいしかすることがない人間で、高踏的な趣味や政治経済の話題からは距離を取っている。反・意識高い系とでも言うべきか。彼女は同性愛者であり、事件の関係者と後に深い仲になったこともあった。

 非キリスト教徒でマイノリティに分類される出自、かつ同性愛者であるという属性を作者が与えたのは、ハービンダーを警察が代表する権威構造の外に出すためだろう。といっても彼女は闘争的な性格ではなく、なにしろ非・意識高い系なので、自分の逆だと感じた相手には無条件で反感を覚えることもある。一方で、孤高を気取るような自意識もないので、たとえばちやほやされるようなことがあれば単純に喜ぶのである。どこにでもいる、極めて読者に近い存在として設定された主人公だ。

 そうした一般人に近い感覚を持っている主人公なので、彼女の言動にはそこはかとない可笑しみがある。『小路の奥の死』でハービンダーはサセックスからロンドン警視庁に異動になり、しかも犯罪捜査課のチームを任される警部になった。そうした出世は素直に嬉しいらしい。

「遺体はどこに」
「まだ現場です、マーム」ハービンダーにとって"ボス"より好きな呼び方があるとしたら、それは"マーム"だ。

 こういうところがいちいち可笑しい。また、彼女は職場でスージーという綽名を付けられていることを知る。

「どうしてスージーなの?」人種差別的なものなら訴えようと、ハービンダーは思う。
「スージー・クアトロからよ。あなたがレザージャケットを着てたから。ここの人たちの平均年齢がわかるわね」

「人種差別的なものなら訴えよう」と思う、というのがいい。このくだりは以下のような一文で締めくくられる。

----厳密に言って、ハービンダーは印象的なロックシンガーと比べられたことがそれほどいやではない。

「厳密に言って」「それほどいやではない」という言い回しが笑いを誘う装置になっている。これは訳者である上條ひろみの手柄だろう。呵々大笑ではなく、クスリと漏れるような笑いが叙述のあちこちに忍ばされている。それを漏らさず掬い取っているのだ。

 ミステリーとして重要な点を書かなければ。最初の犠牲者であるライス下院議員は、〈血を流す心臓〉を名乗る者からたびたび手紙を受け取っていた。本作の原題はBleeding Heart Yard、そういう名称の小路がロンドンには実際にあるのだ。過去と現在の照応によって物語は進んでいくように見えるのだが、この〈血を流す心臓〉が異物として間に挟まる。それによって事件の起点をどこに置くかがわからなくなってくるのだ。仮に〈血を流す心臓〉の手紙が発せられ始めた時点を過去と規定すると、〈ザ・グループ〉がマナーパーク校に在籍していた時間は大過去という扱いになる。その二つの間に何が起きて現在の人間関係が形成されたか、ということが興味の中心になるのである。さらに言えばその大過去においては、前述したように記憶が風化しつつある事実が隠されている。それらの位相が違う要素が、ハービンダーやキャシーを含む複数の視点による語りで、少しずつ明らかになっていくのが読書の興趣を誘う。

 先にグリフィスの特徴として、特に派手なことをするわけではないと書いたが、本作の結末で明かされる真相はかなり意外なものだ。そっちは見ていなかった、という方向から危険球が飛んでくる。注意深い読者でも、だいたいぶつかるはずである。どうぞお気をつけて。気をつけても絶対当たってしまうとは思うが。

(杉江松恋)

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