【今週はこれを読め! エンタメ編】平穏な日常の愛しさを描く長嶋有『トゥデイズ』

文=高頭佐和子

「お尻をくっつけて、お知り合い!」

 主人公夫婦の息子(保育園児)がこんなことを口にする。寒いギャグだ。小さな子どもだからと言って楽しんで見せるような寛容さを、普段の私は持たない。なのになぜだか愉快な気持ちになってしまい、同レベルのギャグを幼児相手にかましてみたいとすら思っている。長嶋有氏が描く日常の愛しさって、いつもこういう妙な形で、私の心に入り込んでくるのだ。

 主人公の夫婦は、郊外にある築50年のマンションに住んでいる。息子のコースケが生まれたことをきっかけに、4年前に引っ越してきた。妻の美春は旅行代理店で働いていたが、コロナ禍の影響で退職し、近所のドラッグストアでアルバイトをしている。夫の恵示はエンジニアで、勤めている会社は以前からリモートワークを導入しており、世間が通常モードになってきていても出勤は週一回程度だ。家族の仲はよく、どちらかが浮気しているとか、浪費癖があるとか、家事や育児のことで険悪になっている様子もない。保育園への送迎は交代で行い、ご近所にはちゃんと挨拶をし、積極的にではないがマンションの理事も引き受け、地域にほどよく溶け込もうとしている。もしかしたら内面には暗いものを抱えていたりするのかもしれないが、見たところ普通に幸福そうで良識があり、こう言ってはなんだが、小説の主人公としてはかなり地味な人たちである。

 朝食の時に飲むミロを間違えて買ってしまったこと、ドラッグストアの同僚との会話で知った豆知識が興味深いこと、コースケをダンス教室に連れていった時の待ち時間の35分をどう過ごすかということ、朝起きた時や保育園に送り迎えをする時の様子に、成長を感じること......。数年経ったらきっと忘れてしまうようなささやかな出来事や思ったことを、著者は見過ごさずに丁寧に描いていく。平穏な日常生活の中でも、心がざわつく事は起きる。マンションの敷地内では飛び降り自殺があり、かつて市内で起きた連続殺人事件は、住民たちの記憶から消えていない。そのことは主人公たちの生活に大きな影響は及ぼさないけれど、小さな石粒が池に投げ込まれたように、心の中に波紋が広がっていく。

 私たちの心は、特別なことが何もなくても、毎日弾んだり、揺れたり、ざわめいたり、締め付けられたり、熱くなったりしている。多くの人は、それを誰かにいちいち話したり、反芻することもないのだと思う。自分の中を流れていくそういう気持ちが、本当はすごく大切なもので、それを積み重ねていくことこそが、生きているということなんじゃないだろうか。そんなことを、考えさせてくれる小説だ。

(高頭佐和子)

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